第20話
気づけば、夏の盛りを迎えていた。陽射しは容赦なく照りつけ、アスファルトの上に濃い影が落ちている。
引っ越してきたこの街には、特別なものは何もない。駅前にあるのは、小さなパン屋とドラッグストアが一軒ずつ。古びた看板が並ぶ商店街は、昼間でもシャッターの閉まった店が多くて、どこか色の褪せた風景ばかりだった。
近くには川が流れていて、朝方は蝉の声よりも、水の音のほうが先に耳に届いた。夕方になると、どこか遠くから子どもたちの遊ぶ声が聞こえてくる。けれど、それも現実味がないくらいに遠かった。
この街には、俺たちの思い出は存在しない。誰ともすれ違わず、何も知らずに、生きていける場所。
……心のどこかで、それを求めていたのかもしれない。
前の職場とは連絡がつかなくなっていた。
いつの間にか、俺は別の施設に所属していることになっていて、そこには、何の手続きもしていないはずなのに、名前や資格、記録もきれいに揃っていた。抗うすべもなく、俺はそのまま、新しい職場に身を置いていた。
知らない建物、知らないスタッフ、初めての患者たち。けれど、誰も俺を新人扱いはしなかった。
前からいた人みたいに、当たり前のように受け入れられた。俺も、いつの間にかそれに慣れていった。笑って、指導して、報告して、帰る。何も起きていない人間として、完璧に振る舞うことができた。
だけど、時々ふと思うことがある。
……この生活って、俺だったっけ?……秋月蓮って、こういうやつだったっけ?
そうじゃなかった気がする。でも、はっきりそうだと言い切れる自信は、どこにもなかった。
紗季は……変わらなかった。あるいは、変わらないふりをしていたのかもしれない。
朝になるときちんと起きて、洗濯して、掃除をする。ときどきカーテンを開けて、「風が気持ちいいね」なんて言って、笑ってみせる。
きっと誰が見ても、ちゃんと生活をしている人間に見えるだろう。けれど、目の奥が笑っていなかった。
彼女の笑顔は、マネキンみたいに無機質だった。形だけは確かに笑っているのに、そこには、体温が抜け落ちていた。
俺は、それに気づかないふりをした。触れなければ、壊さずに済むような気がして。
それでも、時々夢に見ることがあった。
リビングで、小さな声が聞こえる。畳の上を駆ける足音。背伸びをしても、洗面台に届かない手。「パパ、おはよー」って、誰かが言った気がして、目が覚める。
目を開けたときには、よく思い出せないのに、なぜか頬が濡れている。何かを喪ったことだけは、身体が覚えているみたいに。
そうして今日もまた、日々は過ぎていく。朝が来て、仕事に行き、夜が来る。
繰り返される毎日に、不満なんてない。
けれど……何かが足りない。
それが何なのか、言葉にしようとしても、喉の奥で引っかかって出てこない。呼びかけたくても、呼びかける名前が思い出せない。
まるで最初から、そんな人間はいなかったかのように。でも、そんなはずはない。絶対にいたはずなんだ。
夜七時過ぎ。いつものように帰宅すると、部屋にはカレーの匂いが漂っていた。
ダイニングテーブルには皿が二つ、きれいに並んでいる。ありふれたレトルトの香り。
紗季はうなじに手を当て、少しだけ目を細めた。
「今日、暑すぎて溶けるかと思った」
「ほんとに。帰りにアイス買ったらほとんど溶けてる。三つも買ったのに」
「……蓮くん、おなか弱いんだから、ほどほどにね」
そんな他愛のないやりとりが、妙に心にしみた。
「でも、こうして二人で晩ごはん食べるのも、たまにはいいね」
紗季はそう言って、スプーンを口に運ぶ。
「最初は不気味だったけど……この部屋も、意外と静かで過ごしやすいし」
「……ああ。なんか……慣れちゃったな」
「うん。ここでの生活も……そんなに、悪くないかも」
その言葉に、なぜか一瞬、違和感が胸をかすめた。
たしかに、不満はなかった。毎日は穏やかで、すべてが整っている。
でも──なぜだろう。
悪くないという言い方だけが、妙に耳に残った。もっと肯定していいはずなのに、そうならない何かが、ぽつりと抜け落ちている気がした。
「……あのさ」
少しの沈黙のあと、紗季の声がそっとこぼれた。
「天音、カレーの人参、ぜったい残してたよね」
スプーンを口に運ぼうとしていた手が、ぴたりと止まった。
「うまく隠したつもりで、ごはんの下とかに。……でも、全部バレてたの」
紗季はくすっと笑った。けれどその目は、今ここにない何かを見つめているようだった。
「……あれが、かわいかったな」
俺は、返す言葉が見つからず、ただ黙っていた。空調の音が一定のリズムで続いていて、場の静けさを際立たせている。
記憶の底がほんのわずかに波立った気がしたけれど、どこを揺らしたのか、自分でもはっきりしなかった。
「……なあ、紗季。天音って……誰だっけ?」
それは、あまりにも自然に口をついて出た。
自分で発した言葉なのに、それが自分のものだという実感が、どこにもない。天音という音の並びだけが、意味を持たない響きとなって、宙を漂い続けているようだった。
そのとき、紗季の動きがふと止まった。ゆっくりと視線が上がり、かすかに揺れた瞳が、まっすぐこちらを見つめてくる。
彼女は、問い返すことも、怒ることもせず、ただ黙って、そこにいた。
やがて、紗季はスプーンをそっとテーブルに置き、何事もなかったかのような口調で言った。
「……ううん、気にしないで」
頬に一筋の涙がすべり落ちたけれど、それでも、彼女は微笑んでいた。
涙の理由が、どうしても分からない。ただ、大切なものが、自分の手から静かに離れていく気がした。
それが何だったのか、思い出せないまま、俺は黙って水を飲んだ。
* * *
朝、蝉の声で目が覚めた。
少し寝苦しかったせいか、いつもより早く起きた気がする。
キッチンを覗くと、紗季が味噌汁の味見をしていた。
小さな器にとった一口を唇に運び、ふっと優しく笑う。次に卵焼きを返し、小鉢におひたしを丁寧に盛りつける。その所作はどれも落ち着いていて、見ているだけで不思議と心が穏やかになる。
「おはよう」
声をかけると、彼女はぱっと振り向いた。
「おはよう、蓮くん。もうちょっとでできるから、座ってて」
テーブルには、卵焼き、焼き海苔、おひたし、そして味噌汁。特別なものはないけれど、紗季らしい整った朝食だった。
「すごいな。朝から、ちゃんとしてる」
「ふふ、たまにはね。今日は早く目が覚めたの」
そう言いながら、湯飲みに麦茶を注いでくれた。ガラスの表面に、細かい水滴がじわりと浮かぶ。
俺たちは向かい合って座り、箸を取った。
「……どう?卵焼き、ちょっと味変えてみたんだけど」
「うん。甘すぎなくて、いいと思う」
「よかった。蓮くん、甘いのちょっと苦手だもんね」
「覚えてた?」
「うん、なんとなくね」
そう言って笑った紗季の笑顔が、妙に印象に残った。やわらかくて、優しくて。なぜか、完成された静けさをまとっていた。
「今日は、なんか予定あるの?」
「んーん、特には。でも、ちょっとだけお出かけしようかな」
「暑いから、また日傘忘れるなよ」
「……バレてた?」
紗季は肩をすくめて、いたずらっぽく笑った。
箸を置いて、湯飲みに手を伸ばす。麦茶の冷たさが、喉を静かに通り抜けていった。
「……ねえ、蓮くん」
「ん?」
「最近、よく笑うようになったよね」
「そうか?」
「うん。前よりもずっと、やわらかい顔してる」
「それって、いいことなのか?」
「もちろん、いいことだよ」
そこでふっと会話が途切れた。扇風機の回る音と、外から聞こえる蝉の声だけが、部屋の中に残った。
「ありがとうね、蓮くん」
「え?どうした、いきなり」
「なんとなく。こうして一緒にご飯を食べたりするだけで、幸せだなって……ただ、それだけ」
そう言って、少しだけ視線をそらす。その横顔が、なぜだかとても美しく見えた。
食べ終えた皿を重ねて、紗季はキッチンへ戻っていく。その背中を眺めながら、俺は麦茶を飲み干した。彼女の口から、小さな鼻歌がこぼれる。耳に馴染みのある、どこか懐かしいメロディ。
静かな時間だった。特別なことは、なにもない。だけど、不思議と満たされていた。
俺には、彼女がいま何を考えているのか、よく分からない。それでも、こうして一緒にいられることが、ただ嬉しかった。
変わらず、隣にいてくれる。それだけで、十分だった。
* * *
蝉の鳴き声が、遠くから聞こえてくる。
夏の空はよく晴れていて、少し歩くだけで汗ばむほど。けれど、不思議と風が涼しかった。まるで、あの子が隣で歩いているみたいに、やさしく吹いてくる。
あの子は、本当に風みたいな子だったな。やわらかくて、穏やかで、いつもそばにいてくれて。
私の手を、ぎゅっと握って、「だいじょうぶ」って笑ってくれた。あのときのぬくもりが、今でも手のひらに残っている気がするのに、どうしてみんな、忘れてしまうんだろう。
蓮くんも、あの子のことを思い出せなくなった。最初は夢かと思ったし、嘘だと思いたかった。でも、何度聞いても、彼の目は揺れなかった。ぽかんとした顔で、「誰だっけ?」って。
そのとき、私は悟った。これはもう、私の中にしか残されていない世界なのだと。
……ねえ、天音。あなたは、どんな気持ちで見ていたのかな。
パパのこと、大好きだったよね。パパが笑ってくれるだけで、それだけでうれしそうにしてたよね。
──でも今はもう、パパの中にあなたの名前は残っていないの。きっと本当に、全部消えてしまったんだと思う。
このまま時が過ぎていけば、きっと私の記憶からも、あの子は少しずつ消えていくのだろう。声も、小さな手の感触も、それらすべてがやがて輪郭を失っていく。
ごめんね。ママ、どうしたらよかったのか、最後までわからなかった。
それでも、一つだけ確かなことがあるの。
──あなたを……ひとりぼっちにはしたくない。
誰にも思い出してもらえない未来に、あなたひとりが取り残されるなんて、そんなの、どうしても許せない。
だから、ママは行くね。あなたのそばに。たとえ誰にも知られなくても、誰にも届かなくても、それでも、ママだけはあなたのことを覚えていたい。
──着いた。
土手の坂をのぼると、いつもの桜の木が見えた。夏の陽射しのなか、葉を茂らせた緑の枝が、地面に柔らかな影を落としている。その根元には、小さな墓。春になれば、ここはピンクのカーペットになる。
足を止めてしゃがみ込むと、風が優しく吹き抜けた。
「……ただいま」
目を閉じ、静かに手を合わせる。
「ずっと、さみしかったよね。ママ、来たよ。今度こそ、ちゃんとあなたのそばにいるからね」
大丈夫。もう、何も怖くない。あなたの隣にいられるなら、それでいい。
「天音……」
その名を呼びかけたのは、いったい、いつぶりだっただろう。誰にも呼ばれなくなった名前を──最後に、ちゃんと呼んであげたかった。
「ありがとう、天音……ママを、待っててくれて」
そうつぶやいて、私は空を見上げた。
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