第19話
一晩経っても、あの光景が、頭から離れなかった。
すべて消えていた。あの部屋に、天音がいた痕跡は、もうひとかけらも残っていなかった。
職場に来ても、現実感がなかった。
患者と交わす言葉も、どこか夢の中の出来事みたいに遠い。カルテを開いたはずなのに、何を読んだのか思い出せない。記録を残そうとしても、ペンが止まったまま動かなくなる。目の前の誰かが笑っていても、それはもう、自分には届かない遠い出来事のようだった。
心の奥に残っていた、たったひとつの拠り所まで、静かに崩れてしまった気がした。
帰り道の空は、晴れ渡っていた。風は柔らかく頬を撫で、通りの花壇には早くも色とりどりのバラが咲き始めている。それなのに、俺の心だけが、この明るい世界から置き去りにされていた。
ただ──願わずにはいられなかった。家に帰れば、何かが戻っているかもしれない、と。あの子のスモックが、また洗濯カゴに入っていて。元気な笑い声が聞こえてきて。何かの拍子に世界が間違いを取り消して、すべてが元通りになっているかもしれない。
そんな叶うはずのない希望を胸に、坂道をのぼっていく。
いつもの帰り道。何度も何度も歩いたはずの道。けれどその足取りは、ひどくぎこちなく、地に足がつかないような頼りなさを感じさせた。漠然とした不安が、ひっそりと育っている。
やがて、見慣れた家が見えてくる。白い壁に、赤茶の屋根。すべてが変わらぬはずの風景。
けれど、不意に歩みが止まった。得体の知れないざわめきが、身体のどこかからじわりと湧き上がる。ポストの上に掲げられた表札に、目が吸い寄せられた。
そして、気づく。
そこに刻まれていたのは、「秋月」ではなかった。見知らぬ名字。記憶にない漢字の並び。
「……違う、ここは……」
いつの間にか、ポケットから鍵を取り出していた。その冷たさが、現実を突きつけるかのように指先まで伝わってくる。震える指で、鍵穴を探ろうとした──そのとき、内側から、足音が近づいてくる。
「はい?」
不意に、ドアが開いた。
現れたのは、見知らぬ男だった。Tシャツにジャージ姿、四十代半ばだろうか。俺の顔を見た瞬間、男は訝しげに眉をひそめた。
「……どちらさん?」
言葉が出てこなかった。喉の奥が詰まり、視界が滲む。呼吸すら、うまくできない。
「ここ……秋月の家ですよね?俺は、この家に……」
男は、わずかに首をかしげた。
「はあ?うちは岸本ですけど……もう十年以上ここに住んでますよ」
その声は静かだった。けれど俺には、世界がひっくり返るような、残酷な宣告に聞こえた。
「……ここは……俺たちが……天音が……」
思い出の断片が、鮮明に、しかし無秩序に頭の中で蘇る。誕生日、年賀状の撮影、、庭でビニールプールを広げたあの夏──全部、この家での出来事だった。
けれど、目の前の男は、何の感情も見せずに、淡々と告げた。
「すみません。お間違いじゃないですか?警察、呼びますよ?」
何も言えなかった。喉の奥に言葉が引っかかったまま、一歩だけ後ろに下がった。ドアが閉まる音が、世界との境界線のように耳の奥に響いた。
俺たち三人は、たしかに、ここにいたはずだった。この家で生きていたはずだった。
なのに今は、知らない誰かの時間が流れていて、俺たちの居場所は、まるごと世界から消え失せていた。まるで、最初から存在しなかったかのように。
それから、どこをどう歩いたのか、自分でもよくわからなかった。足は勝手に動き、同じ路地を何度も通り過ぎていた。そして気づけば、また元の場所へ戻っていた。
壁の向こうから、笑い声がかすかに漏れてくる。俺たちの家は、他人の生活が流れる、ただの箱にすり替わっていた。
もう長くその場に立ち尽くしていた気がする。何をどう考えても、現実との接点が見つからなかった。俺はふらりと足を動かし、坂道をくだり始めた。重い体を引きずるようにして、ただ無意識に歩く。
角をひとつ曲がったとき、前方に、見覚えのある姿があった。
「……紗季?」
吸い寄せられるように、声がこぼれる。
「……蓮くん?どうしたの……?なんか、顔色……」
「……紗季こそ。どこに行ってたんだよ」
焦燥が募り、言葉が堰を切ったようにこぼれた。
「さっき……帰ったんだ。俺たちの家に。けど、中には知らない人が住んでて……」
紗季の目が見開かれる。表情が凍ったように動かなくなる。
「うそ。だって、朝まで……普通に暮らしてたよね……」
言いかけて、彼女の声がかすれた。
「何それ……何が起きてるの……」
紗季は黙ったまま、ポシェットに手を入れた。探るような仕草のあと、取り出したのは彼女の免許証だった。そこに並ぶ文字を、食い入るように見つめている。息を呑む音が、小さく聞こえた。
「ねえ、私の住所……変わってる。なんで……?」
俺も慌てて財布から免許証を取り出し、視線を落とした。そこに記されていたのは、まったく見覚えのない住所だった。
「なんだ、これ……」
言葉にならないまま、俺の視線はそっと紗季のそれと重なった。その瞬間、押し寄せる混乱と、抗いようのない恐怖が、俺たちを襲った。
「……行ってみるしかない、よね」
紗季の声には、すべてを悟ったような静けさがあった。諦めにも似たその声の奥に、それでも前に進もうとする微かな力が宿っていた。
「たぶん……そこが、今の現実なんだと思う」
俺たちはゆっくりと歩き出した。
無言のまま駅へ向かい、行き先も確かめきれないまま、スマートフォンに残された住所をなぞるようにして、電車に乗った。
目的地に近づくにつれ、窓の外に流れる風景が、どんどん知らないものに変わっていく。
最後に降り立った駅は、小さな商店街が申し訳程度に並ぶだけの、静かな街だった。
たぶん、ここに来たのは初めてだ。……いや、間違いなく初めてのはずだった。けれど、スマートフォンの地図は確かに、この場所を指していた。俺たちの住所として。
画面の示す方角を頼りに、歩き出す。線路沿いの細い道を抜け、錆びた郵便局の前を通り過ぎ、やがて緩やかな坂道に差しかかる。
目的の建物は、古びた四階建てのマンションだった。外壁はどこかくすんでいて、郵便受けには宛名のないチラシや封筒が無造作に押し込まれている。
俺たちの部屋は、二階の突き当たりにあった。
鞄の中にあった鍵を差し込むと、なんの抵抗もなくドアが開いた。
玄関には、真新しい大人用のスリッパが二足、不自然なほどきれいに並べられている。
右手には洋間、左手には和室、そして申し訳程度のダイニングキッチン。どこにでもあるような、小さな二人暮らし用の間取りだった。ダイニングは狭くて、二人掛けのテーブルがぽつんと置かれているだけだ。
畳の部屋には、丁寧に畳まれた布団が置かれていた。壁際にはタンスがあり、中には普段着らしき服がきちんと並んでいる。
その中からシャツを一枚、手に取ってみる。色も、デザインも、俺の趣味じゃない。それでも袖を通してみると、驚くほどサイズが合っていた。背中の皮膚がざわつく。気味が悪い。整いすぎていることが、むしろ恐ろしかった。
「なんか、変な感じだね」
洋間の窓際、ぼんやり灯る室内灯の下で、紗季は立ち尽くしていた。その虚ろな目は、俺ではなく、闇に沈んだ窓の向こうを見つめていた。
「……そうだな」
ようやく言葉を返す。意味を伴わない、頼りない声だった。
「蓮くん……暮らしていけると思う……?ここで、ふたりで……」
「正直、わからない。けど……少なくとも今は、ここしかない」
それは答えになっていなかったかもしれないけれど、いまの俺には、そう言うのがやっとだった。
視線の先には、二人掛けのテーブルと椅子が静かに佇む。けれど、そこにあの子と過ごした記憶はどこにもなく、ただ空虚な空間があるだけだった。
「ちょっとだけ、横になるね」
紗季は畳の部屋に入り、布団の上にそっと腰を下ろした。膝を抱えて横たわりながら、どこか遠くを、静かに見つめている。
俺は何も考えられないまま、ただその場に座りこんだ。
静寂を裂くように、秒針の音だけが乾いた響きを刻んでいた。
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