第18話
朝は、少し眩しかった。
この季節の光は、目が覚めるほどに澄んでいて、時に少しだけ残酷でもある。
悲しみが消えたわけじゃない。ふとした拍子に胸が締めつけられることも、まだある。それでも不思議と怖くはなくなっていた。それはそこにいたという証であり、今はもういないという現実を、自分なりに受け止めたということだから。
前を向こう。この痛みを抱えたままでも進んでいいと、今は思える。むしろ、この痛みがあるからこそ、自分はまだ自分でいられる。
だから今日も、生きようと思った。誰かと関わって、日常に触れて、少しずつでも確かな手応えを積み重ねながら。
そう思える朝だった。
「秋月さん、おはようございます」
背後から、どこか緊張の混じった声が聞こえた。白衣のボタンを留めながら振り返ると、新人の田嶋がファイルを胸に抱え、気まずそうに立っていた。
「おはよう。今日もよろしくな」
「……はい。あの、えっと……」
何か言いたげなのは明らかだが、言葉がうまく続かないようだった。視線は俺の顔のあたりで定まらず、宙を泳いでいる。
「どうした?俺の顔に何かついてるか?」
「い、いえ、そうじゃなくて……あの、本当に、もう大丈夫なんですか?」
「なんだよ、まだ心配してたのか」
「……だって、先週、急に一週間も休んで……戻ってきたとき、なんていうか……死んだみたいな顔してましたし」
「言うねえ、お前は。素直すぎるだろ」
「す、すみませんっ」
田嶋は慌てて頭を下げたが、俺は手を軽く振って笑った。むしろ、そんなふうに言ってもらえるのが、ありがたかった。
「でも、ありがとな」
「え?」
「ちゃんと見てくれてたんだなって思ってさ。たぶん、あのとき、自分でも自分がどう見えてたか、よく分かってなかったから」
返事に迷っているのか、田嶋は一瞬、口を動かしかけて止まった。
「大丈夫だよ。まだ全部を吹っ切れたわけじゃないけど、ちゃんと戻ってこれたつもりだ。今日もちゃんと、患者さんの前に立てる」
田嶋はほっとしたように、小さく首を縦に振った。
「……よかったです。本当に。なんか、変なこと言ってすみません」
「いや、言ってくれてよかったよ。ありがとな」
そう言い残して、俺はリハビリ室へと歩き出した。
七時を少し過ぎて帰宅すると、台所から包丁の小気味よい音が聞こえてきた。キッチンでは、エプロン姿の紗季が、淡々と野菜を刻んでいる。
「ただいま」
声をかけると、彼女は手を止めて穏やかに微笑んだ。
「おかえり。今日は炒め物にしようと思って。野菜、お願いしてもいい?」
「いいよ。久しぶりに一緒にやろうか」
ついこのあいだまで、こうして隣に立つことは、当たり前の風景だった。でも今は、その当たり前が少しぎこちなくて、少しだけ怖い。それでも、この時間がまた戻ってきたことに、救われる思いがあった。
ふいに人参に刃を入れる音が止まった。
「……あのね。来月から、フルタイムに戻ろうかなって思ってるの」
「え?」
「私、やっぱり、ちゃんと働きたい。中途半端に守られてるの、もう嫌だから」
包丁を置いた彼女の目に、静かな決意の光が灯っている。
「いいと思うよ」
「ほんと?」
「うん。無理してるって思ったら、俺が止めるから」
「ふふ、頼もしいね」
フライパンで油が弾け、香ばしい匂いがキッチンに満ちていく。火元に立つ紗季の頬は、照り返しの熱にほんのり赤く染まっていた。
やがて、食卓につく頃には、窓の外はすっかり夜の色に変わっていた。ダイニングには、ふたりだけの時間がゆっくりと流れている。
「あ、そうだ。整理してたら見つけたの。天音の写真」
棚から取り出してきたのは、白いアルバムだった。
砂場で満面の笑みを浮かべている写真。保育園の運動会で走る姿。寝起きのぼさぼさの髪で、こちらを見上げている天音。そのひとつひとつが、まるで昨日のことのように思い出される。
「……この顔、好きだったな」
紗季が指さしたのは、天音がカレーを服につけたまま笑っている一枚。
俺も、よく覚えている。スプーンを振り回して、大はしゃぎでしゃべって、気づけばあちこちにカレーをまき散らしてた。
「ほんとに、元気な子だったよね」
「うん。ほんと、いつも笑ってたよな」
ページをめくるたびに、鮮明に記憶がよみがえってくる。あの子が生きていた瞬間を、俺たちはひとつひとつ拾い上げるように語り合った。
けれど、そのやさしい時間の中に、ふと、妙な違和感が混じった。
どのページにも、天音の姿があった。
笑って、泣いて、はしゃいで、眠って……そのすべてを、ちゃんと覚えているはずなのに。ページをめくる指が、ふと止まりそうになる瞬間が、いくつかあった。
理由は分からない。ただ、どこか空気が抜け落ちたような感覚が残った。
それでも、俺たちは笑っていた。この夜の穏やかさが、すべてを包んでくれている。そう信じたかった。
* * *
「蓮くん」
リビングから紗季の声がした。手にしていたのは、保育園の連絡ノートだった。
「……今日、連絡しておこうと思って」
「うん?」
「保育園に……ちゃんと、言わないとって思って」
その意味を理解するまでに、少し時間がかかった。
「……そっか」
「ずっと、連絡してなかったから……ほんとは、もっと早くしなきゃいけなかったんだけど」
紗季はスマートフォンを操作し、保育園の番号を押すと、リビングに張り詰めた沈黙が満ちていった。俺はキッチンで湯を沸かしながら、電話の声を、半分だけ耳に入れていた。
「……あ、はい。お世話になっております、秋月天音の母です。はい、……はい。あの、ちょっとご報告とお詫びがありまして……」
紗季の声は、いつもと変わらない優しい響きだった。だが、相手の返答を聞くうちに、表情がみるみるうちにこわばっていく。
「……え?」
紗季はスマートフォンを耳に当てたまま、凍り付いたように固まっていた。
「……え、でも……秋月……いえ、はい……そうなんですけど……」
少しずつ声が細くなる。顔から血の気が引いていくのがわかった。
「……蓮くん」
名前を呼ばれてゆっくりと歩み寄ると、紗季は通話中のスマートフォンを差し出してきた。
「在籍してないって……秋月天音なんて名前の子は、通ってないって……」
言葉の意味を飲み込むより先に、俺の手はスマートフォンをつかんでいた。画面には、保育園の名前。間違いようがない。
「……通ってないって、どういうことでしょうか?」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
「申し訳ありません。当園に秋月天音というお子さんの在籍記録はございません。入園履歴も、過去の名簿にも該当はありません。お間違いでは……?」
一瞬、息をするのを忘れていた。相手に悪意がないことは、声の調子でわかる。だからこそ、恐ろしかった。
そんなはずはない。俺たちは、毎日そこへ天音を送り届け、迎えに行き、遠足にも参加したし、発表会で歌う姿も見た。あの子は確かにそこにいて、笑って、手を振っていた。それがどうして。
俺は無言で通話を切った。
「……嘘だ」
全身から、まるで魂までが抜け落ちていくような虚無感に襲われた。
「そんなはず、ない……」
昨日、紗季と並んでアルバムを開き、あの子の笑顔を目に焼きつけたばかりだった。ページの中で、天音は確かに笑いながら、こっちに手を伸ばしていた。間違いなく、そこにいた。
気づけば、俺は足早にリビングの棚へ向かい、アルバムを引き抜いていた。ページをめくる手が、震えている。止めようとしても止まらなかった。
一枚、二枚とページをめくるたび、見慣れたはずの写真が、どこか遠くにあるような気がした。砂場の写真。ピクニックの写真。
「……あれ?」
「どうかした?」
「いや……」
写真は、ある。でも、どこか薄い。
昨日、あんなにページが分厚く感じたのに、今は指先が、あまりにもあっけなく奥まで届いてしまう。
数が減っている──そう、はっきりと感じた。ただ、どの写真がなくなったのかが、どうしても思い出せない。記憶が、砂のように指の隙間からこぼれ落ちていく。確かに見たはずなのに、思い出そうとするほど、その輪郭が曖昧になり、霞んでいく。
「……おかしい」
早く。早く確かめなきゃ。今ならまだ、戻ってくる気がする。
だが、めくっても、めくっても、思い出と枚数が釣り合わない。違う、こんなはずじゃなかった。昨日は、もっと……。
「蓮くん……これ」
紗季が手にしていたのは、テレビボードの上に飾っていた写真だった。何度も目にしてきた。三人で写った、大切な一枚。
けれど、写っていたのは、俺と紗季、ふたりだけだった。どこを見ても、天音の姿はない。
「……三人で、撮ったはず、だよね……?」
言いようのない衝動に背を押されるように、足が階段へ向かっていた。踏み出すたびに、体が熱を帯びていくのに、指先だけが妙に冷たかった。手すりを握った掌に、汗がじんわりと滲んでいるのがわかる。
ドアを開けると、そこは、天音の部屋だったはずの空間。
けれど今は──何もなかった。
白い壁、棚には日用品や書類が几帳面に並び、他には何ひとつ置かれていない。お絵かき帳も、クレヨンも、名前の刺繍が入ったスモックも、どこにも見当たらない。
俺は狂ったように部屋中を見回した。押し入れを開け、引き出しを手当たり次第に引いていく。
ない。ない。どこにも、ない。
天音のいた痕跡が、消えている。
「……なんでだよ……」
喉の奥から漏れた声が、静かすぎる部屋に反響する。誰かが記憶を、空間を、世界そのものを塗り替えたみたいだった。
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