第17話

 朝の光が、カーテン越しに柔らかく射していた。いつもと変わらないはずの風景が、今日はまるで異物のように感じられる。

 ソファに目をやると、パジャマ姿の紗季がいた。背を丸めていて、顔は見えなかったが、肩がほんの少しだけ震えていた。

 俺は黙ってコップに水を注ぎ、そっと彼女のそばに置いた。

 紗季は「ありがとう」とも「いらない」とも言わず、視線を床に落としたままだった。

 カチ、カチ、と壁の時計の音だけが、時間を刻んでいた。何か言葉をかけなければ。そう思うのに、何一つ見つからない。

「……まだね、ここにいる気がするの。あの子が」

 彼女の声は、壊れそうなくらい小さかった。否定なんて、できるはずもない。俺だって、そう思っている。

「昨日ね……冷蔵庫を開けたとき、あの子の好きなヨーグルトがあって……思わず手に取ってたの。これ買っておかないとって。……もういないのに」

 紗季の視線は、床に落ちたままだった。

「天音のこと……思い出すのが、こわい。思い出すたびに、もういないんだって……突きつけられるみたいで、すごくつらくて……。でも……忘れるのは、もっとこわい。忘れたくなんてない……」

 俺は、返す言葉を見つけられなかった。天音の声も、笑い方も、つま先で駆けてくる足音も。すべて、耳の奥に残っている。

「だから……全部、書き残しておきたいの。天音のこと。ぜんぶ……」

 紗季の声は、小さな灯のようだった。頼りなく揺れて、それでも暗闇に向かって手を伸ばそうとしている。

「……そうだな。忘れずに、いられるように……しよう」

 そうしなければ、少しずつ、何もかもが遠ざかってしまいそうだった。だから俺たちは、言葉にすがりながら、かろうじて今を踏みとどまっていた。

 紗季は立ち上がると、わずかにふらつきながら、隣の棚からノートとペンを取り出してくる。

「ねえ、最初になんて書こうか」

 振り返ったその声は、泣いたあとのようにかすれていて、それでもどこか、しっかりと前を向いていた。

「あの子じゃなくて、天音って。ちゃんと名前で書こう」

 紗季は、かすかに目を細め、そして、ノートを開き、一文字目を書き始めた。

 天音。俺たちの娘の名前。

 今ここに、その名を、確かな形で刻んでおく。

 忘れないために。忘れてしまわないように。

 *  *  *

 あれから、五日が経った。

 街はいつも通りに息づき、花が咲き、鳥が鳴き、人々は何事もないかのように日々を送っている。

 俺の中では、時間が止まったままだった。いや、正確には、止まったまま、ただ前へと流されているような感覚だった。

 天音が消えたことを、誰にも説明できなかった。警察にも、行政にも。

 だから、俺も紗季も、何も言えなかった。何も言わず、ただ、日常に戻るしかなかった。

 俺は職場に戻り、患者の笑顔に応え、リハビリの計画を立て、会議に出席した。それが、俺の仕事だった。だから続けるしかなかった。

 けれど、患者の回復を喜ぶたびに、自分の中の空白が広がっていく気がして。

 なぜ俺の娘だけが。なぜ天音だけが。仕事に集中すればするほど、その声は内側で膨らんでいった。

 陽が少し傾きはじめた午後、帰り道を紗季と二人で歩いていた。風景はどこか懐かしく、そして少しだけ寂しかった。

 紗季は立ち止まり、空を見上げた。

「……ねえ、蓮くん」

 ふいに呼ばれて、俺は足を止める。

「私ね、決めたの。ちゃんと明るく生きようって」

 紗季の声は、どこか無理をしているようで、それでも優しかった。

「そりゃあ、本当は、泣き叫びたいくらいだよ。でも……そんな私を見たら、天音、きっと困っちゃうでしょ?」

 微笑んだその顔は、どこか遠くて、俺の知っている紗季とは少し違って見える。

「ほんとは、まだ信じたくない。でもね……気づいたら、少しずつ天音がいないことに慣れてきてる自分がいるの。それが、すごく嫌で、怖くて」

 紗季は、ゆっくりと目を伏せ、唇をそっと噛んだ。

「それでも、進まなきゃいけないんだって思うの。だからせめて、形にしたい。この手で、あの子がいたって残しておきたい。私たちの記憶として。生きた証として」

 俺は、ただ黙って耳を傾けていた。彼女はその瞳の奥に、どれだけの痛みを閉じ込めているのだろうか。

「だからね……お墓を作ってあげたいんだ。ちゃんと、天音がこの世界にいたことにしたい。私たちが愛して、あの子も、私たちを愛してくれてたって。……その証を、残したい」

 言葉が出なかった。紗季の想いは、あまりにもまっすぐで、痛ましく、そして何よりも尊かった。こんなにも深く誰かを想い、悲しみに打ちひしがれながらも、涙を見せない強さを選んだ。だから俺も、ちゃんと向き合いたいと思った。

「……わかった。俺も一緒に。ちゃんと、形にしよう」

 しばらく何も言わず、ただ視線を交わすこともなく、俺たちは並んで立っていた。

 空には雲がゆっくり流れている。季節が動いていくように、心の奥でも、何かが少しずつ変わっていくのを感じていた。

「蓮くん」

「ん?」

「ありがとね。……私ね、ほんとはもう、ずっと崩れそうだった。でも、蓮くんがそばにいてくれたから……なんとか立っていられたんだと思う」

「そんなの、俺のほうこそだよ」

「……ねえ、変だよね。こんなときにありがとうだなんて」

「……いや。すごく、うれしいよ」

 会話はそこで途切れた。けれど、その沈黙のなかで、確かにあたたかいものが俺たちの間を流れていく。

 やがて、紗季が静かに口を開いた。

「行こうか。天音が好きだった、あの場所へ」

 その声に導かれるように、俺たちはゆっくりと歩き出した。

 *  *  *

 夕暮れ時。河川敷には、花を落とした枝だけが静かに並んでいた。足元には、色褪せかけた花びらが、ところどころに残されている。

「ねえ、ここにしようよ。ほら、あの子、ここの桜、大好きだったじゃない?ピンクのカーペットみたいって、はしゃいでたよね」

 桜の木の根元、天音がよくしゃがみこんで、花びらを両手いっぱいに集めていた場所だ。

 紗季が手に持っていたスコップを、静かに地面に立てる。

「……天音のこと、ちゃんと残したいから。私たちの手で、忘れないようにするの」

「ああ。それが、たとえ誰にも見つけられなくても。俺たちがここに来れば、思い出せるように」

 二人で黙々と土を掘る。無言の時間が、ただ静かに流れていく。穴は少しずつ深くなり、やがておもちゃ箱がちょうど収まるくらいの大きさになった。

 俺はリュックの奥から、ひとつの箱を取り出した。ピンク色の丸みを帯びたブリキ箱。

 天音が好きだったお菓子の空き箱で、ふたを開けるときの、ぱかっという音をやたら気に入っていた。「ぽぽちゃんのおうちにするの!」と、自分で中を拭いて、シールを貼っていたこともある。

 その箱をそっと地面に置く。

 紗季は、ぽぽちゃんを胸に抱きしめたまま、じっと見つめていた。

「ぽぽちゃん……天音のそばにいてあげてね。ひとりぼっちは、やっぱり寂しいと思うから」

 俺は、丁寧に折られた一枚の絵を取り出した。あの発表会の後、天音が誇らしげに渡してくれたものだ。

 不器用な線と、にじんだ色。パパとママと天音。全員が大きな丸で笑っていた。本当は、ずっと手元に置いておきたかった。飾って、毎日眺めていたかった。

 でも──

「……天音。これを持って行ってほしいんだ。ママもパパも、ずっと一緒にいるって。そう思ってくれたら、嬉しいからさ」

 ぽぽちゃんと絵を箱の中に入れ、蓋を閉じる。カチリと金属がかすかに鳴って、少しだけ空気が変わった気がした。

 ふたりで箱をそっと穴の底に置き、土を戻していく。少しずつ、少しずつ、何かを封じ込めるように、慎重に。

 やがて、掘った土はすべて埋め戻され、地面は元どおりのような顔をしていた。けれど、その場に満ちる空気には、二人の想いが深く刻まれていた。

 紗季は小さな丸石を拾い、埋めた場所の真上にそっと置いた。名前の代わりに、静かな印として。

 俺たちはふたり並んで、そっと膝をついた。静かに息を揃えるようにして、埋めたばかりの小さな土の丘を見つめる。土の匂いがまだほんのりと漂い、頬をかすめる風がどこか名残惜しげに揺れていた。

「……ありがとう、天音。生まれてきてくれて」

 紗季の声が、その場のすべてを包み込むように響いた。頬を一筋の涙が伝っても、彼女は泣き崩れることはなく、ただ静かに祈りを捧げていた。

 たとえ誰にも届かなくてもいい。たとえ誰にも理解されなくてもいい。

 ここに、天音がたしかに確かに存在していたということを、この手で埋め、この目で見届けたことを、ふたりで、いつまでも忘れずにいよう。

 【観測ログ:第一四七号】

 観測対象:記憶送信個体(秋月蓮)および関連個体(朝比奈紗季)

 記録時刻:四月十二日十八時二一分

 埋葬行為を確認した。

 過去ログに、これと同様の記録は存在しない。蓮と紗季が「記憶の象徴」を選び、みずからの手で土の中へと納めるのは、今回が初めてだ。

 これは、単なる喪失の確認ではない。記憶を残すという、明確な意志に基づく行動である。……わずかながら、変化が生じ始めているのかもしれない。

 存在強度は、依然として不安定。言葉、記憶、物質、複数の層において、対象の痕跡は削られつつある。収束も始まっており、世界は自然なかたちへと戻ろうとしている。

 だが、この埋葬行為は、その収束の流れには存在しなかった。観測史上、初の逸脱。

 干渉なしに生まれた、新たな変数。この行動が、どのような影響をもたらすかは、いまだ不明。

 観測は続行する。ただし、干渉の権限はない。未来を変える力も、俺にはない。

 ……それでも。

 最後まで見届けるつもりだ。せめてこの記録だけは、消えずに残ることを祈って。

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