第16話
──四月二日、月曜日。
窓の外には、やわらかな陽射しが差していた。どこかへ出かけるには、ちょうどいい天気だ。
今日からは、天音と過ごす。
リビングに向かうと、紗季はすでにキッチンに立っていた。トーストの香ばしい匂いが漂っている。
「おはよう」
「おはよう。よく眠れた?」
「まあね。紗季は?」
「うん、まあまあかな」
そんなやり取りの中で、天音の足音が廊下に響いた。ぺたぺたと裸足で駆けてきて、そのまま勢いよく抱きついてくる。
「パパーっ!!」
よろけながらも、腕の中で天音の身体を受け止める。自然と笑みがこぼれていた。
「おはよっ!」
「おはよう。今日はな、ずっとパパとママと一緒だよ」
「えっ、ほんと!? おしごと、おやすみなの!?」
目をまんまるにして飛び跳ねる天音。その無邪気な姿に、紗季もふっと表情を緩める。
「じゃあさ! 動物園いこうよー! キリンさんにあいにいくの!」
「おっ、じゃあ今日はキリンさんデートだな」
「えへへ〜!」
その後、三人で朝食をとり、支度を整えて、ゆっくりと家を出た。
午後、動物園に着いた頃には、少しだけ風が出ていた。
「キリンさん、あそこだよ!」
天音は手を引っ張りながら、駆け出すような勢いで前へ進んでいく。小さな足音と笑い声が、春の空の下に軽やかに響いた。
キリンの檻の前。天音は、まるで吸い寄せられるようにフェンスに張りつき、じっと見つめている。
「パパ、あれ見て!ベロながーい!」
「ほんとだな。天音も、あんなに舌出せるか?」
「うーん、むり〜〜!」
舌を伸ばして真似するその顔に、紗季がふっと笑った。俺もつられて、自然と頬が緩む。
こんなふうに、笑って過ごすだけでよかったんだ。そんなあまりにも単純で、ずっと忘れていた感覚が、心にしみる。
「パパ、またこようね」
「……ああ、また来よう」
そう答える俺の声は、少しだけ滲んでいた。
──四月三日、火曜日。
目が覚めると、隣の布団にはもう天音の姿がなかった。
「パパー、はやくー!」
のそのそと起きて顔を出すと、天音がパンケーキの粉の袋を手に立っていた。
「きょうは、あまねがつくるの!」
エプロン姿で得意げな顔を浮かべながら、ボウルにこねた生地を一生けんめいに流し入れていく。紗季は少し離れた場所から、その様子を見守っていた。
「すごいな、将来はシェフだな」
「ちがうもん!おとなになったら、ママといっしょにおうちにいるの!」
「そっか、じゃあパパはおよばれしてもいいかな?」
「うーん……がんばったら、ね!」
そんなやりとりをしながら、いつもの朝が始まる。
午後、近くの公園へ足を運んだ。天音はシャボン玉セットを両手に持ち、大はしゃぎで駆け回っていた。
「みてみてー!しゃぼんだま、いーっぱい!」
ふーっと吹き出されたシャボン玉が、光を受けて舞い上がる。そして空に溶け込むように、丸く、淡く、静かに消えていった。
「パパ、あそこまでとんだよ!」
天音が空を指差す。俺と紗季はベンチに並んで座り、その先を見上げた。
「ほんとだ。あれはすごいな」
「ねー、ママもやってみて〜!」
無邪気な声に、紗季もそっと微笑んで立ち上がる。
「ねえ、パパ。しゃぼんだまってね、きえるけど、たのしいね」
「……ああ、そうだな」
天音のシャボン玉が、風にのって、またひとつ遠くへ舞っていった。
──四月四日、水曜日。
「きょうは、しゃしんとろーよ!」
朝ごはんの途中、天音がそんなことを言い出した。口の端にジャムをつけたまま、にこにこ笑っている。
「写真?」
「うんっ。あまねね、ぽぽちゃんといっしょにとりたいの!」
「なるほど、今日はモデルさんか」
そう返すと、天音は得意げにポーズをとってみせた。紗季は笑いながらスマートフォンを構える。
リビングで、たくさん写真を撮った。ぬいぐるみを並べておままごとをする天音。ブロックで「おうちできたー!」と笑う天音。ベランダに出て、空を見上げる天音。どれも、変わらない日常の光景。けれど、その一瞬一瞬が、指の隙間から零れていきそうで、俺は何度も、シャッターを切った。
「ねえねえ、ママもいっしょにうつろーよ!」
天音が手を引いて、紗季を連れてくる。俺はカメラを構えて、ファインダー越しにふたりの笑顔を覗いた。
「パパもいっしょー!」
今度は俺の手が引かれる番だった。紗季がスマートフォンを構え、三人で並ぶ。
「いくよー?さん、にー、いちっ」
俺たちは、たしかにそこにいた。肩を寄せ合い、笑って、ひとつの画面に収まっていた。その画像を見つめながら、紗季がぽつりとつぶやいた。
「……ずっと、こうしていられたらいいのにね」
何気ない言葉なのに、なぜか少しだけ痛かった。
「また撮ろうね、いっぱい」
天音がぽぽちゃんをぎゅっと抱きしめながら、にこにこと笑う。
「おもいで、たくさんつくるの」
その無邪気な笑顔に、紗季の動きがふいに止まった。
「……うん。たくさん、つくろう」
──四月五日、木曜日。
リビングでは、紗季が洗濯物を畳みながら、天音とおしゃべりをしていた。
「パパのシャツ、しわしわ〜」
「それは天音が丸めたからでしょ?」
天音はぬいぐるみを何体も並べて、劇をしていた。
「ぽぽちゃんは、バスにのっておでかけしまーす!」
ソファのクッションをバスに見立てて、小さな声でナレーションを入れながら演じている。お客さん役のうさぎのぬいぐるみが転んで、ぽぽちゃんが助けるという展開だった。
「だいじょうぶですか?」
「ありがとう、ぽぽちゃん!」
紗季と目を合わせて笑う。なにも起きない、平和すぎるほどの日常。その何もない時間が、かけがえのない宝物だとはっきり分かった。
その日の夜。天音は少し早めに布団に入った。
「えほん、よんでー」
俺は「はいはい」と笑って、絵本の棚から一冊を選んだ。『きいろいことりとちいさなふくろう』森で迷子になった小鳥と、それを導くふくろうのお話。子ども向けの、やさしい話だ。
紗季は布団の端に座り、天音の髪を撫でている。
「ことりさん、どこにいくのー?」
「ふくろうさんといっしょに、おうちをさがすの」
天音は話に夢中になって、絵を覗きこむ。声を出して笑ったかと思えば、目をうるませて黙りこむ場面もあった。最後のページを閉じると、天音がそっと呟いた。
「ことりさん、よかったね……ひとりじゃなくて」
「……うん。もう寂しくないな」
天音はゆっくりとまぶたを閉じた。
「パパも、ママも、あまねも……ずっといっしょだよね」
小さな声が、布団の中から漏れる。俺はそっとその髪を撫でた。
「……そうだよ。ずっと一緒だ。天音。だいすきだよ」
「ママもね。すごく、だいすき」
天音はふふっと笑って、
「……んー……あまねも〜……」と、小さくつぶやいた。
そのまま、天音の呼吸がゆるやかになっていく。部屋の明かりを落とし、俺たちはそっと寝室を出た。
ドアを閉める前、もう一度だけ振り返る。ぽぽちゃんを胸に抱いて眠る天音の寝顔が、月の光に照らされていた。
──四月六日、金曜日。
昼過ぎ、桜並木の続く河川敷にやって来た。空にはいくつかの雲が、のんびりと流れている。一週間前に満開だった並木は、ところどころに新芽がのぞき、葉桜へと変わり始めていた。
「ねえ、パパ、ママ。ここって……あまねの一番すきなところだよ?」
振り返った天音が、にこっと笑った。
「この木の下、ピンクのおはながいっぱい降ってきて……ふわふわで、まほうみたいだったの!」
「ああ、そうだったな。去年も、ここでいっぱい拾ったよな」
「ママと拾った花びら、ぜんぶぽぽちゃんのベッドにしたの!」
「ほんとだね。あのときの天音、もう一回ふって!って空にお願いしてたっけ」
木陰にシートを敷き、三人で腰を下ろした。持ってきたおやつを広げると、天音はぽぽちゃんを膝に乗せた。
「はい、ぽぽちゃんにもおせんべい。……はんぶんこ、だよ」
天音は小さなおせんべいをそっと差し出した。ぽぽちゃんの口元にあてながら、真剣な顔をしている。
「ふふ、ぽぽちゃん、喜んでるみたい」
紗季の言葉に、天音は満足そうにうなずいて、自分の分をもぐもぐと食べ始めた。
おやつを食べ終えると、天音はシートにぽすんと寝転がった。
「ねえ、あのくも、カメさんみたいじゃない?」
「ほんとだな。……でも、あっちのは食パンに見える」
「それ、おなかすいてるだけだよ、パパ〜」
空の色も、雲のかたちも、すべてがやさしい。俺たちは特に言葉を交わすでもなく、ただ並んで空を見上げていた。
やがて、天音が体を起こし、ぽぽちゃんをシートの上に並べ始める。
「ぽぽちゃんね、日向ぼっこがしたいんだって」
「いいな、それ。今日の日差しは、ほんと気持ちいいもんな」
天音はうんうんと頷いて、ぽぽちゃんの耳をそっと撫でた。
そのとき、不意にあたたかい風が吹いた。
やわらかく包み込むようなその風は、それでもしっかりと空気を動かして、敷いていたシートの端をふわりとめくり上げた。その風に誘われるように、並木の桜がざわめき、枝先に残っていた花びらたちが、一斉に空へと舞い上がった。
陽の光を浴びながら、ひらひらと空を踊る花びら。それを追うように、天音が立ち上がった。
「まけないぞ〜!」
そう叫んで、ぽぽちゃんを抱えたまま駆け出す。右手を挙げて、花をつかまえるみたいに、草の上をまっすぐ走っていく。風に乗って、何かに導かれるように。
「待て〜!」
「天音ー、どこ行くの〜?」
俺たちも笑いながら、そのあとを追った。風が頬をかすめ、まぶしい陽射しが世界を淡くにじませていく。時間さえも緩んでいくように感じられた。
そのとき、天音がふと立ち止まり、くるりとこちらを振り返った。泣き出しそうな目をして、それでも、笑おうとしていた。
「パパー、ママー!だいすき。ありがとう!」
光のなかで、その声だけが鮮やかに残った。柔らかな陽射しを受けて、その輪郭がかすかに揺れる。
そして──ふわりと、風にさらわれるように、天音の姿はほどけていった。
「……天音?」
草の上には、ぽぽちゃんだけが転がっている。
「天音……?」
紗季の声が震える。
「……っ、天音……?あまねっ!!」
声が裏返り、紗季は駆け出した。
天音のいた場所には、風に押し流されたように草の波が広がり、陽の光を散らすきらめきが残るばかりだった。そこにあるはずの姿は、どこにもなかった。
「やだ……やだやだやだ、いやあああっ!!」
紗季の悲鳴が虚空に吸い込まれていくのを聞きながら、俺はただ、その場に立ち尽くしていた。目の前に広がる光景が現実だなんて、どうしても思えなかった。
花びらが、はらはらと落ちていく。
俺は天音がいたはずの空間へ、手を伸ばした。
……けれど、俺の手の中には、何もなかった。
何一つ──残っていなかった。
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