第15話

「ねえ、今日も手、つないでいこ?」

 その声には、いつもの甘えの中に、ほんのわずかに不安の気配が混じっていた。紗季は穏やかに笑い、天音の小さな手を握り返した。

「もちろんだよ。ママはいつでも天音といっしょ」

 まだ少し涼しい朝、二人は並んで歩き出す。いつもの登園の道。通勤バッグの重みが腕に食い込むけれど、それでも手のぬくもりだけは確かだった。

 保育園に着くと、天音は先生に元気よく挨拶し、先生は笑顔で手を振ってくれた。それを見て、ほんの少しだけ心が緩む。昨日の電話が、まるで夢だったように思えた。

「じゃあ、ママお仕事行ってくるね」

「うん、いってらっしゃい!」

 天音の手を離した瞬間、ふっと風が吹き抜けたような空白が生まれた。ぬくもりの名残を確かめるように指を閉じても、そこにはもう何もない。天音の存在がどこか遠くなったような気がして、小さな棘のような違和感が残ったままだった。

 夕方、保育園の門をくぐったその瞬間、天音が飛ぶように駆けてきた。

「ママっ!」

 何も言わず、勢いよく紗季の手を握る。その小さな手には、朝よりもずっと強い力がこもっていた。

「どうしたの?大丈夫?」

 問いかけても、天音は答えず、手を引くようにして歩き出す。そのまま急かされるように、保育園を背にして近くの公園へ向かった。

 夕暮れの空の下、遊び足りない子どもたちの声が、遠くでにぎやかに響いていた。ベンチに座ると、天音は小さな声でつぶやいた。

「……なんで、みんな、あまねのこと、むしするの?」

 胸が、ぎゅっと締めつけられる。

「えまちゃんも、せんせいも……あまねが話しかけても、だれも、こっち見てくれないの」

 声が震えていた。泣くまいと堪えているのが、表情から伝わってくる。けれど、ぽろぽろとこぼれ始めた涙は、もう止められなかった。

 紗季はたまらず、その小さな身体をそっと抱きしめた。天音の肩がかすかに震えるたび、自分の胸まで軋むように痛んだ。

「ごめんね、天音……ママ、もっとちゃんと気づいてあげなきゃいけなかったよね……」

 天音はしゃくりあげながら、紗季の胸に顔をうずめた。

「大丈夫。ママがちゃんと、そばにいるから。天音とママはずっと一緒だよ」

 そのぬくもりを抱きしめながら、心の中で、何度も、何度も繰り返していた。

 私は、絶対にあなたを手放さない。誰に何を言われても、私だけは、あなたを忘れたりしない。

 *  *  *

 満開の桜が枝先で揺れている。風に乗って舞い落ちる花びらが、舗道や芝生をやわらかく染めていく。子どもの頃によく来た公園。実家から歩いてすぐのこの場所は、今も変わらず、のどかな午後の光に包まれていた。

 天音はぽぽちゃんを抱えて芝生の上でしゃがみ込み、おままごとのような遊びに夢中だった。

 俺はその様子をぼんやりと眺めながら、七海と並んでベンチに腰をかけている。七海は片手にコンビニの缶コーヒーを持ち、昔と変わらぬ調子で笑い飛ばしていた。

「それでさあ、あのときの蓮、顔真っ赤にしてさ〜。『俺は別に、好きとかじゃないから』って。あんた、どの口が言ってんの? って思ったもん」

 ——たまには顔出しなさいよ。どーせヒマしてるんでしょ。

 そんな連絡が届いたのは、数日前のことだった。最初は少しだけ迷った。でも、紗季が「たまには気分転換しておいでよ」と笑って背中を押してくれて、結局、天音を連れて出かけることにした。

 天音も、七海に会うのは久しぶりだ。家を出るとき、ぽぽちゃんをぎゅっと抱きしめながら、「ななみちゃんに見せるの!きょうは、おしゃれさせたの」と、うれしそうに言っていた。

 七海がくるくると缶を回しながら、呟いた。

「しかしさ、不思議だよね。昔は弟ってだけで、生意気だな〜って思ってたのにさ。気づけば、ちゃんとパパやってんの」

「いや、ちゃんとやれてるかどうかは……」

「ううん、やれてるって。少なくとも、あの頃の秋月蓮から進化してるのは間違いない」

 そう言って、七海は缶コーヒーをぐいっとあおる。変わらない。俺の姉は、昔からこういう人間だった。

「ていうか、最近髪切った?ちょっと老けた?育児疲れ?」

「やかましい」

「まあでも、それもいいじゃん。父親っぽくなったってことでさ」

 ひとこと茶化したあとで、七海の視線が、少しだけ優しくなった。

「紗季ちゃんは元気?……って、今さら聞くのも変か。でもほら、前よりちょっと落ち着いた感じがするよね。大人っぽくなったっていうか……母の顔になったっていうか」

「そう、かもな」

 たぶん、この時間だけを切り取れば、どこにでもある姉弟の会話だ。天音も芝生の上で笑っているし、七海も、昔と何も変わらない。

 ……だけど、ほんの数ミリ。何かがずれていた。

 天音の笑い声が風に乗って響く。ぽぽちゃんに葉っぱを食べさせながら、「あったかいスープでーす」と言っていた。

「……天音、楽しそうだな」

 ふと口にした言葉に、七海は「ん?」とだけ返す。その視線は、空のほうを向いたままだった。七海のその素っ気なさに、胸がざわついた。

「なあ……今、天音が喋ってたの、聞こえなかった?」

「……え、なに?」

「さっき、スープでーすって。ぽぽちゃんに話しかけてただろ?」

 一瞬、七海の目が宙を泳ぐ。

「ごめん……全然聞こえてなかった。ていうか……どこにいるの?天音ちゃんって」

 その言葉が何を意味するのか、理解するのに一瞬かかった。理性が否定しようとするより早く、体が先に反応した。鼓動が耳の奥で跳ね、その余韻に重なるように、指先から熱が引いていく。

 七海の瞳は、ただ真っ直ぐに、不思議そうに俺を見つめていた。

 そのとき、天音がぽぽちゃんを抱いたまま、俺のもとへ駆けてきた。

「パパ!」

 小さな手が、俺の服の裾をぎゅっとつかむ。

「……おうち、帰りたい……」

 天音の声は震えていた。怯えたように、すがる目で七海を見上げている。

「だって、天音はここにいるだろ?」

 自分に言い聞かせるように呟いた。ここにいる。間違いなく。

 けれどそのとき、七海の顔から、すうっと血の気が引いていくのが見えた。七海は笑みの形を崩さぬまま、静かに言葉を落とした。

「……蓮、何言ってんの?」

 戸惑いも疑いもなかった。ただ、目の前の現実をありのままに告げるように。

「誰もいないじゃん、そこ」

 その瞬間、世界の縁が、静かに反転した気がした。脳が揺れ、視界の端がにじんでいく。立っているはずの地面が、かすかに傾いたように感じた。

 ふらつく体を支えるように、天音の手をぎゅっと握り直す。手を握っている。ぬくもりがある。天音はいる。それなのに、七海は。

「パパ……こわいよ……ねえ、帰ろ……?」

 天音は、小さく震えていた。服の裾をつかんでいた手が、そっと俺の指に重なる。

「……蓮。本気で言うけど、精神科行こう?知り合い、紹介するから。ね?」

 七海の声には、たしかに優しさがあった。疑いも、嘲りも、押しつけがましさもない。ただ、心から俺を案じていた。

 けれど、それがいちばん堪えた。狂っているのは、俺じゃない。狂っているのは、この世界の方だ。なのに、そんなあたりまえの言葉さえ、もう誰にも届かなかった。

 七海と別れた後、どうやって駅まで歩いたのか、自分でもよく覚えていない。俺の左手には、天音の手がある。小さくて、あたたかくて、たしかにここにある。でも七海には、その存在が見えていなかった。声も、姿も、気配すらも。

 どこにいるの?って、あいつは本気で言った。天音を目の前にして。どうして、見えない?どうして、聞こえない?

 それでも俺は、歩き続ける。手を離さないように、天音のぬくもりを何度も確かめながら。この子が、ここにいるという事実だけが、俺のすべてだった。

 夕暮れが完全に夜へと変わる頃、ようやく家の明かりが見えた。玄関の鍵を開けて中に入り「ただいま」と口にしたが、その声も、どこか上ずっていた気がする。

 天音は靴を脱ぐと、リビングをちらりと見上げ、ぽぽちゃんを抱き直して言った。

「ぽぽちゃんと、おへや行ってくるね」

 その声は、どこか無理に明るく装っているように聞こえた。

「うん。ゆっくりしておいで」

 そう返すと、天音は小さくうなずき、静かに階段をのぼっていった。二階のドアが閉まる音がして、家の中に再び静寂が戻る。

 リビングの奥、ソファの隅にいた紗季が、ゆっくりと顔を上げた。目元が赤い。泣いていたのかもしれない。

「ねえ……今日、七海さんと何があったの?」

 不意に問われて、言葉に詰まる。声は静かだったけれど、その奥に隠れている不安はすぐに伝わってきた。

「……何が、って?」

「さっきね、七海さんから……電話があったの。蓮くんが……幻覚を見てるかもしれないって……」

 俺は否定する気力も湧かず、ただ黙って、その場に立ち尽くしていた。

「天音が……他の人には、見えてないんだよね?」

 しばらく何も言えなかった。喉が乾いて、言葉がうまく出てこない。

「……たぶん、そうだと思う」

 紗季は小さく息をのんだ。瞬きの合間に、不安と痛みの色が一瞬だけ滲む。けれど、それを見せまいとするように、そっと目を伏せた。

「……この間、公園に行ったときも、レストランでも、誰も天音のこと見てなかった。保育園でも、みんなに無視されるって……あの子……泣いてた」

 そう言いながら、彼女は指をぎゅっと組み合わせた。感情を押しとどめるように、指先に力がこもっていた。

「でも、私……信じたかったんだと思う。きっと偶然だって……」

 寄り添うように、ゆっくりと紗季の隣に座った。何かを言おうとして、けれど喉の奥で言葉がほどけていく。そのまま、しばらく時だけが流れた。

「分かってたけど……認めたくなかったよな」

 ぽつりと漏らした言葉に、紗季はゆっくりと頷いた。わずかに揺れた髪が、テーブルランプの光をやさしく反射する。

 やがて、微かに息を吸う音がした。紗季の肩がわずかに揺れ、視線はそっと俺から逸れていった。こぼれ落ちそうな感情を、どうにか押しとどめるように。

「私ね、それでも笑って一緒にいたい。天音と、ちゃんと家族として、一緒に過ごしたい」

 静かな声とは裏腹に、彼女の言葉の芯には確かな意思があった。どんな結末になろうと、天音と共に生きる。その揺るぎのない覚悟が、ひしひしと伝わってきた。

「……仕事、休もうか」

 自分でも驚くほど、すぐに口をついて出た言葉だった。紗季は、はっとしたように顔を上げる。

「休もう。何もかも置いて……俺と紗季と天音で。三人で過ごそう」

「……ほんとに?」

「ああ」

 頷いた俺を見て、紗季はほんの少しだけ笑った。その笑顔は、どこか寂しげで……それでも、美しかった。

 明日からの時間が、かけがえのないものになる。俺は、そう信じていた。いや、信じたかった。

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