第14話

 午後十一時のファミレス。雨上がりの駐車場には、タイヤが水たまりをかすめるような音が、微かに響いていた。アスファルトの表面はまだ濡れていて、街の冷えた空気が、ガラス越しの光をぼんやりと滲ませている。

 客の姿はまばらで、遠くの席で食器を片づける音だけが耳に残る。二十四時間営業らしく、照明は無遠慮なほど白く、天井のスピーカーからは小さな音で、BGMが流れていた。その光景には、たしかに生活感があったが、どこか現実味のない空気が漂っていた。

 窓際の席に座り、冷めかけたブレンドの湯気をぼんやりと見ていると、入口のドアが開く音がした。振り返らずとも、誰なのかはわかっていた。

 男は無言のまま向かいの席に腰を下ろし、コートを椅子の端に引っかけてから、わざとらしく芝居がかった口調で言った。

「……で。どうした?深夜の召喚ってやつか」

「霧島……悪いな。こんな時間に……」

 霧島は、メニューを広げながら、さらに軽口を重ねた。

「マジで深刻そうな顔してるな。なに?離婚危機?浮気?それとも──」

「天音の話だ」

 霧島が眉をわずかに動かした。その表情から冗談の成分が少しだけ抜ける。

「……天音ちゃんが、どうかした?」

 小さくうなずき、言葉を探しながらゆっくりと話し始めた。

「今日の保育園で、天音が家族の絵を描いた……いや、描いたらしい。提出されてなかったけど、先生がそう言ってた」

「うん」

「でも、その絵は、ごみ箱に捨てられてたんだ。三人並んでて、たぶん俺と、紗季と、天音。真ん中にいたのが、天音だったと思う」

「それで?」

「でも……その天音の顔だけが、黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗り潰されてた」

 霧島はしばらく何も言わなかった。沈黙の中で、店内のスピーカーから流れる曲だけが、場違いに響いていた。

「……なるほど」

「笑えないよな」

「いや、笑えない。……それ、ほんとに天音ちゃんが描いたのか?」

「名前は書いてなかった。でも、どう見てもそうだった。天音が大切にしているぬいぐるみも描いてあった。天音の絵で間違いない」

「……で、なんでそんなことを?」

「わからない。本人に聞いても、描いてないって言い張るんだ。でも、先生はずっと絵を描いてたって言ってたし、その絵は掲示されずに、ごみ箱に捨てられてた」

 霧島は遠くを見るような目つきで、ぽつりとつぶやいた。

「……黒で、自分の顔を消すか」

「おかしいよな。まだ五歳だぞ?自分の顔を消す理由なんて……あるか?」

「精神的なものとか、そういう線じゃないのか?」

 それは、ごく普通の反応だった。むしろ、その普通さが妙に現実味を帯びて聞こえて、だからこそ、自分の感覚のほうが歪んでいる気がした。

「……違う。たぶん、そういうのじゃないと思う」

「どう違う?」

 俺は一度、深く息を吸い、頭の中で出来事の順をなぞるようにして、ゆっくりと語り出した。

「今日だけじゃない。……おととい、三人でプールに行ったんだ」

 霧島がわずかに姿勢を正す。

「ほんの数秒、目を離した。タオルを取ろうとして。そのあいだに天音の姿が消えてた。浮き輪は、空っぽで」

 霧島の表情が変わった。

「プール中を探した。スロープも、底も、ありったけの場所を全部。でも……どこにもいなかった。なのに気づいたら、浮き輪の中に天音がいた」

「……は?」

「ずっとここにいたよ?って、笑ってた。しかも、髪も濡れてない。顔にも、水滴がほとんどなかった」

 霧島は何も言わず、じっとこちらを見ている。

「……これって、なんなんだと思う?」

 応えはなく、霧島はただ視線を外さないまま、コップを手に取った。水をひと口含み、ゆっくりと置き直したその仕草に、さっきまでとは明らかに違う気配を感じた。

「……なあ、蓮」

「ん?」

「落ち着いて聞いてくれよ」

 言葉の端に、ふだんとは違う張りつめた響きがあった。その声に反応するように、背筋が自然と伸びる。

 霧島の目はまっすぐこちらをとらえていて、そこに揺らぎはなかった。

 どれくらいの時間が過ぎたのか、自分でもよくわからない。やがて霧島は静かに言葉を放った。

「お前、タイムリープしてるだろ?」

 その一言のあと、世界の流れがゆっくりと歪んでいくのを感じた。皿を運ぶ音も、店内の曲も、空調の唸りさえも。まるで水の中に沈んでいくように、遠ざかり、ぼやけていく。

 そして脳の奥に、忘れかけていた記憶が、勢いよく流れ込んできた。

 ──三十五歳の俺。

 ──あの夜、霧島に「やり直す方法がある」と告げられたこと。

 ──記憶を送る装置。

 ──過去へと投げ込まれた、俺の意識。

「…………っ」

 頭の奥が、じんじんと軋むように痛んだ。重たい靄が、いま、急速に晴れていく。

 ……そうだ。俺は、リープしてきたんだ。この世界は、あの現実の——やり直しだ。

 でも……なぜ、こいつが、それを知っている?

 未来の霧島が、俺を送り出した。けれど、目の前にいるこの霧島は、今の時点では、まだ知らない側のはずだ。

 じゃあ、この言葉は何だ?なぜ断定できた?

「……おい、霧島。どういう……」

 声を出した瞬間、自分の声がひどくかすれているのに気づいた。喉の奥が、ひどく乾いている。

 霧島は何も言わず、ただ、じっとこちらを見ていた。探るようでも、焦るようでもなく、まるで答え合わせでもするかのように。

「……お前、なんでそれを……知ってる?」

 絞り出すように問いかける。

「話すには、まだ少し早いかもな。でも、もう隠し通せる段階じゃないのも、確かだ」

「どういう意味だよ」

「お前が感じてる違和感。それは、あながち間違いじゃない。ただの偶然でも、子どもの気まぐれでもない。前兆ってやつだ」

「前兆?」

 霧島はゆっくりと言葉を続けた。

「リープした者は、世界の中で、わずかに擦れる。本人が気づかなくても、周りには歪みが出る。記憶、言葉、視線、感情……そういう微細な違和感として現れる。お前が見たのは、その第一波だと思っていい」

「第一波……じゃあ、これから俺たちはどうなるんだ?」

「……それは、まだ言えない」

 霧島は視線を落としたまま、しばらく言葉を選んでいるようだった。

「今、全てを話しても……それは、お前のためにならないと思ってる」

「……なんでそんなに詳しいんだよ?」

 そう言いながら、自分の声が震えていたことに気づく。知りたい。けれど、どこかでそれを聞いてはいけない気もしていた。

「それも、今の俺が語るには、まだ早すぎる」

「なんでだよ」

 霧島はゆっくりと顔を上げる。その視線が、まっすぐにこちらを射抜いた。

「俺にも、やるべきことがあるからだ」

 その一言には、深い確信があった。

 俺は、それ以上、霧島を問い詰めることができなかった。

 *  *  *

 ずっと隠し通せていると思っていた。リープしたこと。過去を変えるためにこの世界へ来たこと。全部をなかったことにして、もう一度やり直しているという事実は、誰にも知られずに済んでいるはずだった。

 けれど霧島は、まるで初めから知っていたかのように話していた。俺の行動も、この世界に生じた歪みとやらも、すべて見透かしていたかのように。

 いったい、いつからだ?どの瞬間に、俺をそういう目で見ていた?

 高校のときか。社会人になってからか。それとも──天音が生まれてからか。

 あいつは、いったい何者なんだ?

 ずっと身近にいたはずだった。くだらないことで笑い合い、悩んでいるときは、黙ってそばにいてくれた。進路のことも、紗季のことも、俺自身より真剣に考えてくれたことだってある。そんなあいつが、いまは遠く感じる。目の前にいるのに、まるで別の生き物みたいに。

 気になるのは、それだけじゃない。

「お前が見てるのは、その第一波だと思っていい」

 第一波。その言葉が、ずっとひっかかっている。

 第一波があるということは——第二波、第三波も、きっと来るということだ。そのたびに、何かが擦れて壊れていくのか?

 怖い。自分でも、何に怯えているのか分からない。ただ、紗季と天音の笑顔が、ふと浮かんだ。その笑顔が失われる未来だけは、どうしても見たくなかった。

 でも、壊れる。霧島の目が、そう告げているような気がした。

 その時の霧島は優しい顔をしていて、けれど、その奥にあるものは違っていた。冷たく、静かで、底の見えない湖面のような眼差し。あれは忠告だったのか。それとも予告だったのか。

 いつものように朝ごはんを食べて、着替えて、娘の手を握って、家を出る。何もかもいつもと変わらないはずなのに、空気の色がわずかに淡く感じられた。ほんの少しだけ、世界の輪郭が軋んでいるような感覚があった。

 陽が落ちる頃、仕事を終えて帰宅した。玄関の灯りはついていたが、家の中は妙に静かだった。

 リビングのドアを開けると、ソファに紗季が座っていた。背中を小さく丸め、膝の上で手を組んだまま、うつむいている。俺の気配を察したのか、ゆっくりと顔を上げた。

「……蓮くん」

「天音は?」

「もう寝た。今日は、なんだか疲れてたみたい……」

 紗季の視線がわずかに揺れた。

「どうした?」

 問いかけると、紗季は小さく首を横に振る。しばらく視線をさまよわせたあと、言葉を探すように声を発した。

「……さっきね。保育園から電話があったの。天音ちゃん、今日はお休みしてましたけど、どうかしたんですか?って」

 思考が一瞬止まった。今、自分が聞いた言葉の意味を、咄嗟に理解しきれなかった。

「毎日ちゃんと通ってるのに……昨日も今日も、決まった時間に送り出して……お迎えだって、私、行ったのに」

 紗季の声には、震えが混じっていた。

「それなのに……今日は来てなかったですよね?って、信じられなかった。……あの人、天音の顔を見てたはずなのに」

 膝の上に重ねた手に、ぎゅっと力が込められていくのが見えた。その手は指先が白くなるほどで、呼吸も少しずつ浅くなっていく。

「ねえ……蓮くん、私、おかしくなったのかな。見間違いだったの?でも、あの子、いたよね。そこに……ちゃんと、いたよね?」

「……大丈夫だよ」

 震える声で、そう言った。自分でも信じ切れないままの言葉だったけれど、他にかけられる言葉が見つからなかった。せめて、今はそう言うしかなかった。

 二人でそっと立ち上がる。廊下に出ると、足音が床に吸い込まれるように響いた。家の中はすっかり静まり返っている。寝室の扉の下には、夜灯の明かりがかすかに滲んでいた。

 慎重にノブへ手を伸ばし、音を立てないように扉を開いた。ほんの少しだけ開いたその先。薄暗い部屋の中、天音は小さな布団にすっぽりと収まり、穏やかな寝息を立てていた。

「……よかった」

 紗季が、ほっと息をこぼすように呟いた。

 そこに、確かに天音はいた。まるで何事もなかったかのように、眠っていた。

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