第13話
「わあーっ!」
天音のはしゃいだ声が、プールサイドに響いた。浮き輪を抱えたまま、ぴょんぴょん跳ねるように歩きながら、「パパ、はやくー!」と振り返る。
この温水プールに来るのは、初めてだった。
そこまで広くはないけれど、天井が高くて開放感がある。どこかゆったりした空気が漂っていて、休日にふらっと訪れるにはちょうどいい場所だった。
天音は小さな足でばしゃばしゃと浅瀬に入り、浮き輪をつけて、慎重に身体を浮かせる。水に慣れてきたのか、やがて天音はくるりとこちらを向き、両足をばたつかせながら笑っている。
「パパ、みてー!あし、ばたばたー!」
「おー、うまいうまい。お魚さんもびっくりだな」
「ほんと?くらげじゃないよね?」
「んー、ちょっとだけクラゲ。でも、かわいいから合格」
「やだー!」
ぷくっと頬を膨らませた天音が、勢いよく足をばたつかせる。その水しぶきが顔にかかって、俺はわざと大げさにしかめっ面をつくってみせた。
天音は声を上げて笑い、ぷかぷかと浮き輪に揺られながら回転している。まだ泳げるわけじゃないけど、今日は浮き輪でぷかぷか浮いているだけだ。水深も浅いし、俺もすぐそばにいる。だから、大丈夫。
「パパ、そっち行ってもいい?」
「ん?いいけど、ゆっくりな」
天音は、浮き輪のまま、ゆっくりと水の上を進んでいく。
「ちゃんと見ててねー!」
「見てるって」
ほんの十メートルほどの距離、水面を挟んで向き合いながら、天音が嬉しそうに手を振っていた。
ふと、プールサイドに置いたタオルを取ろうとして、ほんの一瞬後ろを向いた。それは数秒にも満たない短い時間だったはずだ。
けれど視線を戻したとき、天音の姿が──なかった。
「……あれ?」
水面が、静かに揺れていた。浮き輪だけが、空っぽのまま、ゆらゆらと漂っている。
「天音?」
冗談みたいに呼んでみた。でも、返事はない。
少し強めに、もう一度。
「天音!」
あたりを見渡しても、どこにもいない。冗談じゃない。かくれんぼでもない。
一気に血の気が引いた。そんなはずない。けど、頭の中は一瞬で最悪の想像に塗りつぶされる。
必死に、水中をのぞき込むと、水は驚くほど澄んでいた。なのに、透明すぎてどこまでも深く落ちていくような錯覚に陥る。浅いはずのプールなのに、今は底がまるで見えなかった。
目をこらして、視線を泳がせる。小さな体が沈んでいるかもしれない場所を、順に、次々に探していく。
「天音……っ!」
水中に手を差し入れた。何かに触れたくて、いや、触れてしまうのが怖くて。その狭間で、手探りで水をかき分ける。
けれど、どこにもいない。
名前を呼びながら、プールの中をぐるりと回る。心臓の音が、自分の声よりも先に、耳の奥で響いていた。
水をかき分け、浮き輪のそばへ戻った——そのとき。
「パパー!」
「天音!?」
反射的に顔を上げると、さっきまで空っぽだった浮き輪の中に、天音がいた。ゆらゆらと水の上で揺れながら、何でもない顔で。両手をふちにかけて、足をばたばたさせながら、笑っている。
「……え」
理解が追いつかなかった。ほんの今まで、そこには何もなかったはずだ。けれど今、何事もなかったかのように、天音がいる。
「どこに行ってたんだよ……」
息を整えながら問いかけた声は、わずかに震えていた。
天音はきょとんとしたまま、俺を見ている。
「あまね、ずっとここにいたよ?」
浮き輪のふちにあごを乗せて、にこっと笑う。髪は……ほとんど濡れていなかった。顔に残る水もほんのわずかで、本当に最初からそこにいたみたいに、何ひとつ乱れていなかった。
おかしい。でも、だからといって、何がどうとは言えない。
鼓動だけが、ずっと速いままだった。喉の奥がひどく乾いていて、それがようやく現実に戻ってきた証のようにも思えた。
たぶん……いや、きっと、見間違えたのだと思う。そう思うしかなかった。
それでいい。天音が、ここにいてくれるのなら──それだけで、もう十分だ。
* * *
保育園へ迎えに行く道すがら、おとといのプールのことを思い出していた。
一瞬、天音の姿が見えなくなって、本気で心臓が止まりそうになった。
結局は、浮き輪の中にすっぽり入っていただけ——という拍子抜けするオチだったけれど、あのときの焦燥だけは、まだどこかに残っている。
でも、考えすぎかもしれない。天音は元気だし、家族三人、変わらずに日々を過ごせている。
保育園の門をくぐり、インターホンを押す。
「秋月天音の父です。お迎えに来ました」
「はーい、秋月さん。今お呼びしますね」
玄関が開いて、先生が笑顔で出迎えてくれた。
「あ、おつかれさまです。今日も暑かったですね」
「ええ、ほんとに」
いつものような世間話のあと、先生がふと表情を曇らせた。少し言いづらそうに、視線を外しながら言った。
「……あの、天音ちゃん、今日ちょっと……様子が変だったかも、です」
「変?」
「はい。なんというか……」
言いよどむ先生。黙って続きを待った。
「いつも明るいじゃないですか、天音ちゃん。でも今日は、ずっと黙ってて。お昼寝のあとも、誰とも話さずに、お絵かきだけしてたんです」
「……お絵かき?」
「ええ。それも同じ絵を、何度も描いては捨てて、また描いて、って」
そのとき、園内から元気な声が響いた。
「パパー!」
いつもと変わらない笑顔で、天音がぴょこぴょこと駆け寄ってくる。先生の言っていた様子が変なんて話が、今の姿からはどうにも結びつかない。
「ほら、ちゃんと元気ですよ」
冗談めかして手を差し出すと、天音が小さな手でぎゅっと握り返してくる。
「そうなんですけどね……じゃ、また明日」
先生はどこか苦笑いを浮かべながら、園の中へと戻っていった。
天音と手をつないだまま、俺は玄関ホールの壁に目をやった。そこには、子どもたちの絵がずらりと並んでいる。「今日、みんなで描いたんだって」すれ違った保護者が、そう話していたのを思い出す。
よく見ると、絵の横にはそれぞれ名前の札が添えられていた。けれど、どこを見ても天音の名前はなかった。
「天音、今日はなにしてた?」
「えーと……」
少し考えるような顔をしてから、笑顔で答える。
「えまちゃんと、ことはちゃんとお話してたよ!」
「へぇ、おしゃべり楽しかった?」
「うん!」
返事も、笑顔も、いつもと同じ。だけど、さっき先生が言っていたことが、どうしても引っかかっていた。
「天音、今日お絵かきしたの?」
「んー?してないよ?」
俺は玄関の一角に置かれた作品提出用のバスケットに目を向けた。園児たちが帰る前に作品を入れていくための箱。そのすぐ横に、小さなごみ箱があった。紙くずの上に、雑に丸められた画用紙が乗っている。
(……まさか)
まわりに人の気配がないことを確かめてから、そっと手を伸ばした。
……あった。
何枚もの紙が、くしゃくしゃに折れ重なっている。クレヨンの色が、裏側からでもうっすらと透けて見えた。
天音は、こちらを見ていない。俺は無意識のうちに、一枚を拾い上げていた。
それは、間違いなく天音の絵だった。
青空の下、三人で並んでいる。左に大人、右にも大人、その間に小さな子ども。手にはぬいぐるみを持っている。たぶん、天音自身を描いたのだろう。
けれど、その子どもの顔だけが——黒いクレヨンで、ぐちゃぐちゃに塗り潰されていた。
線の向きが、何重にも交差している。クレヨンが押しつぶされて、紙が破れかけているところすらあった。まるでそこに顔があってはいけないとでも言うように。
俺はしばらく、言葉を失ってその場に立ち尽くしていた。
「パパ、なにしてるの?」
「……あ、いや」
慌てて紙を丸め、ごみ箱にそっと戻す。
「ゴミ拾い」
「えらーい」
笑顔でそう言う天音の声は、どこまでもいつも通りだった。
帰り道、天音と手をつないで歩く。いつもと同じ、小さな手のぬくもりが、ちゃんとそこにある。だけど、じわりと冷たいものが背中に触れたような……そんな気がしていた。
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