第12話

 アルバムをめくるたび、写真の向こうから声が聞こえる気がした。懐かしさに少し微笑みながら、けれど決して戻らない日々に、指先が止まる。

 ページの最初には、高校の卒業式。学ランの襟を少しだけ崩した自分が、照れくさそうに笑っている。隣には、優しく微笑む紗季がいた。

 あのとき、俺は振られた。苦い春だったけれど、あの痛みがなければ、きっと俺は変われなかった。

 次のページには、白いチャペル。晴れやかな光の中で、ドレス姿の紗季がこちらに手を差し出している。

 細くて、繊細な指先だった。リハビリでやっと動くようになった右手で、誓いの指輪を差し出してくれた日。あの時の涙の理由は、いまだにうまく言葉にできない。

 指が、ページをめくるたびに少しだけ震える。もう少しだけ、あの日々に触れていたいと思った。

 次のページは、新婚旅行で訪れた海辺の写真だった。はしゃぐ紗季に水をかけられた瞬間、自分の顔は……もう、どうしようもなく間抜けで、情けない表情をしている。でも端に写った紗季の笑顔は、あまりにも楽しそうで、思わずこっちまで笑ってしまった。

 ——ああ、この人と歩いていくんだ。そう思った。

 その次のページで、世界はがらりと変わる。

 天音の誕生。

 生まれたばかりの、小さな、小さな手。その手が、俺の指をぎゅっと握ってくれた、あの日の写真。写真越しでも伝わってくる。あのとき、その手に宿っていた確かなぬくもり。言葉じゃない。触れた瞬間に、たしかに生きてるって、そう思えた。

 その日から、俺たち家族は三人になった。

 生後半年。ベビーベッドで眠る天音の枕元には、くまのぬいぐるみ。

 一歳。はじめてのケーキに顔を突っ込んで、口のまわりをぐちゃぐちゃにしながら笑っていた。

 二歳。公園のブランコで紗季と手をつなぎ、「こわいけど、たのしい」と笑った天音。

 三歳。七五三の着物姿。慣れない草履にふらつきながらも、ポーズだけはやたらと決まっていた。

 四歳。はじめてお絵かきで描いてくれた家族の絵。太陽よりも大きなパパの顔に、思わず苦笑がこぼれた。

 ──そして、五歳の今。もう、カメラ越しじゃない。すぐ隣で、声を立てて笑ってくれる毎日がある。

 アルバムの最後の一枚は、昨日撮ったばかりの写真だった。テーブルの上に並んだ、手作りのクッキー。真ん中には、チョコペンで書かれた文字。

「ぱぱ、まま、あまね」

 そっとアルバムを閉じた手に、まだ微かなぬくもりが残っていた。幸せは、きっと特別なものじゃない。それはたしかに、ここにあった。

「おはようございまーす。ぽぽちゃんも、起きましたー」

 髪をぼさぼさにしたまま、天音がキッチンへとやってくる。腕の中には、毛並みが少しすり減った茶色いくまのぬいぐるみ——ぽぽちゃん。いつもどこへ行くにも連れていて、夜も一緒に眠る。天音にとって、ぽぽちゃんは、家族と同じくらい大切な存在だ。

「おはよう、天音。ぽぽちゃんもおはよう」

 紗季がフライパンを持ったまま、優しく声をかける。エプロンの紐が少し緩くて、片結びになっているのが、妙にかわいらしかった。

「パパはまだ〜?」

「ここにいるよー。はい、ヨーグルトな」

 ヨーグルトのふたを開けてテーブルに置くと、天音はぱっと顔を輝かせて言った。

「ふたの裏ぺろってしてもいい?」

「いいけど、口のまわり真っ白にするなよ?」

「へーき!今日はちゃんと気をつけるからっ」

「そういう日に限って、白くなるんだよな〜」

「ならないもんっ」

 唇を尖らせながらも、ヨーグルトのふたを大事そうに舐める。紗季はそんな天音の様子をみて、くすっと笑いながら、トーストを食卓に置いた。

「今日はちょっと焦げちゃったかも。ごめんね」

「こげパン、わたしすきだよ。さくさくで、おせんべいみたい」

「お、それ名言じゃん。じゃあ明日も焦がしてよかったのかな?」

「ううん、つぎはふつうのがいい」

 そんなささやかなやりとりに、家族のやわらなか空気が満ちていく。

「あのね、あした、ほいくえんで、おうた はっぴょうするの。『ちいさなせかい』!」

「えっ、それって……じゃあ明日、見に行けるかな……」

「蓮くん、明日午後から休みにできるの?」

「うん。午前の患者さん終わったら、すぐ行けると思う」

「やったーっ!」

 天音が椅子の上でぴょんと跳ねた拍子に、ヨーグルトのふたがひらりと落ちた。反射的に手を伸ばしかけたけれど、天音のほうが先に拾って、にこっと笑って差し出してくる。

「はい、パパ。ありがとって言うやつ」

「え、俺が言うの?」

「えへへ、じゃあ、わたしが言うね。ありがとー」

 天音の何気ない一言に、俺と紗季はふっと目を合わせて笑った。気づけば、こんなふうにありがとうをちゃんと伝えられる子になっていた。

 ほんの一言なのに、こんなにも、温かいものがこみ上げてくる。きっと、こういうのを親バカって言うんだろうな。

 賑やかな朝食の時間が終わり、いつものように規則正しい靴音が響く。

 俺はリハビリ室の白い床を踏みしめながら、スタッフの朝ミーティングに向かった。

「じゃあ、今日の外来と入院、全体の流れを確認します」

 壁のホワイトボードに磁石を走らせながら、静かな口調で話す。

 とりたてて威圧感もなければ、引きつけるようなカリスマ性もない。それでも、聞く側は自然と耳を傾けている。そんな空気が、ここにはあった。

 俺は今、作業療法士チームの主任を任されている。二年前、前任の坂井さんが定年退職したとき、驚くほどあっさりと指名された。

「他に誰がいる?あんたしかいないでしょ」

 あのときの坂井さんの言葉は、今も耳に残っている。信頼されたのか、押しつけられたのか。今となってはもう分からない。

 でも、自分なりに場を整えることには、向いているのかもしれない。強く引っ張るのではなく、誰かの不安や違和感に一足早く気づくこと。それが、自分という人間のやり方なのだと思う。

「じゃあ、朝倉さんの午後の枠、ちょっと前倒しに変更しておきますね」

「あ、助かります!山口さんの再評価も、私のほうで」

「ありがとう。……無理しすぎないでね」

 そうやって、少しずつ負荷を減らしていく。まるで、ピアノの調律みたいに。声をかけて、配置を整えて、空気の温度を見守っていく。

 自分が前に出るというよりは、チームのみんなが気持ちよく動けるように、そっと整えるほうが性に合っている。ようやく、自分の得意なことが、役に立ち始めたような気がしていた。

 もちろん、患者のリハビリ対応も現場でこなす。主任になったからといって、手を離すつもりはない。むしろ、患者と向き合っているときのほうが、自分がちゃんと自分らしくいられる気がした。

 この日は、上肢の訓練が必要な患者さんの手指運動。握る、つまむ、伸ばす、動きの一つ一つに、感覚を澄ませる。

「今日はここ、少し痛み強いですか?」

「……あ、うん。でも昨日よりは、いいかも」

「じゃあ、そのいいかもを、もう一回試してみましょうか」

 そんなやりとりの中で、ほんのわずかだけど、確実に小さな変化が生まれていく。

 役職なんて、ただの肩書きかもしれない。それでも、それをまとった自分にできることがあるのなら、やれるだけのことは、やってみたいと思った。

 誰かが前に進もうとするとき、その背中に、そっと寄り添えるような人間でありたい。そう思いながら、資料を閉じ、椅子を静かに前へ引いた。

 *  *  *

 保育園のホールには、親たちのざわめきが静かに広がっていた。

 舞台のカーテンは、まだ閉じられたままだ。前の列に立っていた紗季が、そわそわと落ち着かない様子であたりを見回している。慌てて駆け込んだ俺に気づいて、ぱっと振り返った。

「……ごめん、遅くなった」

「蓮くん!」

 小さく笑いながら、紗季が俺の腕を軽く叩く。

「もう、ほんとギリギリ。あと二分で始まるとこだったよ」

「午前の患者さんが押しちゃってさ。なんとか、タクシー飛ばしてきた」

 肩で息をしつつ、紗季の隣に腰を下ろしたそのとき、カーテンが静かに開いた。

 舞台には、色とりどりの衣装に身を包んだ園児たちが並んでいる。緊張した顔、楽しそうな顔、きょろきょろと落ち着かない顔。

 そして、その中に天音の姿があった。真ん中より、少しだけ端。表情は落ち着いていて、まっすぐ前を見ている。

 ピアノの前奏が流れはじめる。演目は、ちいさなせかい。知っているはずの曲なのに。子どもたちの声が重なっただけで、まるで、別のもののように聴こえてきた。

 天音の声は、小さい。でも隣の子の声に、そっと寄り添うように、重なっている。目立たないけど、その調和がとてもやさしかった。

「……あの子らしいね」

 ぽつりとこぼした紗季の声は、どこか誇らしげで、あたたかかった。

 発表会が終わると、園庭に出た天音が、こっちに向かって走ってきた。

「パパー!ママー!みてくれた?」

「もちろん。ばっちり見たぞ」

「すっごく上手だったよ」

 天音は得意げに笑って、ポケットから何かを取り出した。

「これ、あげる」

 差し出されたのは、折りたたまれた画用紙だった。ゆっくりと開くと、クレヨンと絵の具で描かれた虹。その下には、にこにことした三つの丸い顔が並んでいた。

「これね、あまねと、パパと、ママ!」

「すごい……わたしたち、ちゃんとらしく描けてる」

 紗季が、頬を緩めながらつぶやく。

「あと、おてがみもあるよ」

 今度は、小さく折られた白い紙だった。覚えたてのひらがなが並んでいる。

 ぱぱとままへ

 あまねはうたえてたのしかったです

 きょうのこと、ずっとわすれたくないな

 ありがとう

 あまねより

「……うれしいな、これ」

 思わず目を細めると、天音がぽつりと口にした。

「この絵ね、ゆめのなかでもかいたことある気がするの」

「夢の中で?」

「うん。おんなじの。パパとママと、あまね。みんなで、にこにこしてた」

 そう言いながら、天音はぽぽちゃんの耳をぴょこぴょこと動かして笑った。

 その仕草がなんだか愛おしくて、心がじんわりとあたたかくなっていくのを感じた。

 帰り道、三人並んで緩やかな坂道をのぼっていく。天音は、ぽぽちゃんをぶんぶん振り回しながら、上機嫌で歌を口ずさんでいた。

 ポケットの中で、俺はそっと、折りたたまれた手紙の感触を確かめた。それは、あたたかくて、娘の手を握っているみたいだった。

 晩ごはんを食べ終えて、天音はぽぽちゃんと一緒に布団へ入った。

 リビングには、食後の気だるさとテレビの音がぼんやりと漂っている。キッチンの片付けも一段落して、ようやく家の中に静けさが戻ってきた。照明を少し落とすと、部屋の空気がほんの少しやわらいだ気がした。

「天音、もう寝た?」

「うん。一人で寝ちゃった」

「そっか。最近、自分のこと、全部やろうとするよな。朝も一人で靴下はいてた」

「ね、それ」

 紗季は、小さくため息をこぼした。

「成長してるって、ちゃんとわかってる。うれしいんだよ。でも……なんか、少しずつ、手が届かなくなっていくような気がして」

 俺は、しばらく返事をしなかった。言葉を探したけど、しっくりくるものが見つからない。

「でも、ちゃんと寂しいって思えるのは、すごいことだよ」

「……うん」

 ふと、冷蔵庫の扉に貼られた一枚の紙が目に入る。今日天音にもらった、俺たち三人の絵だ。

 大きな顔のパパ。手をつないだママ。真ん中には、満面の笑みを浮かべた天音。ぐにゃぐにゃのクレヨンの線なのに、不思議と、ちゃんと自分たちに見えた。

「あの絵、もうしばらく飾っとこうか」

「うん……ねぇ蓮くん」

 紗季が、何かを言いかけて、言葉に詰まる。

「ううん、なんでもない。私たち……幸せだね」

 そのなんでもないの中に、いくつもの想いが込められていることを、俺は知っていた。だからそれ以上は、聞かなかった。

 絵の中の三人は、手をつないで、笑っている。

 でも、どうしてだろう。今のこの幸せが、ほんの少しだけ、怖いと思ってしまった。

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