第2章
第11話
深夜のワンルームは、まるで音が死んだような静けさだった。
白く光るモニターの前で、霧島悠一は時間が止まったかのように固まっていた。
その画面には、奇妙な文字列のフォルダが並んでいる。
observation_001
observation_002
……
observation_057
最初にそれを見つけたのは、二日前の夜だった。バックアップHDDの整理中。懐かしさに誘われて、学生時代のメールアーカイブを眺めていたときだ。
見覚えのない差出人からのメールが目に留まった。件名には何も書かれていない。ただ、添付ファイルだけがついていた。
最初は迷惑メールだと思った。だが、添付ファイルを開くと、文字化けしたZIPファイルが現れた。試しに解凍した瞬間、この五十七個のフォルダがずらりと並んだ。
あれから何度か中身を開こうとした。だが、どうしても手が止まる。
理由はわからない。けれど、これは知っていいものじゃないと、本能が告げていた。
今日、ようやくフォルダのひとつをクリックした。何でもない操作のはずだった。フォルダをひとつ開くだけ。指先でマウスを軽く弾いて、ただその中身を確認する。それだけの行為にこれほど緊張する理由なんて、本来どこにもないはずだった。
けれど、目の前に開かれたウィンドウに、いくつかのファイル名が無造作に並んだ瞬間、背筋に冷たいものが走った。
そこに表示されたのは、意味のわからない文字ばかり。規則的なようで、どこかノイズめいた、無機質なファイルたち。そして、その中に見覚えのある文字の羅列を見つけてしまった。
ren_004.log
思わず画面に目を凝らす。見間違いではなかった。──あいつだ。
でも、なぜこんなところに蓮の名前がある?
ゆっくりとマウスを動かし、ren_004.logにカーソルを合わせる。クリックすれば、何かが変わってしまうような気がした。でも、それが何なのか、自分でもわかっていなかった。
指先に力をこめる。次の瞬間、カチリと静かな音が部屋に溶けた。
白いウィンドウが開くと、思いのほか簡素なテキストが表示された。
【秋月蓮:第四回送信記録】
送信日:二〇三二年十月十二日
受信日:二〇二五年六月二十日
観測対象:秋月蓮・朝比奈紗季・秋月天音
結果:軽微な変化あり。構造的因果は維持。
淡々とした記録の羅列を、しばらく黙って見つめていた。
秋月蓮、朝比奈紗季、そして──秋月天音。
何かのいたずらかと思ったが、それにしては、あまりに出来すぎている。
第四回送信、観測対象、構造的因果……。理解が追いつかない。けれど、直感だけははっきりと告げていた。
これは、現実だ。何かが本当に起きている。
背筋を伸ばしたまま、息を殺すようにモニターへと視線を戻した。視界の端がわずかにぼやける。
「蓮と紗季が……なんで……?」
ファイルを閉じることもできず、しばらく画面を見つめていた。思考は渦巻き、整理が追いつかない。だが、もうひとつ開くべきファイルがあった。
observer_memo.txt
マウスを握る指に、じわりと汗が滲んでいた。静かにポインタを動かし、ファイル名の上で止める。何が書かれているのかは分からない。だが、ここには決定的な何かがある──そんな予感があった。
指先に、ささやかな抵抗を感じた。心のどこかが躊躇していたが、それを押し込めて、静かにクリックした。
音もなく開いたテキストエディタに、白い背景と黒い文字が現れる。その瞬間から、静かだった部屋に、別の気配が流れ込んできた気がした。
【観測一日目】リープ実行日よりプラス千三百五十六日。これより観測を開始する。
「リープ……?」
声にならない呟きが漏れる。「リープ」とは、いったい何を指しているのか。
【観測十九日目】微細な同一性乖離を確認。発話パターン・行動ルートに前回との不整合あり。
前回とは何だ。繰り返しているということか。誰が?なぜ?
【観測二十四日目】観測対象に微弱な可視情報の乱れを検出。外見的特徴は一致するが、反応傾向が統計域を逸脱。人格特性のズレか、観測側のバイアスか、検証中。
マウスを握る手が、汗で滑りそうになっていた。
意味がわからない。けれど、何か良くないことが起こっているのは分かる。少なくとも、この誰かが観測した記録は、作り物ではない。
【観測三十日目】記録対象、確認不能。呼称の出現なし。反応も消失。主要データ、途切れたまま再接続されず。結果、構造変化なし。観測終了。
ログの末尾を見つめたまま、しばらく動けなかった。
構造変化なし、観測終了。つまり、それは、何も変えられなかった、ということだ。
手が震えていた。
どうしてこんなものが、ここにある?
「……誰だよ、お前」
画面の端に記された記録者欄には、ただの無機質なIDの羅列。
何も知らない自分が、ここでこのファイルを開いた。それは、偶然だったのか。それとも……定められていたことだったのか。
理解が追いつかないまま、画面を見つめていた。ただ、なにか大きなものを、取り返しのつかないものを、目撃してしまったという実感だけが残った。
背後で冷蔵庫のモーターが唸る音がして、その現実的な生活音が、やけに遠くに感じられた。
「……観測、ね」
息を深く吐き、ゆっくりと正面のモニターに向き直る。
瞳に映るのは、真っ黒な画面。だがその奥に、まだ開かれていない五十六個のフォルダが、こちらを見つめ返しているように思えた。
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