第10話
夕方の休憩時間、ナースステーションの前を通り過たとき、背後から声をかけられた。
「秋月先生、ちょうど良かったです」
振り返ると、日勤帯を終えた看護師がカルテを抱えて、小走りで近づいてくる。
「篠崎さん、屋上に行きたいそうです。足元がまだ不安定なので、付き添いお願いできますか?」
「わかりました」
軽くうなずいてカルテを受け取り、そのまま紗季の病室へ向かう。
ドアをノックすると、明るい声が返ってきた。
「どうぞー……あっ、秋月センセ」
ベッドに腰掛けた紗季が、こちらを見て小さく笑った。手には、外出用らしい薄手のカーディガンが握られている。
「屋上、行きたいんだって?」
「うん。ちょっと……空、見たくなって」
「じゃあ、付き添うよ。ゆっくり行こう」
紗季は嬉しそうにうなずき、杖を手に取った。俺は彼女の隣に立ち、そっと歩調を合わせる。
屋上へと続くドアを開けると、むわりとした空気と、夕方の風が肌をなでていった。セミの声はもう鳴りやんでいて、花壇の向日葵もいくつかは、静かに首を垂れている。
「いい風。夏も、そろそろ終わりだね」
「ああ。昼間はまだ暑いけど……夕方になると、少しだけ涼しい」
そのとき、空の奥から微かな破裂音が届いた。その音に、紗季が微かに目を細める。
「さっきね。病室にいたら、この音が聞こえたの」
「花火?」
「うん。たぶん、近くの川辺のやつかな。音だけだったけど……聞こえたら、なんか、見たくなっちゃって。でも……ここからじゃ、見えないね」
笑ってはいたけれど、その声には、かすかな寂しさが滲んでいた。
「……そうだな」
俺は、紙パックの麦茶を差し出す。
「これ、いる?」
「ありがと」
紗季はストローをさして、ゆっくりと口をつけた。
遠くで、ふたたび花火の音が響く。音の余韻が空に溶けていく中で、静かに話し始めた。
「入院して、最初のころは……何もかも嫌だった。動かない体も、過去のことを聞かれるのも、優しくされるのも、全部」
俺はただ黙って、耳を傾けていた。
「でもさ……少しずつだけど、変わったの。誰かに支えてもらえることって……すごくありがたいんだなって」
夕焼けに照らされた横顔が、ふとやわらいだ。
「あなたのおかげだよ」
俺は、すぐには言葉を返せなかった。感謝の言葉をもらえるようなことを……してきたのだろうか。
「篠崎さんが……変わろうとしてくれたから。それを、俺がそばで見てただけだよ」
紗季は何も言わず、麦茶のパックをもう一口だけ飲んだ。
「退院、八月末なんだ。あと一週間くらい」
「……もう、そんなに経つんだな」
彼女は目を伏せ、しばらく黙っていた。やがて、そっと掬い上げるように、声を落とした。
「ねえ、覚えてる?ピアノの約束……したよね」
「もちろん、覚えてるよ」
「私、弾けるかな」
俺は、彼女の細い指先に目をやった。最初は何ひとつ握れなかった手が、少しずつ動きを取り戻していった。箸を持つのも、文字を書くのも、時間はかかったけれど、今ではもう日常生活に困ることはほとんどない。ただ、ピアノを弾くには、さらに細やかな動きと、繊細な感覚が求められる。
「……正直、まだ難しいかもしれない。でも──」
自然と、言葉に力がこもった。
「退院の前の日。教会の使用許可を取って、一緒に弾いてみよう。……あそこで」
紗季の目がそっと揺れ、その奥に確かな光が見えた
「……うん。うれしい。ほんとに」
ふたりの間を、やわらかな風がそっとすり抜けていく。夕焼けが空に残した光はまだ温かく、雲の端が金色ににじんでいた。
「……ねえ、秋月先生って呼ぶの、もう嫌だな」
ふいにそう言われて、俺は思わず彼女の顔を見た。
「ここ最近、ずっとそう呼んでたけど……距離がある気がして。なんか、違うんだよね」
ほんのり照れたような笑み。でも、その目はまっすぐ俺を見つめている。
「……蓮くんって、呼んでもいい?」
一瞬、風が止まったような気がした。
たしかに、名前で呼ばれるのは初めてだった。でも、不思議と懐かしくて、心がじんわりと温かくなる
「……うん。いいよ」
そう答えると、紗季は口元を緩め、問いかけてきた。
「じゃあさ、私のことは……なんて呼ぶ?」
「え、あー……その……」
「まさか、朝比奈さんなんて言わないよね?」
わざと真剣な顔で睨むようにして、口をとがらせる。
「……いや、その、うーん……さ、紗季……?」
「ふふっ、正解っ」
彼女は、いたずらが成功した子どもみたいに、心から嬉しそうに笑った。
——ああ、そうだ。
こんなふうに笑う紗季を、また見たかったんだ。
支えるつもりだった。ただ見守るだけのはずだった。
でも俺は——やっぱり彼女のことが、ずっと好きだったんだ。
* * *
病室のカーテンが、かすかに揺れていた。
遠くでひぐらしが鳴いている。どこか名残惜しげで、それでも確かに夏の終わりを告げていた。
紗季は、ベッドの上でスケッチブックを広げていた。描かれているのは、数日前に見た屋上の向日葵。少ししおれかけていたけれど、風に揺れるその姿は、どこか誇らしげに見えた。
鉛筆の先で花弁の輪郭をなぞりながら、ふと手を止めた。そして、右手をそっと見つめ、指を少しだけ開いてみる。
「まだ、ちょっと痛い……けど、きっとできる」
数ヶ月前の自分なら、こんなふうに思わなかった。頑張るとか、もう一度とか。そんな前向きな気持ちを、信じられるような自分じゃなかった。
スケッチブックをそっと閉じ、ベッドの隅に置かれたバッグへしまう。
代わりに取り出したのは、小さな粘土細工だった。くすんだピンク色のそれは、指が思うように動かない中で必死に丸め、つまみ、形にした——桜の花びら。
それを手のひらで軽く握りしめると、紗季はそっと目を閉じた。
蓮と交わした約束、あのとき伝わってきた手の温もり、いくつもの記憶が蘇ってくる。
やがて、それらすべてが混ざり合い、ふいに熱いものが込み上げてくるのを感じた。
でも——泣かなかった。泣きたくなかった。
もう、誰かにもらうことばかりじゃなくて、自分から渡したいと思えたから。
しばらくして、紗季はベッドから立ち上がる。窓の外へと目を向け、深く、呼吸を整えた。
「……行こう」
小さな声が、病室の静けさに吸い込まれていった。
* * *
教会の扉が、わずかに軋んで開いた。
紗季の髪は後ろでそっと束ねられ、白いブラウスと紺のスカートが、教会の光を帯びてやわらかく揺れていた。
「来てくれて、ありがとう」
そう言うと、彼女は小さく微笑んだ。
「……こちらこそ」
それきり言葉は続かず、静けさがふたりの間を満たしていく。
「ここ、静かなんだね」
「うん。ときどきミサがあるけど、今日は誰もいない。貸し切りだよ」
「ふふ……贅沢だね」
天井は思ったより高く、白い梁が静かに伸びている。頭上には飾り気のないシャンデリアがひとつ、陽を受けて鈍く光っていた。奥には小ぶりな祭壇と、簡素な十字架。装飾は最小限なのに、どこか凛としていた。
右手には木製のオルガンがひっそりと据えられている。何十年もここにあるんだろう。鍵盤の蓋には、長い年月が刻んだような艶のむらが浮かんでいた。
紗季はゆっくりと歩いていく。祭壇脇で一度立ち止まり、深く息を吸ってから、すっとオルガンの前に腰を下ろした。背筋がすっと伸びていて、どこか舞台に立つ前のような緊張があった。
俺も、その隣に静かに座る。指先がふれれば、もう音が始まってしまう。そんな空気が、ふたりのまわりに張りつめていた。
紗季はまず、左手を鍵盤にそっと置いた。続いて、右手を添える。少しだけ呼吸を整えるようにして、ゆっくりと。
鍵盤に指先が触れたとき、一瞬、わずかに震えが走った。何度も向き合ってきた右手。まだ痛みは残っているのだろう。違和感も、きっと完全には消えていない。
それでも彼女は、今ここで、それを音にすることを選んだ。
「大丈夫?」
「うん。弾くの、久しぶりだから……ちょっと緊張してるだけ」
その声には、柔らかさの奥に、はっきりとした決意があった。
「……じゃあ、始めようか」
静まり返った空気のなかで、俺たちの手だけが、これから音を生み出す。そして、その音が、すべてを語ってくれる。
俺と紗季の指が、並んで鍵盤に触れた瞬間、音が──生まれた。
教会の静寂が、深く頷くように、音を包み込んでいく。祈るように、そっと。崩れないように、慎重に。
ひとつひとつの音が、想いのかけらのように、静かに、優しく響いていく。
同じ旋律を、あの頃にも一緒に弾いた気がする。
でもこれはもう、あの時の曲じゃない。違うのは、音じゃなくて、心だ。あの時は、届かなかった音。今なら、きっと届く気がした。
ふと、テンポがわずかに揺れた。
視線を下ろすと、紗季の右手が微かに震えていた。指先が、次の鍵盤に触れることをためらっている。呼吸は浅くなっていき、肩がわずかに沈む。
俺は、そっと立ち上がった。椅子がきしむ音さえ立てないように、静かに。そして、彼女の右手の後ろに立ち、自分の右手を、そっと重ねた。
わずかに驚いたように、紗季の肩が揺れる。けれど、その手は逃げなかった。
ふたつの右手が、ゆっくりと鍵盤を押し、止まっていた旋律が──また、静かに動き出した。
「……ありがとう」
小さな声が、そっと届いた。
音は、ふたりの身体を通って、空間に満ちていく。旋律が進むたびに、過去の痛みが静かにほどけていくのが分かった。
怖かった。もう一度、弾くなんて無理だと思っていた。でも今なら、弾ける。一緒にいるなら、最後までいける。
力を込めすぎないように気をつけながら、ただ静かに、紗季の動きに寄り添った。
そして、最後の音が教会の高い天井へと昇り、消えていった。
静寂が二人の間を満たし、深い余韻を残している。
俺はそっと手を引き、隣に座る紗季の横顔を見た。彼女はまだ、指先を鍵盤に置いたまま、遠くを見るような目をしていた。
言わなきゃ──そう思った。
ここで言わなきゃ、また逃げることになる。また、大切なものを失ってしまう気がする。
でも、今の俺はもう、昔の俺じゃない。失ってきたからこそ、何が大切で、何を守りたいのかを、ちゃんと知ってる。
「紗季」
名前を呼ぶと、彼女はゆっくりとこちらを向いた。
「俺、君のこと──」
「待って!」
遮るように、紗季の声が飛び込んでくる。その声は、いつになくはっきりとしていた。
「それ以上、言わないで」
──え……?
一瞬、息が止まった。
紗季の表情には、決意がこもっていた。拒絶とは少し違う。でも俺の言葉を遮ったのは、紛れもなく彼女だった。
……また、届かなかったのか。そう思った瞬間、喉の奥が少しだけ詰まった。でも、不思議と苦しくはなかった。
ああ、そうか。これが、今の俺なんだ。好きって気持ちは、伝えたくて仕方ない。でも、押しつけたくない。
君が笑ってくれるなら、それだけでいい。それが、今の俺の好きなんだ。
届かなくても構わない。だって、俺は今、ちゃんと君の隣にいる。それだけで、十分だと思えた。
言葉を失ったまま、ただ彼女の顔を見つめていると、紗季は、ほんのわずかに口元を緩めた。
「その続きは、私から言わせて」
目を見開いた俺に、彼女はまっすぐ視線を向けた。
「卒業式の日、蓮くんに言った言葉……ちゃんと覚えてるよ」
その瞳は、揺らぐことなくこちらを見つめている。
「でもね……やっと気づいたの。私は、今の蓮くんが好き。過去じゃなくて、今のあなたが、好き」
その声は、小さくて、揺るぎなくて、どこまでも強かった。
彼女の言葉が胸に落ちた瞬間、長く張りつめていたものが、すっと解けた気がした。
俺は──泣いていた。
声も出さずに、ただぽろぽろと涙が落ちていた。
紗季はそっと、俺の手を取った。温かいその手は、もう震えることなく、俺の心を包み込んでいた。
* * *
たしか、あの頃──よく同じ夢を見ていた気がする。
誰かが、光の中に立っていて、名前を呼ばれて、胸がぎゅっと締めつけられるような、そんな夢。
意味もわからないのに、目が覚めるたびに、涙が滲んでいた。
最近は、その夢を見なくなった。
あれは、いったい何だったんだろう。懐かしさと、痛みと、あたたかさが同時に混ざったような……まるで、記憶の断片みたいな夢だった。
振り返れば、本当に長い時間だった。いや、実際の時間よりも、心の中をぐるぐると歩き回った、その距離が長かったのかもしれない。
過去に戻って、やり直して、失って、何度も希望を抱いて、それでも手が届かなくて。だけど、少しずつ変わっていった。自分の足で立ち上がることも、ようやくできるようになった。
俺はやっと今の自分を好きになれそうな気がしている。
未来は、もう怖くない。
静かに息を吐いて、扉に手をかけると、淡い光がこちらへ流れ込んでくる。
──そこに、彼女がいた。
「蓮くん、おかえり」
その声を聞いた瞬間、これまでの痛みも、選んできた道も、すべてがこの一言のためにあった気がした。
言葉を返すのが、こんなに怖くて、こんなに嬉しいのは初めてだった。
だから俺は──
「ただいま」
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