第9話
日曜の午後のファミレスは、適度に席が埋まり、心地よい喧騒に包まれていた。窓際の席には夏の光が差し込み、テーブルの上に斜めの影を落としている。
俺は、コーラのグラスを軽く回しながら、目の前の男をぼんやりと見つめていた。
霧島悠一。昔から器用で、なんでもそつなくこなすやつ。高校卒業後は、音楽の道に進んだ。
一見すると陽気な人間に見えるが、その内側には誰も寄せ付けない距離があった。でもなぜか、俺のことはいつも気にかけてくれていた気がする。その理由を尋ねたことは一度もないけれど。
「で?最近どうなのよ、音楽プロデューサーさんは」
「まあ忙しいよ。若手アーティストに合わせて曲を直したりして、正直あんまり色気はないけどさ。それなりにやりがいはある。お前こそどうなんだ?」
「そっか。俺は作業療法士、続けてる。もう五年目になるな」
霧島の目が、少しだけ見開かれた。
「意外だな。お前がちゃんと仕事続けてるなんて」
「だろ?」
「でも……作業療法士か。なんか納得するわ。真面目だし、地味に人好きだし」
「地味にって言うなよ」
霧島が、ふと思い出したように口を開いた。
「そういや、お前……紗季に振られたあと、しばらくゲーム廃人になってなかった?」
不意を突かれて、思わずコーラを噴きそうになった。
「うわ、やめろって……それ、今さら掘り返すか?」
「いやいや、あれは伝説だろ。毎晩オンラインで、ひたすらレベル上げしててさ。俺はゲームの中で生きていくとか言ってたし」
「……マジで覚えてんな。頼むから、もう忘れてくれ」
「無理。あれは高校の三大珍事のひとつとして語り継がれるべきだろ」
「……あと二つ、何なんだよ」
俺は苦笑しながらグラスを傾けた。氷が揺れる音が、妙に静かに感じられる。
「……そういえばさ、朝比奈さんのこと……聞いてる?」
ストローをくわえたまま、霧島の視線がこちらを射抜いてくる。
「いや、何かあったのか?」
「……事故に遭った。入院してて、今、俺がリハビリ担当してる」
「マジか……どれくらい重い?」
「手と足、最初はほとんど動かなかった。でも……今は、少しずつ回復してきてる」
沈黙が落ちる。ファミレスのBGMだけが、遠くのどこかで流れていた。だけど、霧島の言葉は、意外にもすぐに出てきた。
「でもさ、お前がついてるなら、紗季は大丈夫だな」
霧島なりの、本気の言葉だったんだろう。でもその声の奥に、ほんのわずかに触れちゃいけない温度差みたいなものがあって、どう受け取ればいいのか、正直わからなかった。
その重い空気を破るように、霧島がアイスをすくいながら、冗談めかして言った。
「で、次はどういう告白プランなんだ?」
「は?いや、そんなのじゃないって。ていうか……もう終わった話で。今は作業療法士として、向き合ってるだけだから」
慌てて否定する俺を見て、霧島は肩を揺らして笑った。
「そうか?本当に、それだけか?」
「それだけだよ」
霧島は一瞬だけ視線を外し、テーブルの縁をじっと見つめた。その横顔に、ほんのわずかな迷いが浮かんだ気がした。
「……ま、最終的に紗季の隣に誰がいても、それが笑ってる紗季なら、俺は文句ないよ。たとえ、それが俺じゃなくてもさ」
あっけらかんとした口調だった。でもそのあと、霧島はグラスを持つ手を、ほんの少しだけ、握り直していた。
それが何を意味するのか。訊けなかったし、訊くつもりもなかったけど──霧島の言葉が、小さな棘みたいに引っかかっていた。
* * *
昼下がりのロビーには、曇りガラス越しにやわらかな光が差していた。
中庭へ通じる自動ドアの前では、理学療法士の千葉さんがストップウォッチを手にして立っている。
「今日は中庭コース、歩いてみましょう。いけそうですか?」
「はい、大丈夫です」
紗季は両手で杖を支え、ゆっくりと体を起こすようにして立ち上がった。その足取りは、以前よりもずっと安定している。
俺は少し離れた位置から付き添うように歩き出す。カチッ、とストップウォッチの音が響き、つづいて杖が地面を叩く乾いた音が、等間隔に広がっていった。
「右膝、振り出すタイミングいいですね。そのまま……はい、呼吸も忘れずに」
千葉さんの声に応えるように、紗季は額にうっすらと汗をにじませ、まっすぐ前を見据えていた。その横顔から、ひとつひとつの動作に全神経を注ぎ込む緊張感が伝わってくる。
やがて、残り数メートルというところで、ふと空気が変わった。湿った風が吹き抜け、どこかで水の音が聞こえたような気がする。
「あれ、雨?」
千葉さんがふいに顔を上げた。曇り空の向こう、薄墨の雲から、細かい雨粒が静かに落ちはじめていた。思わず俺は受付カウンターへ駆け寄り、置いてあった折りたたみ傘を手に取る。
「傘、取ってきました。タオルもあります」
「ありがとうございます、秋月先生」
千葉さんが安堵したように笑い、紗季へとタオルを差し出す。
「足の痛み、出てませんか?」
そう声をかけると、千葉さんはすぐに頷いた。
「ええ、大丈夫です。関節の可動域も、筋力もかなり戻ってきています」
「……よかった」
濡れた屋根の下、ベンチに三人で腰を下ろした。静かに打ちつける雨が、隣のコンクリートに細かな水紋を描いていく。その音だけが、淡々と時を刻んでいた。
千葉さんがふと腕時計に目を落とし、持っていたカルテを小脇に抱え直した。
「すみません、記録業務が溜まっていまして……秋月さん、もう少し付き添っていただけますか?」
「はい、大丈夫です」
軽く頭を下げて、千葉さんは施設の方へ戻っていった。その背中が見えなくなると、ベンチには雨音だけが残った。
紗季は、前髪にかかった雫をタオルでそっと拭いながら、ぽつりとこぼした。
「……雨の匂い、好きかも」
「昔から?」
「ううん。入院してから、かな。窓越しに見てるばっかりだったから……こうして外で感じるのは、久しぶり」
そこで会話が途切れたけれど、その沈黙はどこか心地いい。
ふと思い出して、軽く話題を振ってみた。
「そういえば……篠崎さんって呼び始めたとき、ちょっと驚いたよ。てっきり、結婚したのかと思った」
「え?全然。親が離婚しただけだよ」
紗季は、少しだけ肩をすくめて笑った。
「母方の苗字に戻っただけ。……私、まだ独身ですので」
「……そっか。なんかほっとした」
「ほっとしすぎじゃない?」
彼女の視線は、ふと足元へ落ちた。芝に跳ねる雨粒を見つめながら、その頬から、そっと笑みがほどけていった。
「……母の旧姓に戻ったの、大学のときなんだ」
紗季は左手を弄びながら、言葉を選ぶように、ゆっくりと話しはじめた。
「父の仕事がうまくいかなくなって……母と二人で家を出たの。母は体が弱くて、働くのもやっとだった。だから……私がしっかりしなきゃって、ずっと思ってた」
その声はかすかだったが、どこか震えていた。
「大学を出てすぐ、中学の国語教師になったの。担任も合唱部の顧問も任されて……
毎日、授業や部活の準備に追われながら、母の通院に付き添って……それからまた学校に戻って。馬鹿みたいでしょ?」
一度、ふっと自嘲めいた笑みがこぼれた。
「……馬鹿なんかじゃないよ。生徒も、お母さんも、きっと……救われてたと思う」
けれど、紗季はゆっくりと首を横に振った。その仕草には、深く染みついた悔しさが滲んでいる。
「助けたくて頑張ったはずなのに、結局、全部……こぼれ落ちたの。文化祭の準備と、母の入院が重なったころには、もう……ほとんど寝てなかった」
紗季は、そう言って俯き、消え入りそうな声で続けた。
「でね……病院から学校に戻る途中、赤信号だったのに、ぼーっとして渡っちゃって……気づいたら、病院だった。手も足も、ぐちゃぐちゃになってて」
言い終えても、彼女は顔を上げなかった。手の甲を濡らしたそのひとしずくが、空から落ちたのか、心からこぼれたのか、わからなかった。
「ごめんね。暗い話で」
屋根を打つ雨の音だけが、ふたりの間に落ちている。
「……俺さ。高三のとき、不登校だったろ?」
思い出すように、言葉を落とした。
「学校に戻った日……君がおかえりって言ってくれてさ。あれ、すごく救われたんだ。俺はここにいてもいいんだって、そう思えたんだ。だから今は……俺の番だと思ってる」
紗季は、そっと目を閉じた。それから、ほんのかすかに笑みを浮かべた。
「……ありがとね。そんなふうに言ってもらえて……少し報われた気がする」
ふと空を見上げると、雲の隙間から、細い光が差し込んでいた。そしてようやく気づく。いつのまにか、雨は止んでいた。
紗季は額に残った水滴をタオルでぬぐうと、ベンチから立ち上がった。
「……行こっか。もう少し歩けそう」
「うん。ゆっくりな」
俺は、杖を持つ彼女の手に、そっと自分の手を添えた。
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