第8話

 四月の半ば、桜の花はもう影もなく、景色はすっかり次の季節へ移ろいはじめていた。

 作業療法室の空気は、しんとしていた。窓際から差し込む光もどこか遠くて、季節のぬくもりがこの部屋まで届くには、もう少し時間がかかりそうだ。

 紗季のリハビリが始まって三週間が経ったが、思っていた以上に何も変わっていなかった。右手の状態は、想像していたよりもずっと厳しい。可動域も、握力も、反応も、どれもほとんど改善が見られない。

 この三週間、俺たちは確かに一緒に過ごしてきた。でも進んだという実感は、正直なところ、ほとんど持てなかった。

 紗季も、それを感じているのだろう。最初は淡々としていた表情が、最近は少しずつこわばり始めている。苛立ちや焦りが、もう隠しきれなくなってきている。そのせいか、俺と彼女のあいだには、言葉にできない重い空気がずっと流れていた。

 トレーに並べた握力ボールを、そっと紗季の前に差し出す。硬めのやつも持ってきたけど、今日はやめた。一番やわらかいのだけを残して、他はそっと下げる。

「今日はこれでいこうか。軽めのやつだから、力を抜いて大丈夫」

 紗季の右手が、そろそろと伸びる。けれど、動きがすごくゆっくりで、まるで水の中みたいだった。ボールに触れる直前で、指先が止まる。

「……どのくらい握れたら普通なの?」

 視線を逸らしたまま、ぽつりとこぼしたその声には、自嘲とも諦めともつかない響きが混ざっていた。

「うーん、基準はあるけど……そんなの気にしなくていい。今日はちょっとでも動かすがゴール。数値は関係ないよ」

「そう言ってくれるのは、ありがたいけど、動かないものは、動かないんだよね」

 紗季の手が、そっと引かれる。握るどころか、触ることすらできていなかった。

 少しだけ迷ってから、俺は声をかけた。

「手、添えてもいい?」

 返事はなく、紗季はうつむいたまま動かない。長いまつげが頬に落ちて、表情はよく見えなかった。けれど、やがてほんのわずかに首が傾き、言葉がこぼれる。

「……優しくされるの、あんまり得意じゃないんだ」

「そっか。……なんで?」

「期待されてる気がして、息がつまる」

「……優しくするつもりはないよ。リハビリだから、必要なことをするだけ」

 その言葉が正しかったかは分からない。けれど、紗季はわずかに肩の力を抜いた。

 俺はそっと紗季の指先に触れる。彼女の手は冷たくて、固かった。関節は想像以上に固まっていて、ほとんど動かない。コップ一つ持ち上げるのも難しいだろう。

 でも、今はそんなことよりも──うまく動かせるかとか、数値がどうとか、そういうのじゃなくて。ただこの手を、落とさずに、ちゃんと支えていたかった。

「……動かすの、一人じゃ無理だから」

「うん、一緒にやろう」

 俺は彼女の指先を包むようにして、握力ボールの上へと導いた。

「……なんか変だね。前は、誰かに助けられるなんて、絶対に嫌だったのに、今日は……ちょっとだけ、ありがたいって思ってる自分がいて……驚いてる」

「うん、それだけで十分だよ」

 紗季は何も言わずに目を伏せたけど、その口元がほんのすこしだけ、やわらかくなった気がした。

 *  *  *

 リハビリが始まってから、既にふた月が経過していた。

 朝から空気がぬるく、病棟の廊下には扇風機がいくつも並んでいた。作業療法室にも、ゆるやかな熱気が滞っている。

 俺は、いつも通り器具棚から握力ボールとセラバンドを取り出し、トレーにひとつずつ並べていく。

 そのとき、不意に視線を感じた。顔を上げると、紗季がこちらを見ている。目が合った瞬間、彼女はすっと視線を逸らした。

「……なんかさ」

 リハビリの最中、紗季がぽつりと言った。

「前からそんなに丁寧だったっけ?」

「え?」

「リハビリの準備、とかさ……なんか、やたら几帳面っていうか」

「まあ、一応、仕事だからね」

「ううん、そうじゃなくて……」

 言葉を切りながらも、紗季の視線が少しだけ和らぐ。

「誰かのことをちゃんと見てる人なんだなって。……今さらだけど、そう思った」

 彼女はそう言って、顔をそらした。もしかすると……照れてる……のかもしれない。

「……指、昨日より動いてるかも」

「うん。今日の方がスムーズだよ」

「ふーん。そういうとき、ちょっと嬉しそうな顔してるよね」

「してるか?」

「うん、してるよ。……ちょっとだけ」

 心にじんわりと温かいものが広がった。ささやかな希望のようにも思えたけど、これが信頼と呼べるのかは、まだ分からない。

「ねえ、まだリハビリ終わりじゃないよね」

「ん?」

「……今日は、外、行きたい。中庭とか……」

「いいよ。じゃあ、行こうか」

 俺は車椅子を準備し、紗季の姿勢を整えてゆっくりと廊下を出た。

 午後の中庭には、少し湿った空気が流れている。静かで、どこか重たさを含んだ空。それでも風は優しく、遠くから鳥の声が届いてくる。

 俺は車椅子を押しながら、ゆっくりと中庭を歩いていた。こうして外に出るのは、もう何度目だろう。最初の頃と比べて、彼女の表情はずいぶん柔らかくなった。

「今日は風が気持ちいいね」

「うん。……湿気はあるけど、嫌じゃない」

「見て、あそこ……バラ、咲いてる」

 目を向けると、赤やピンクの花がいくつも揺れていた。

「ねえ、バラの花びらって、数が決まってないんだって。知ってた?」

「え、そうなの?」

「うん。同じ品種でも、咲くたびに微妙に違うんだって。きっちりしてるようで、けっこう気まぐれなんだよ、あの子たち」

「……なんか、篠崎さんみたいだな」

「なにそれ、失礼」

 そう言って、紗季はくすっと笑った。

 風が吹いて、バラの茂みがふわりと揺れた。たわいない会話。それだけのことが、今はとても心地いい。

 車椅子を押しながら、中庭の小路をゆっくりと進んでいく。植え込みの間を縫うように続くその道は、アスファルトの隙間から小さな草が顔を出していて、どこか穏やかな時間が流れていた。

 やがて、小さな噴水の向こうに、白い教会が見えてきた。その尖塔と静かな佇まいが、どこか現実から切り離された風景のように感じられる。

 ふと、教会の方から音が聞こえてきた。柔らかなオルガンの響きと、合唱の歌声。

「あれ、教会?」

「うん。この病院、カトリック系だから。たぶん、礼拝の時間なんだと思う」

 音に誘われるように、俺たちは教会の前まで来ていた。

「入ってみる?」

「……うん」

 扉を押し開けると、ひんやりとした空気と、ステンドグラスの光が迎えてくれる。オルガンの音は続いていて、奥に数人の信者とシスターの姿が見える。

 紗季の横顔が、光にそっと照らし出される。その表情は、真剣で……でも、どこか遠くを見ているようにも見えた。

「……きれいな音だね」

「うん。ずっと聴いてられる」

 ふたりの間に言葉はなく、ただ美しい音色だけが、静かに空気を満たしている。

「……私、もうピアノ弾けないんだろうな」

 紗季は自分の右手を見つめた。その指先が、かすかに震えている。

「手、こんなだし。感覚もまだ戻らないし……弾きたいって思っても、意味ないのに」

「弾けるよ」

 即答したその声に、自分でもわかるほどの力がこもっていた。

「時間はかかるかもしれない。でも、絶対に弾けるようになる。……俺が、弾かせてみせるから」

 紗季は驚いたように俺を見たが、すぐに目元がふわりと緩んだ。

「……また一緒に、弾いてくれる?」

「……ああ。約束する」

 そのときの紗季の笑顔は、どこか懐かしくて、でも確かに、今の彼女だけが持っている笑顔だった。

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