第7話

 少しの沈黙のあと、俺は車椅子をゆっくり元に戻し、そっとハンドルに手を添えた。

 中庭の小道に、車輪の音がゆっくりと響く。前を見ながら歩いていたけれど──その声も、肩越しに見える横顔も、見間違えるはずがなかった。

「なんか思い出すね。最後に会ったのも、この季節だったよ」

 頬をかすめる春の風が、彼女の髪をやさしく揺らしている。

「そうだな。卒業式の頃か」

「そう。三月だったから」

 何気ないやりとりだった。けれど、どこか他人行儀で、言葉が少しだけ浮いていた。

「で……朝比奈さんは、どうして?」

「……私ね、今は篠崎って名字なんだ」

 ──篠崎。

 今朝のカンファレンスで耳にした名前。交通事故で手足を損傷、リハビリ期間は長め。

 紙の上に並んでいた無機質な情報が、今、目の前の彼女の姿と重なっていく。あの「篠崎さん」が、紗季だったのか──ようやく理解が追いついた。

「そっか……」

 それ以上は、聞けなかった。結婚したのかもしれない。どこまで踏み込んでいいのかも、まだわからなかった。

「ごめん、びっくりした?」

「いや……ちょっとだけ。でも、今はそうなんだなって」

 会話は途切れ、車椅子の車輪が小道を擦る音だけが響いていた。しばらく沈黙が続いたあと、紗季が小さく息をついた。

「まあ、いろいろあって。複雑だけど、名字だけ変わったの。中身は変わってないよ」

「……そっか。それなら……よかった」

 ほんの少しだけ、安堵していた。理由なんて、自分でもよくわからない。ただ──どこかで、まだ手の届く場所にいると思いたかったのかもしれない。

「それで、どうして……ここに?」

「車に、轢かれた」

 思わず息が止まった。でも紗季は、まるで天気の話でもするみたいに、さらりと続けた。

「そんな大したことじゃないよ。運が悪かっただけ。ちょっと手と、足も。まだ動かないけど、そのうち何とかなるって」

 ……そんなわけ、ない。

 カンファレンスで見たデータが、頭の片隅に浮かぶ。多発骨折、神経損傷。リハビリは長期、機能回復の見通しは不透明。書類の上に並んでいた文字は、決して軽いものじゃなかった。

「秋月くんは、この病院で何をしているの?」

 車椅子に座ったまま、紗季がゆっくりと振り返る。

「ここで働いてる。もう、何年かになるかな」

「そうなんだ……」

 紗季は、小さく頷いて、体を少しだけこちらに傾けた。続きを待っているみたいに、じっと俺の顔を見つめてくる。

「……作業療法士っていう仕事」

「へえ……それって、どんなことするの?」

 声のトーンが、ほんの少しだけ上がった。無理に明るくしている感じはなかった。単純に、俺の仕事に興味がある──そういう反応に見えた。

「簡単に言うと、日常生活を取り戻すお手伝い、かな」

「日常生活?」

「たとえば、また箸を持てるようになるとか、字が書けるようになるとか」

「ふーん……」

 感心したようにうなずく紗季に、俺は言葉を探しながら続けた。

「退院してから、自分らしく暮らすための準備っていうか。無理なく、前みたいな生活に戻っていけるように……」

「……なんか、似合ってるね」

「似合ってる、か?」

 俺は照れくさくなって、話題を変える。

「そっちはどうなんだよ。どうしてたんだ?」

 紗季は俺の視線を避けるように、ゆっくりと顔を前に向ける。

「うーん。いろいろあったけど、今は考え中かな」

 言葉は交わしていても、彼女の心には壁があるように感じた。沈黙の中、車椅子のかすかな音だけが、変わらず続いている。

「不思議だね。秋月くんと話してると、昔に戻ったみたい」

 その表情には、さっきまでの影はなく、ほんの少しだけ、はにかんだような笑みが浮かんでいた。

 病室まで車椅子を押していくあいだ、俺たちはそれ以上、特別なことは話さなかった。

 彼女を送り届けたあと、俺はひとりで物思いにふける。

 あの時と変わっていない気もして、でも、どこか違う気もして。それでも──紗季は、俺のことをちゃんと覚えていてくれた。

 ……正直、戸惑いより先に、うれしかった。

 こんなふうに、また話せる日が来るなんて、思ってもいなかったから。

 でも、俺たちはもう、あの頃には戻れない。彼女は「篠崎紗季」として、別の人生を生きている。俺だってようやく、現実の地面を踏みしめられるようになったばかりだ。

 高校の思い出は、もう終わったこと。そこにすがるつもりはない。

 そう何度も自分に言い聞かせているのに、彼女の笑顔を思い出すと、その決意が揺らぐ。これはただの同情でも、職業的な使命感でもない。

 紗季だから。

 認めたくない気持ちと、認めはじめている自分が、同時にいる。

 本当に俺に務まるのか。「朝比奈紗季」を知っている俺が、彼女のリハビリを担当していいのか。

 いまの俺は、作業療法士として?それとも、まだどこかに残っている高校時代の蓮として?

 それでも、あのときの紗季は、助けを必要としているように見えた。誰かに、そっと手を取ってほしいような目をしていた。

 ──だったら、その手を取るのは、俺でありたい。

 午後の業務が始まる少し前、スタッフルームで主任の姿を探した。

「坂井さん、ちょっといいですか」

 デスクで書類を確認していた坂井主任が、眼鏡越しにこちらを見上げた。

「なになに、真面目な顔して。珍しいじゃない」

「あの、今日入院された患者さんのことで」

「ん?誰のこと?」

「……篠崎さん。二十六歳の女性で、交通事故にあった」

「ああ、あの美人さんね。リハビリ長くなりそうな子」

 坂井さんはひょいと椅子を回し、腕を組む。

「で、どうしたの?興味でもわいた?」

「担当に、なりたいです。篠崎さんの」

 坂井さんはじっと俺を見つめ、それから唇の端を上げて笑った。

「ふーん……まあ、確かに。あんな可愛い子だったらやる気出るよね?」

「っ、違いますよ」

 思わず目をそらす。からかわれるのは想定内だったけど、やっぱり照れる。

「昔……ちょっとだけ、知り合いだったんです」

 冷静に言ったつもりだったけれど、わずかに感情が滲んでしまっていたのかもしれない。

 坂井さんは、その表情から冗談っぽさを引いて、目を細めた。

「……まあ、いいんじゃない?あんたなら、ちゃんと向き合えるでしょ。いつも誠実だしさ」

「ありがとうございます」

「ただし、どんな関係だったとしても、いまは患者と療法士。そこだけは、ちゃんと線引きしてね」

「わかってます」

「よろしい。じゃあお願いするわ、先生」

 そう言って、坂井さんはにやりと笑った。

 午後のリハビリ室は、いつも通りの喧騒に満ちていた。その中を、紗季の車椅子がまっすぐこちらに進んでくる。

 俺はすでに準備を終えて、彼女を待っていた。けれど、いざ対面の瞬間が近づくと、呼吸が浅くなるのがわかる。

 周りには他のスタッフや患者さんもいる。紗季とは今日初めて会ったふりをしなければいけない。それだけで、全身に無駄な力が入ってしまう。

「篠崎紗季さんですね?」

 声が少しだけ上ずった。自分でもはっきりと分かるほどに。

 紗季は車椅子に座ったまま、小さく頭を下げた。

「はい。今日からよろしくお願いします」

「作業療法士の秋月です。よろしくお願いします」

 紗季は、控えめに口角を上げながら、誰にも聞こえないようにささやいた。

「先生なんだね、秋月くんが」

 思わず言葉に詰まり、目をそらす。

「今日は簡単な評価だけ行います。今後のリハビリ方針を決めるために、動きや筋力の確認を中心に──」

 説明を続ける俺を、紗季は真っ直ぐに見つめていた。その瞳の奥には再会の余韻か、それとも、まったく別の感情か。はっきりとは分からない。

「じゃあ、よろしくお願いします、秋月先生」

 紗季が、少しだけおどけたような笑みを浮かべる。

「……こちらこそ、篠崎さん」

 その呼び方に、じんわりとした違和感が残る。張り詰めた緊張も、まだ完全に消え去ってはいない。

 でも、それだけじゃない。ほんのわずかな期待が、確かに胸の内に灯っていた。

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