第6話
あれから八年が経ち、季節はまた春を迎えていた。
けれど、あの頃の春とは少し違っている。街の音も、風の匂いも、今の自分にちょうどいい温度で寄り添ってくれていた。
八年前の卒業式の日。俺は、自分の手で大切なものを壊してしまった。悔しかった。惨めだった。でも、不思議と虚無には沈まなかった。
たぶん、あのときの俺は……ほんの少しだけ、強くなれていたんだと思う。
進学先に選んだのは、福祉系の専門学校だった。
振られてもなお、「紗季にふさわしい人間でなければ」という想いは、しつこく居座っていた。
けれど、いつからだろう。その形が、少しずつ変わっていった気がする。誰かのために、ちゃんと生きたい。そんな願いが、自分の中心に根を下ろしていた。
福祉を学び、作業療法士の国家資格を取って、リハビリテーション病院に就職した。最初は、不安だらけで、自分に向いている仕事なのかどうかさえ、正直わからなかった。
でも、患者さんと向き合っていくうちに、少しずつ見えてきたんだ。
「支える」って、ただ相手の痛みに寄り添うことじゃない。
笑ってほしいと願うこと。希望を持ってほしいと、心から思うこと。その人の「生きたい」を、もう一度いっしょに探すこと。それが、俺の仕事なんだって。
何度も、自分の無力さに悔し涙を流した。どれだけ頑張っても届かない現実に、膝が折れそうになる日もあった。
そんなとき、いつも浮かぶ言葉があった。
「秋月くん、おかえり」
紗季がくれた、たったひと言の救いだった。
彼女のことを、忘れた日はない。けれどそれは、もう恋でも執着でもなかった。あの人は、今も静かに、胸の奥にしまってある。
俺は俺の人生を生きる。そう決めてから、ほんの少しずつだけど、日々は確かに前へと進み始めていた。
「よし、今日はここまでにしようか。颯太くん、お疲れ様」
そう声をかけると、目の前の男の子が、小さくうなずいた。
「先生、また来週だよね?」
「うん。あんまり欲張りすぎないのがコツだよ。少しずつ、でも確実にね」
颯太には、交通事故による脳挫傷の後遺症があり、右手に麻痺が残っている。
ペグボードを使った指先の訓練も、最初の頃はうまくいかず、思うように動かない指先に、何度も涙を滲ませていた。それでも俺は、彼の感情をすべて受け止めながら、半年間ずっと寄り添ってきた。
扉がノックされ、颯太の母親が入ってきたのを見て、軽く頭を下げた。
「今日も一生懸命やってくれました。先週よりも指先の協調性がかなり向上しています。セラピーパテの作業も、ずいぶん上達しましたよ」
そう伝えながら、颯太が作った作品を手渡す。柔らかい素材を使って形作った、小さな動物。まだ不格好だし、崩れかけている部分もあった。でも、そこには、たしかに力が宿っていた。指先に込められた、彼なりの気持ちみたいなものが。
「まあ、颯太が作ったの?上手になったわね」
母親の言葉に、颯太は少しだけ照れたように目を伏せる。
「べ、別に……たいしたことないよ」
「颯太くん、そんなこと言わないで」
そっと、彼の背中に手を添えた。
「最初は、丸を作るだけでも大変だったのに……今日は、ちゃんと動物の形になってる。……ほんとに、すごいよ」
颯太は、うつむいたまま、ほんの少しだけ口元をゆるめた。そして、照れくさそうに、自分の作ったパテの作品をそっと撫でていた。
──作業療法って、不思議なものだな。
休憩室でコーヒーを淹れながら、ふとそんなことを思った。医学的には、リハビリの一種。けれど実際は、ただ動かなくなった体を、また動かせるようにするだけの仕事じゃない。
俺の専門は、特に手や指の機能回復だ。
人の手って、思ってる以上に、いろんな可能性を持ってる。何かを作る。誰かに触れる。感じる。そして──誰かと、つながる。
でも、その手が動かなくなると、世界は一気に狭くなる。驚くほど、あっけなく。
だからこそ、「できる」をひとつでも増やすことは、大きな意味を持つんだと思う。ただの動作の回復じゃなくて、その人の人生の、可能性の話でもあるから。
颯太みたいな子は、そういう変化にまっすぐ向き合う。素直すぎるほどに。
できないことに直面して、怒って、悲しんで、それでも目をそらさずに、真正面からぶつかってくる。
初めて会った日、颯太は投げやりな目をして、言った。
「もう……野球はできないんでしょ」
その声には、すべてを諦めきったような重さがあった。未来ごと手放すような目をしていた。
だから俺は、彼の目をまっすぐ見て答えた。
「野球は、もう少し先になるかもしれない。でも、君にはまだたくさんできることがある。それを一緒に、見つけていこう」
そのときの颯太の表情を、今でも覚えている。ほんの少しだけ眉が動いて、まっすぐに俺を見返してきた。
希望って、たぶん、ああいう一瞬に宿るんだと思う。
「秋月先生、次の患者さんの準備ができました」
看護師の声が、現実に意識を引き戻す。次の患者は、リウマチによって指の変形が進んでいる七十代の女性だった。
「ありがとう。すぐに行きます」
自分の左手に、ふと目を落とす。
この手にはもう、紗季の温もりは残っていない。
けれど、数えきれない患者さんの手に触れ、「できない」から「できる」への道のりを支えてきた。誰かの人生に、自分の手で寄り添う。リープする前の俺には、想像もできなかった未来だ。
最近、ときどき思う。俺は本当に、リープしてきたんだろうか?
たしかに、あのとき三十五歳だった俺は、十八歳に戻った。でも、三十五歳だったころの記憶は少しずつ輪郭を失っている。思い出そうとしても、手のひらから砂がこぼれるように、感触だけが残って、やがて消えていく。
霧島が言っていた。「体に馴染むにつれて、リープ前の記憶は薄れていく」って。
たぶん、今の俺がそうなんだろう。
過去をやり直しているはずなのに、もう俺は「今の俺」としてしか、生きていけない。
* * *
時計を見ると、九時を少し回ったところだった。
カンファレンス前、毎朝恒例の雑談タイム。
「秋月先生、昨日の書類、字ちっちゃすぎですよ。拡大鏡ないと読めませんって」
そう言って笑ったのは、作業療法士の古賀さんだった。冗談を言いながら、いつもさりげなく場を和ませてくれる。
俺は苦笑しながら、渡された書類の束を受け取った。
「すみません。今度から気をつけます」
「先輩、ちゃんと老眼にやさしいフォントにしないと駄目じゃないですか~」
わざとらしく肩をすくめてみせたのは、新人の浜田くん。口は達者だが、患者には驚くほど真摯な対応をする、妙に憎めないやつだ。
「じゃあ浜田くん、今日からベッドメイキング三十連発、よろしく」
「ちょ、それってジョークってことでいいんですよね?……ね?」
何でもないやりとりに、つい笑ってしまう。まさか、自分がまたこんなふうに笑える日が来るなんて、思ってもみなかった。どこかで取りこぼしてきたものを、少しずつ取り戻しているような、そんな感覚があった。
「そろそろ始めるよー。新規の入院、あるからね」
主任の坂井さんがホワイトボードの前に立った。カチッと音を立ててマーカーのキャップを外す。
ボードには「新規入院三名」の文字が書かれていた。
「じゃあ今日の入院の確認ね。まず一人目は、飯田さん。四十二歳男性。肩の腱板断裂で、術後の回復期」
「続いて橋本さん。六十五歳女性。脳梗塞の後遺症で、右の軽麻痺あり。ADLはほぼ自立傾向」
「で、最後は篠崎さん。二十六歳女性。交通事故による両下肢と右手の損傷。ADLは大幅に低下。リハビリ期間は長くなりそうだね」
「二十六でそれは……ちょっとキツいな」
ぽつりと、誰かがつぶやいた。ファイルの紙がめくられ、各自が静かに頷きながら目を通していく。
「明日には担当決まると思うので、希望がある人は今日中に教えてくださいねー」
「了解でーす」
「はーい」
資料を閉じる音が、パラパラと、部屋のあちこちから重なっていった。それぞれ持ち場へ散っていき、いつもの一日が始まった。
忙しさに追われるうちに、気がつけば午前の業務が終わっていた。張りつめていた空気がふっと緩む。短いけれど、肩の力を抜ける時間だ。
俺もファイルを片づけ、椅子を押し戻した。窓の向こうから差し込む陽ざしに誘われるように、中庭へと足を向ける。
外気を胸いっぱいに吸い込むと、微かに草木の匂いが混じっていた。
「平和すぎて、怖いくらいだな」
俺が働いているリハビリテーション病院には、広い中庭がある。歩行訓練や五感のリハビリに使われるが、患者さんが花を眺めていたり、スタッフがコーヒー片手にぼーっとしていたり、そんな光景も珍しくない。季節ごとに咲き変わる花、抜けていく風の音。少しできすぎたような、穏やかさ。
「……ん?」
小路を歩いている途中、視界の端でふと引っかかるものがあった。植え込みの向こう側、通路の先に何かが止まってる。
数歩進んで、ようやくわかった。──車椅子だ。でも、何か様子がおかしい。止まっているというより、足を取られているような……いや、引っかかってる?
もう少し近づいて、ようやく状況が見えてきた。前輪の片方が、側溝にはまり込んでいる。バランスを崩したまま、どうにも動けなくなっていた。
乗っているのは、たぶん、若い女性だった。背中をほんの少し丸めて、何かを確かめるように、ゆっくり手を伸ばしている。
「大丈夫ですか?手を貸しますね」
声をかけながら、反射的にしゃがみこんだ。
──その瞬間、すべてが止まったように感じた。
鼓動だけがやけに大きく響いていた。目の前にいるその人は、たしかに以前とは少し違って見えた。でも──それでも、変わっていなかった。
なのに、声が出なかった。足も動かない。肺が押さえつけられているみたいに、呼吸さえままならなかった。
そんなはずはない。だってもうあれは、終わったはずの話だったのに。それなのに、彼女はいた。
ここに生きていて、息をしていて。そして目の前で、確かに俺を見ていた。
喉が詰まって声にならない。でも、俺は逃げなかった。逃げたくなかった。
彼女を見つめ返し、言葉を絞り出すように、声を発した。
「……朝比奈……さん」
その瞬間、彼女の瞳が、ほんのわずかに見開かれる。
そして──
「……変わってないね、声」
たったそれだけの言葉だった。けれど、そこにすべてが詰まっていた。
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