第5話

 部屋の天井を、ぼんやりと見つめていた。何も考えられずに、あの言葉だけが頭の中をぐるぐると巡っている。

 ——私が好きだった秋月くんとは、少しだけ違うのかもしれない——

 まるで、過去の自分自身に否定されているような、そんな感覚だった。

 やり直したのに。

 必死で、やり直したのに。

 (……何のためだったんだよ)

 卒業式が終わって、何日が経ったのかも、もうよくわからない。ベッドから起き上がることもできず、ただ天井を見上げる日々。

 ちがう。そんなはずはない。

 俺は、紗季のために、やり直すために、ここへ来たんだ。あの頃の、何もできなかった自分を変えるために。……なのに、どうして。

 気づけば、外へ出ることもほとんどなくなっていた。食事もまともに喉を通らない。ただ時間だけが、意味もなく流れていく。

 握りしめた拳に残ったものは、失恋の痛みと、何も変えられなかったという、どうしようもない絶望だった。

 窓の外では、桜が容赦なく散っている。花びらが風に攫われるたびに、何もかもが終わってしまったのだと、突きつけられるようだった。

 (霧島の記憶送信装置に乗ったとき、こんな結末は想像もしてなかった)

 携帯電話の画面を見ても、誰かに連絡する気力さえ湧かない。このまま、時間が止まってしまえばいいとさえ思った。

 (……あのまま、三十五歳の人生を続けていたら──)

 いや、それも違う。思い出すのは、誰にも必要とされなかったあの日々。孤独で、虚しくて、ただ時間をやり過ごすことに意味を探していた。

 そこから逃げ出すように戻ってきたはずなのに。今のこの胸の痛みは、あの頃と、何ひとつ変わっていなかった。

 不意にドアの向こうからノックが響き、七海の声がした。

「れん〜、ご飯できてるよー」

 返事はしないまま、重い身体を起こす。空腹かどうかもわからない。ただ、返さないと部屋に入ってこられる。それが嫌だったから、仕方なく足を動かした。

 食卓には、いつもより少しだけ豪華な夕飯が並んでいた。煮込みハンバーグ、ポテトサラダ。俺の好物ばかりだった。

「はい、死んだ顔の弟くんには特別サービスでーす」

 七海が冗談めかして皿を差し出す。その軽さが妙に可笑しくて、笑いそうになる。けれど、頬の筋肉は思うように動かなかった。

「まさかとは思うけど、卒業式でフラれたとかじゃないよね?」

 フォークを持つ手が止まる。

 七海はその一瞬で察して、目を丸くした。

「……え、マジ?ご、ごめん。いや、そんな深刻だとは……」

 七海は視線を落としたまま、しばらく黙り込んだ。やがて、少し声を落としてつぶやく。

「あの子、名前なんだっけ?ほら、初詣に一緒に行ってた……」

「……朝比奈紗季」

「……そっか、やっぱりあの子か。でも、失恋は人生の肥やしって言うでしょ?あんたはまだ始まったばかりなんだから」

 始まったばかり。俺にとってのその言葉は、皮肉にさえ思えた。

 (全部捨ててやり直したのに……結局、こんな結末かよ)

「ねえ、そんな顔してると皺が増えるよ。十八歳なのに、おじさんみたい」

「……っ」

 思わず吹き出してしまう。

「え、なに?そんなに面白かった?」

 七海が怪訝そうに首をかしげる。

「いや……なんでもない」

「とにかく食べなって。明日になれば、少しは気持ちも晴れるかもしれないよ」

 湯気の立つ料理の香りが、ほんの少しだけ鼻をくすぐる。

 それに誘われるように、固くなっていた心が、わずかに緩んだ気がした。

 *  *  *

 駅前のファミレス。なんでこんなにも、日常の音ばかりが耳につくんだろう。

 食器のぶつかる音、笑い声、注文を取る店員の声。どれも当たり前で、だからこそ、今の自分には少しだけ遠かった。

 ドアベルの音とともに、霧島が現れた。連絡してから、まだ三十分も経っていない。

「よう、蓮。呼び出されたぞ」

「悪い、急に」

「気にすんな」

 向かいに座ると、霧島はメニューを手に取って笑う。

「で、卒業式どうだった?紗季には……告白したのか?」

 グラスの氷が、カランと音を立てた。ぬるくなったコーラをひとくち飲む。

「振られた」

「……え?」

 霧島の手が止まり、ゆっくり顔を上げた。

「いや……え、今なんて言った?」

 その目に、ひどく驚いた色が浮かんでいた。

「嘘だろ……だって……あいつ、お前のこと……」

 言いかけて、口をつぐむ。何をどう言えばいいのか分からない、そんな様子だった。

 霧島はしばらく黙ったまま、テーブルの一点を見つめている。その沈黙が、妙に重たく感じられた。やがて、ぎこちなく笑いながら、呟いた。

「まぁ……ちゃんと伝えたのは偉いよ。蓮がそこまで踏み出したの、俺初めて見たもん」

「慰めてくれてんのか?」

「そりゃ、当然だろ?親友なんだから」

 気恥ずかしいような、でも救われるような言葉だった。ほんの少しだけ、張りついていたものが緩む。

「……ありがとな」

 そう告げた途端、霧島が勢いよく立ち上がった。

「よし、とりあえず食おうぜ。今日は俺のおごりだ」

「……マジ?じゃあ、チーズハンバーグと海老フライと大盛ライス、それからデザートにチョコパフェもつけていい?」

「お前っ……調子乗んなよ!俺、今月やばいんだって!」

「いや、慰めてくれるんだろ?じゃあ遠慮なく」

「しょうがねえな。今日だけだぞ」

 そう言いながら、霧島はメニューを取り出して真剣な顔で見始めた。

「あ、でもこのセットにするとデザートつけられないな。パフェは単品か……」

「やめとけよ、今月やばいんだろ」

「うるせぇ、こちとらなりふり構ってられねえんだよ!」

 二人して顔を見合わせ、思わず笑う。大したことじゃない。でも、それが妙に嬉しかった。

 全部を捨ててリープしてきたのに──俺の隣に紗季はいなかった。失ったものは、たぶん、戻らない。それでも今、こうして笑える時間がある。バカみたいな会話に、ほんの少し救われている自分がいた。

「また来てる」

 霧島が携帯電話を覗き込み、眉をひそめた。

「例の迷惑メール?」

「ああ。添付ファイルだけのやつ。obervation_042。前は041、その前は040……毎回、番号がひとつずつ増えてる」

「いたずらじゃないのか?」

「だとしたら、手が込みすぎてる。しかも、いつもきっちり同じ時間に届くんだ。秒単位で、ぴったり」

「……気味悪いな。お前、なんか悪いことでもしたんじゃないの?」

 からかうように言ったつもりだった。けれど、霧島は少しだけ考え込むように目を伏せる。

「……いや、身に覚えはないけどさ。こんだけ届くと、俺、いつの間に闇のメルマガ登録した?って気分にはなるよな」

 霧島はそう言うと、苦笑まじりに携帯電話をポケットへ戻した。

 帰り道の風は、やけに冷たい。

 ポケットの中の携帯電話は、静かで、虚しかった。

 もう、紗季から連絡が来ることはない。そう思っただけで、すべてが終わってしまったような気がした。

 けれど、世界は変わらず動いていた。踏切の遮断機が上がり、通りすぎる人たちが何事もなかったかのように前へ進んでいく。

「……ただの未来、か」

 ぽつりとつぶやいたとき、ほんの少しだけ、自分の足で立っている実感が戻ってきた。

 これは、やり直した未来なんかじゃない。紗季のいない、ただの未来。

 それでも——俺の未来だ。

 ここから、歩いていくしかない。

 *  *  *

 制服を脱いだあとの街は、どこかよそよそしかった。通り過ぎる人の声は、どこか他人行儀で、しばらく歩く方向すら決められなかった。

 卒業したはずなのに、まだ何も始まっていない。未来を変えるためにここへ来たのに、失っただけで、手の中には何も残っていなかった。

 たぶん、本当は気づいていた。最初から俺は、彼女とやり直すことばかり考えてた。人生じゃなく、紗季との関係だけを。チャンスをもらっても、使い方を間違えたら、何も残らない。そんな当たり前のことを、ようやく思い知らされる。

 街角のベンチに腰を下ろし、リュックから進路ガイドのパンフレットを取り出す。高校で配られて以来、一度も開かなかったものだ。

 ぺら、ぺらとページをめくる。工学、経済、教育、福祉、医療——ふと、指先が一枚の紙にとまった

 作業療法士。

 その下には、小さな写真と短い説明文があった。日常生活の動作や作業を通じて、心と体のリハビリテーションを行う専門職、とある。

 文字を追うごとに、その仕事の輪郭が浮かび上がってくる。障害や病気、怪我によって日常に困難を抱える人たちに、自分らしい生活を取り戻してもらうための支援をする仕事。

 (知らなかった。こんな職業があるなんて)

 紗季の言葉を思い出す。

「誰かの役に立てる仕事がしたいんだ」

 あのときは、ただ眩しくて、なにも言えなかった。

 でも——今ならわかる気がする。誰かの役に立ちたいと思えるのは、きっと、自分が誰かに救われたことがあるからだ。

 俺も、そうなれたらいいのかもしれない。何かをやり直すためじゃなくて、これからの誰かのために。

「作業療法士」

 そっと口にしてみるその言葉に、違和感はなかった。むしろ、心の片隅に、小さな光が灯ったような気がした。

「……やってみようかな」

 ぽつりとこぼれた言葉は、風にさらわれて、どこか遠くへと消えていった。けれど、自分の耳には、確かに届いていた。それはまぎれもなく、今の俺の本音だった。

 まだ、足音は聞こえない。何かが始まった実感も、どこにもない。けれどいつか、聞こえてくる気がする。この胸の奥で、生きている音が。

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