第4話
気付けば、初詣から二ヶ月が過ぎていた。冬の風は少しずつ和らぎ、街の景色にも、わずかに春の気配が混じり始めている。
この二ヶ月、まわりは受験一色だった。みんな、それぞれの未来に向かって、まっすぐ進んでるように見えた。
そんな中、俺は大学受験をしなかった。未来を諦めたわけじゃない。ただ、もう一度この世界をやり直すことになった俺にとっては、焦って進学先を選ぶよりも、やり直すべき過去と向き合うことのほうが、大切だった。
紗季との練習は、相変わらず続いている。最初の頃よりも、自然に音を重ねられるようになっていた。
けれどそれも、もうすぐ終わる。
卒業式当日。いざ迎えてみると、驚くほど落ち着いている自分がいた。
春の光が体育館に差し込み、整列する生徒たちの顔をやわらかく照らしている。三年間の高校生活を締めくくる、特別な時間。
校長の式辞が終わり、やがて各クラスの代表が壇上へと向かっていく。俺の名前が呼ばれたのは、そのほんの少しあとだった。
「秋月蓮」
名前を呼ばれ、歩き出す。壇上に立ち、証書を受け取り、一礼して戻る途中。ふと顔を上げると、紗季がこちらを見て微笑んでいた。
式が終わった後、生徒たちは思い思いに記念撮影を始めていた。
「秋月くーん!」
振り返ると、紗季が手を振りながら駆けてくる。その後ろには、霧島の姿もあった。
「三人で写真、撮ろうよ!」
小さく肩で息をしながら、紗季はポケットからカメラを取り出した。
「俺も入っていいの?」
霧島が遠慮がちに言った。
「もちろん。私たち三人で卒業したんだから」
「いやいや、蓮と紗季で並んどいたほうが絵になるでしょ」
「そういうこと言うと、逆に居心地悪くなるんだけど」
俺がぼそっと返すと、紗季がふたりの間にすっと入り込んだ。
「じゃあ、こうすればいいよ。私が真ん中。はい、決まり」
そう言って、両側の腕を軽く引いた。
クラスメイトのひとりがスマートフォンを構えて、こちらに合図を送る。
「はーい、いくよー。……チーズ!」
シャッター音が小さく鳴った。その瞬間、風がひとすじ吹いて、紗季の髪がふわりと揺れた。俺はカメラを確認する彼女の横顔を、なんとなく目で追っていた。
そのとき、ぽんと肩を叩かれる。
「で、お前、卒業した後どうすんの?」
「実は……まだ決まってない」
「え……マジかよ」
霧島は、少しあきれたように眉をひそめた。
「この時期に決まってないって、なかなかヤバいぞ?」
「まあ、これからなんとかするさ」
とりあえず、そう答えた。本当は、聞かれるたびに少しだけ困っている。周りがどんどん先へ進んでいくなかで、自分だけが立ち止まっているような感覚があった。
「はい!私は教育学部!」
隣で紗季が、手を挙げながら言った。
「先生になりたいんだ」
「先生か。朝比奈さんなら、きっと、いい先生になると思うよ」
「……うん。ありがと、ちょっと照れるね」
そう言って紗季は微笑んだ。
教室のあちこちでは、別れを惜しむような声が飛び交い、女子の中には、目を赤くしている子の姿もある。
窓の外に目をやると、並木の桜がつぼみをふくらませはじめていた。その淡い色に目をとめたまま、俺は、深く息を吸い込んだ。
(いよいよ、だな……)
午後になると、体育館は謝恩会の会場へと姿を変えていた。保護者や教師たちが静かに席に着き、中央のステージには、大きなピアノがぽつんと据えられている。
控室の片隅で、俺は何度も指を動かしていた。鍵盤の感覚を思い出すように、ひとつずつ、確かめるように。
「大丈夫?」
紗季が声をかけてくる。
「ああ、問題ないよ。朝比奈さんは?」
「うん、ちょっとだけ緊張してるかも……でも、秋月くんと一緒だから大丈夫」
その言葉だけで、今日ここに来てよかったと思えた。
やがて、司会の声が場内に響く。
「それでは、朝比奈紗季さんの歌と、秋月蓮くんのピアノ演奏です」
拍手に包まれながら、俺たちは並んでステージへと歩き出す。ピアノの前に腰を下ろし、隣で紗季がマイクの前に立った。
彼女の指先が、かすかに震えている。小さく頷くと、紗季は、それに応えるようにマイクを握り直した。
鍵盤にそっと触れた瞬間、静かな旋律が空気を満たしはじめる。音はまだ控えめで、呼吸のように小さく響く。ざわめいていた会場が、少しずつ静かになっていくのがわかった。
数小節の前奏のあと、紗季の声が重なった。その声には、迷いはなかった。音楽室で何度も繰り返したやりとり。目を合わせなくても、息は揃っていた。
旋律が進むにつれて、音に熱が宿ってくる。紗季の歌が、ひときわ力強く響く。
(──この時間が、ずっと続けばいいのに)
ラストに近づくと、紗季の声がさらにのびる。指先にも力がこもる。ふたりの音は、ぴたりと寄り添ったまま、最後の一小節へと滑り込んでいった。
少しの静寂ののち、温かい拍手が沸き起こった。
紗季はほっとしたように微笑み、俺のほうを見た。視線が交わる。言葉はなかったけれど、それだけで十分だった。
拍手に背中を押されるようにステージを降りると、クラスメイトたちが駆け寄ってきた。
「すごかったよ!」
「紗季ちゃんの歌、感動した!」
次々と飛び交う賞賛の声のなか、紗季が俺の袖をそっと引いた。
「秋月くん、謝恩会のあと……音楽室に来てくれる?」
不意を突かれ、心臓が一瞬跳ねたのを、自分でもはっきりと感じた。それを悟られまいと、なるべく冷静な声で言葉を返す。
「……わかった」
紗季は微笑んで、「ありがとう」と言い残し、また皆の輪の中へと戻っていった。
俺はその背中を見つめながら、静かに決意した。
今日、伝えよう。この想いを。
* * *
西日が差し込む音楽室は、静けさに包まれている。
俺はその静寂を破らぬよう、そっと扉を開けた。
紗季はすでに窓際に立ち、外を見ている。その横顔は、夕陽に照らされていて、少し儚く見えた。
「来てくれたんだね」
振り返った紗季が、柔らかく微笑む。
「ああ。約束したからな」
俺は、ゆっくりと彼女の隣へ歩み出した。
「さっきの謝恩会、すごく楽しかった。緊張したけど、秋月くんがいてくれたから、ちゃんと歌えた気がする」
「こっちこそ。歌、すごくよかったよ。みんなにちゃんと届いてたと思う」
ステージで紗季と過ごした、あの数分間のことを思い返していた。ほんの短い時間だったのに、今でもその余韻が残っている。
「今日で、ここに来るのも最後かと思うと、ちょっとだけ寂しいね」
紗季は目を細めて、窓の外を見つめていた。
「だからね、最後に秋月くんと一緒にピアノを弾きたいなって思ったんだ」
一瞬だけ迷ったけれど、断る理由なんてなかった。
「いいよ」
「ありがとう。初めて一緒に弾いた曲、覚えてる?」
「ああ、覚えてる」
紗季の隣に腰を下ろし、そっとピアノの蓋を開ける。金属が軋む小さな音が、静まり返った空間に控えめに響いた。
「準備、いい?」
緊張を帯びた声が、隣から届く。俺は静かに息を吸い込み、呼吸を整えた。
「ああ。いこう」
鍵盤に指を置き、最初の音をそっと鳴らす。その瞬間、音楽室の空気がふたりの音で満たされていく。
再会した日に一緒に弾いた、あの曲。今はもう、驚くほど自然に旋律が重なっていく。
三十五歳の俺は、すべてを終えたはずの人生から、もう一度だけチャンスをもらった。今度こそ、逃げずに、誤魔化さずに、彼女に想いを届けたかった。だから俺は、ここにいる。この手で、未来を選び直すために。
横目で紗季を見ると、彼女は目を閉じたまま、かすかに口元を緩めている。音の余韻に身を委ねながら、心の奥を、そっと確かめているようだった。
やがて曲が終わる。残響が静かに薄れていき、音楽室は再び沈黙に包まれた。
今しかない。そう思った。
喉が渇く。唇がわずかに張りついて、うまく言葉が出てこない。
「朝比奈さん」
呼びかけた声が、自分のものじゃないみたいに響いた。それでも、視線を合わせ、まっすぐに言葉を続ける。
「ずっと、言おうと思ってた。俺は……朝比奈さんのことが、好き、なんだ」
言葉が空気に溶けたその瞬間、心臓がどくんと跳ねた。呼吸がうまく整わず、手のひらにじっとりと汗がにじむのがわかった。
紗季は目を伏せたまま、スカートの裾をそっとつまんでいた。その手が、かすかに震えている。
「……ありがとう」
それだけだった。
(え……?)
思考が、一瞬止まる。自分の言葉だけが宙に残って、着地する場所を失ったまま漂っているようだった。
紗季はひとつ瞬きをして、視線を窓の向こうへ滑らせた。
「秋月くんのこと、大切に思ってるよ。……ほんとに」
紗季の声はやわらかくて、けれど慎重に選ばれた言葉のように聞こえた。
「頼りになるし、優しいし、なんでも受け止めてくれそうで……そういうところ、すごく魅力的だと思う」
どこか、引っかかる。言葉の端々が、微妙に噛み合っていない気がした。
「だけどね……気づいちゃったんだ」
紗季の輪郭は夕陽に透けて、どうしようもなく遠く感じる。
「私が惹かれてたのって……たぶん、昔の秋月くんだったんだと思う。ちょっと不器用で、壊れそうで……それでも、一生懸命に生きようとしてた秋月くん」
血の気が、すうっと引いていく。指先が、ひどく冷たかった。
「今の秋月くんは、すごく強くなったと思う」
紗季の声はやさしかった。
「もう、私がそばにいなくても大丈夫な人になってて……それは、きっと、すごく素敵なことだと思う」
そして、そのやさしさの奥には、静かな拒絶があった。
「でも……好きだったあの人が、遠くにいっちゃったような気がして……」
視界がゆらぐ。彼女の声が、ぼんやりと遠ざかっていく。
「ごめんね、こんな言い方……ひどいよね」
紗季は、俺を傷つけない言葉を、必死に探しているように見えた。
「私、うまく言葉にできないんだけど……」
それでも彼女は、まっすぐ俺の目を見た。
「秋月くんは、今のままでいいと思う。だけど……私が好きだった秋月くんとは、少しだけ違うのかもしれない」
その瞬間、まるで深海に沈んだような静けさが、ふたりの間に落ちた。
返したい言葉はあるのに、口が動かない。頭では理解しようとしているのに、心がそれを拒んでいる。
ようやくの思いで、喉から声をしぼり出した。
「……そっか。正直に言ってくれて……ありがとう」
紗季は、静かに立ち上がった。
「ごめんね、こんな話をするために呼び出したみたいになっちゃって」
俺は、うなずくことしかできなかった。変に言葉をつなげば、なにかが壊れてしまいそうで。
「……もう行くね」
紗季は、小さく笑って歩き出した。窓から差し込む夕陽が、その髪を、やわらかく金色に染めている。
やがて扉の向こうに、彼女の姿が消えた。音楽室に残されたのは、茜色に染まった空と、ピアノの前で立ち尽くす俺だけだった。
手のひらは冷えきっている。動きたくても、体は言うことをきかなかった。
「俺が……自分で壊したのか。あのとき、たしかにあったはずの想いを」
ぽつりと漏れた独り言が、鍵盤に吸い込まれるように消えていく。
春風が窓から吹き込み、楽譜のページをそっとめくった。一枚の花びらが、音もなく鍵盤に舞い落ちる。俺は、ただそれを見つめていた。
「……バカみたいだな」
小さな嘆きが、誰に届くこともなく、夕暮れの音楽室に溶けていった。
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