第3話

放課後の音楽室に、橙色に染まりはじめた空の光が差し込んでいる。

「あの……」

 鍵盤の上で、指が止まった。顔を上げると、紗季が少し困ったような顔で笑っていた。

「ごめんね、秋月くん。急にピアノの伴奏お願いしちゃって」

「い、いや。こっちこそ、下手で申し訳ない……」

 どこか居心地の悪さを感じながら、そっと鍵盤から手を離す。手のひらが、少しだけ汗ばんでいた。

「そんなことないよ。ちゃんと基礎ができてるって思った。練習すれば、きっと大丈夫だよ」

「……ありがとう。でも、本当に俺でいいのかなって、まだちょっと思ってる」

「いいに決まってるよ。私もひとりじゃ心細かったし。だから、二人で頑張ろ?」

 そう言って、紗季は微笑んだ。

「わかった。やってみるよ」

「じゃあ、最初からもう一度」

 背中を押されるようにして、俺は再び鍵盤に指を置いた。不器用でもいい。ゆっくりでもいい。一音一音を確かめるように、鍵盤を叩いていく。

 選んだ曲は、ほんのり切なくて、でも不思議と希望がにじむような卒業ソングだった。

 紗季は隣で楽譜を見つめながら、小さく口ずさんでいる。

「あ、そこは……」

 紗季が身を乗り出して、俺の手元を指さした。

「この音、もう少し長く伸ばしてみて。そうすると、歌いやすくなると思う」

「あ、あぁ……わかった」

 彼女の気配がすぐそばにあって、視界の端に横顔がちらつく。距離が近い。わかってるのに、意識しないふりがうまくできない。鼻の奥が妙に冴えて、息をひとつ、飲みこんだ。

 ……なんなんだ、この感じ。

 動揺を悟られないように、言われたとおりに弾き直してみる。

「そう、それそれ!秋月くん、呑み込み早くて助かる〜!」

 紗季が、からかうように微笑んだ。

 どう返せばいいのか、まったくわからない。仕方なく、曖昧に笑ってごまかした。

「お、おう。二人だけの音楽室でラブラブな練習か?いいねぇ〜」

 唐突な声に振り向くと、扉の前には、ニヤけた顔の霧島が立っていた。

「お、お前!いつから……?」

 霧島は肩をすくめながら入ってきた。

「今来たとこだよ。バンド練の前に譜面台取りに来たんだってば。……お邪魔だった?」

 わざとらしく眉をひょいと上げる霧島に、紗季が思わず声を上げた。

「べ、別に邪魔なんかじゃ……ただピアノの練習をしてただけだよ。謝恩会で歌うことになって、秋月くんに伴奏お願いしたの」

「へぇ〜、そりゃまた素敵な企画で。蓮、ピアノ頑張るんだ?」

 霧島は俺の隣にどかっと座って、軽く鍵盤を叩いた。たったそれだけで、洒落たコードが部屋に広がった。差を見せつけられた気がして、少しだけ舌を打ちそうになる。

「ま、まあな。……できる範囲で、だけど」

「いいじゃん。久しぶりに、打ち込んでる蓮を見ると、俺も嬉しいよ」

 そう言って、霧島は立ち上がった……が、ふと思い出したように、ポケットをまさぐって携帯電話を取り出す。

「あ、そういえばさ。最近、ちょっと気味悪いメールが来たんだよ。タイトルも本文もなくて、obervationっていう添付ファイルだけ送られてきてる」

「それ、ウイルスじゃないのか?」

「かもな。でも、開いてないし。害もなさそうだし、放っといてる」

 霧島は苦笑まじりに言って、携帯電話をまたポケットに戻した。

「じゃ、邪魔しないでおくよ。二人の、特別な時間を大切に〜」

 おどけたように手を振りながら、部屋を出ていく。

「ほんと、ああいうとこ昔から変わんないよね、霧島くん。調子乗りすぎ」

 そう口にしながらも、紗季の頬はどこか緩んでいた。

 練習を終えて外に出る頃には、空はすっかり夜の色をしていた。校舎を抜け、並んで歩く足音が、妙にくっきりと響く。

「今日はありがとう、秋月くん。少しずつだけど、形になってきた気がする」

「こちらこそ。まだまだだけど……がんばるよ、俺なりに」

「あ、そうだ」

 ふいに紗季がカバンを開けて、楽譜を取り出した。ところどころ蛍光ペンで印がついていて、余白にはびっしりと小さな文字。

「自分用に書いたやつなんだけど、もしかしたら役に立つかなって」

「わざわざ……ありがとう」

 視線が紙の端に落ちる。手描きの音符の横に、「がんばろう!」の文字があった。紗季らしい丸っこい字。

「また明日、練習しよう?」

「ああ。もちろん」

 校門に着くと、紗季は俺とは反対の道へと歩き出す。

「じゃあ、また明日ね!」

 手を振る姿を見送りながら、ふと、足が止まった。この優しさは、彼女がみんなに向けるものなんだろうか。それとも……俺にだけ、なんだろうか。

 答えは出ない。出るわけない。けど、ひとつだけわかることがある。彼女への気持ちだけは、日に日に、強くなっていっている。

 手に残る楽譜の感触。紙に詰まった紗季の気持ち。それが特別かどうかなんて、今はもう、どうでもいい。

 明日、また会える。ただそれだけで、今の俺には十分だった。

 *  *  *

 終業式を直前に控えた教室には、どこか浮き足立った空気が漂っていた。クラスメイトたちは好き勝手に話し込み、冬休みの予定やクリスマスの約束なんかを、楽しそうに語り合っている。

 俺は窓際の席で、ぼんやりと外を眺めていた。窓越しに伝わる空気は冷たく、指先からゆっくりと体の奥へ染み込んでくる。それでも、内側から小さな火種のような希望が生まれていた。

 放課後のピアノ練習は、いつの間にか日課になっていた。最初はたしかにぎこちなくて、どう接したらいいのか分からなかった。でも最近は、ふたりの間の空気が少しずつ変わってきている気がする。

「おい、蓮。何ぼんやりしてんだよ」

 霧島のにやけた顔がのぞき込んできた。

「別に……何も」

「何もって。お前さぁ、顔に全部出てるぞ?」

 意地悪く笑いながら、霧島が小声で続けた。

「紗季との練習、順調なんだろ?」

「まあ……な」

 大っぴらに話すようなことでもない。だから、つい曖昧に返してしまう。

「へぇ〜、なんか、いつもより素直じゃない?」

 からかうようなその目が、やけに鬱陶しい。なのに、今日はなぜか、いつものように否定する気になれなかった。年末特有の、変な開放感のせいかもしれない。

「……練習は、楽しいよ」

「おおっ!」

 わざとらしく肩を揺らしながら、霧島が目を丸くする。

「あの蓮がそんなこと言うなんて。お前、中身すり替わってないよな?」

 図星すぎて、思わず笑ってしまった。

 中身が別人──普通なら冗談にしか聞こえない。けれど、今の俺にとっては、それが紛れもない現実だ。そして、こうして笑えている自分もまた、少しずつ変わり始めているのかもしれない。

 終業式は淡々と終わり、校舎の空気は一気に冬休みモードへと切り替わっていた。廊下を歩く足音もまばらで、なんとなく世界が緩やかに感じる。

 下駄箱の前で靴を履き替えていると、霧島が隣に並んだ。

「で?冬休みの予定は?」

「特にないけど」

「マジか。デートとかないの?」

「デートって……練習はあるけど」

「練習かよ。まあ、二人きりなら、それもデートみたいなもんだけどな」

 霧島は、いつもの調子でニヤついている。

「冗談はともかく、ピアノ、頑張れよ」

「わかってるよ」

 冬休みの間も、練習は続けるつもりだ。紗季との約束だし、それを理由に一緒にいられるなら、それでいいと思った。

「じゃ、また来年な!」

 霧島は手をひらひらと振り、自転車置き場の方へ去っていった。

 家に着くころには、空はすっかり夜の色に染まり、街の光がにじむように揺れていた。

 いつものように自室の机に向かい、楽譜を広げる。見慣れなかったその五線譜も、今では指に馴染んでいて、目を閉じても旋律が浮かぶ気がした。

 毎日少しずつ練習を重ねながら、自分の中で育っていく感情に、気づきはじめていた。紗季と向き合ってピアノを弾く時間は、俺にとってはただの練習じゃなくなっている。

 そんなことを考えていたとき、不意に携帯電話が震えた。

 画面には「朝比奈紗季」の名前。

 一瞬、心臓が跳ねる。まさか、紗季から電話がかかってくるなんて。手のひらがじんわりと汗ばんでくるのを感じながら、通話ボタンに触れた。

「もしもし」

「あ、秋月くん!ごめんね、いきなり電話して」

 受話器の向こうの声は、少しだけ弾んでいた。

「大丈夫。どうかした?」

「あのね、ちょっと聞きたいことがあって……」

 少しだけ言葉を選ぶような沈黙があった。

「お正月って、何か予定ある?」

「え?特に……決まってないけど」

 予想外の質問に、鼓動がわずかに速くなるのを感じる。

「そっか。じゃあさ、一緒に……初詣行かない?」

「初詣?」

「うん……毎年、家族と行くんだけど、今年は友達と行きたいなって思ってて」

「友達、か」

「あ、その……二人で、だけど……行きたくなかったら全然いいから!」

 焦ったような口調が、妙に可笑しかった。つい、笑いそうになってしまう。

「行くよ。俺も予定なかったし」

「ほんと?やった!じゃあ、元旦でいい?お昼過ぎくらいに」

「うん、いいよ。どこで待ち合わせる?」

 時間と場所を決めながら、胸のあたりに熱を帯びていることに気づいた。

「楽しみにしてるね。おやすみ」

「おやすみ」

 通話が切れても、彼女の声は耳の奥に残っていた。

 携帯電話を持ったまま、窓の外を眺める。夜空には、いくつかの星がきらめいていた。

 (……紗季と初詣か)

 不思議な感覚だった。三十五歳の記憶を持つ自分が、本当の高校生みたいにドキドキしている。

 でも、それは悪い気分じゃなかった。むしろ、ずっと忘れていた感覚を、ようやく思い出せた気がしていた。

 *  *  *

 鏡の前で髪を整えながら、壁のカレンダーに目をやる。

 一月一日。今日は、紗季と初詣に行く日だ。

 デート、って呼ぶべきなんだろうか。正直よくわからない。でも、ただそれを考えているだけで、落ち着かなくて、手が何度も髪に触れてしまう。

「……よし」

 髪の乱れを確認し、ウールのコートに袖を通す。特別お洒落ってわけでもないけど、無難で清潔感があるやつ。こういうのを選んでる自分に、思わず苦笑が漏れた。

「れーん、出かけるの?」

 振り返ると、七海がパジャマ姿で廊下に立っていた。

「あ、うん。ちょっと初詣」

「へえ〜、誰と?」

 口元のにやつきを見て、もうバレてるなと思った。仕方ない、観念するか。

「……朝比奈さんと」

 七海の顔が、あからさまにほころんでいく。

「ほぉ〜〜朝比奈さん、ねぇ?」

「べつに、そんな大したことじゃ」

「いいじゃん、楽しんできなよ。あと、割り勘すんなよ?」

「は?」

「デートでしょ?そういうとこ、ほんっとズレてるんだから、あんた」

 まったく、こいつ。その言い方にムッとしつつも、少しだけ照れくさい。

「……わかってるよ」

 不愛想に言い返すと、七海は目を丸くした。

「へえ、ずいぶん積極的じゃん。なにかあった?」

「別に、なにも」

「うそ〜。前よりずっといい顔してる」

 じっと見られて、ちょっとだけ居心地が悪い。

「前までの蓮ってさ、もっとこう、影があったっていうか。今はちがうね。特に、その子の話してるとき」

「そ、そうかな……」

 意識していたわけじゃない。でも、どこかで年齢相応の部分が滲んでいたのかもしれない。

「まあ、いいけどさ」

 七海は、あっけらかんと笑った。

 もし七海が、俺の中身が昔と変わってしまったと知ったら──どう思うだろう。三十五歳の記憶と感情を抱えた弟を、まだ「弟」と呼んでくれるだろうか。

 家を出た瞬間、冬の空気が肌を刺した。吐く息はすぐに白く染まり、空の澄んだ青さとともに、背筋をしゃんとさせられるような気がした。

 初詣に向かう人の流れを横目に、ひとつ、大きく息を吸った。冷たい空気が喉を通り、肺の奥まで沁みていく。

「秋月くん!」

 名前を呼ばれて振り返ると、紗季が手を振りながら駆け寄ってくるところだった。

 淡いピンクのコートに白いマフラー、黒いタイツにショートブーツという装いは、いつもより、大人びて見えた。

「待った?ごめんね」

「いや、今来たところ」

「よかった!電車がちょっと混んでて……」

 軽く息を切らせながら笑う紗季の頬は赤く染まっていた。寒さのせいか、それとも……まあ、深く考えるのはやめておいた。

「それより、初詣だね!楽しみ!」

「ああ。行こうか」

 鳥居をくぐり、参道を並んで歩き出す。元旦の境内は、思っていた以上の人出でにぎわっていた。家族連れ、カップル、友人同士、見渡すかぎりの人の群れに、自分たちの姿が少しだけ浮いているような気がした。

「秋月くんは、毎年、初詣に来てたの?」

「いや、久しぶりかも。人混みが苦手でさ」

 前の人生では、そういった行事から、いつの間にか遠ざかっていた。誰かと出かける予定もなく、ただ年が明けて、気づけばまた、仕事が始まっているだけ。

「そうなんだ。私は毎年来てたよ。でも、友達とかと来ることが多かったかな。二人で来るのは初めてかも」

 紗季は、少し照れたように笑った。

 二人で参拝の列に並ぶ。人は多いが、思ったほど窮屈には感じない。並んでいるだけの時間が、意外と穏やかだった。

「ねえ、秋月くん。今年の抱負って、決めた?」

「抱負か……」

 この世界での目標とか、やり直したいこととか、考えれば色々ある。でも、それをちゃんとした言葉にするには、まだ気持ちが追いついていなかった。

「まだ、はっきりとは決めてないけど、高校生活を、大切にしたいとは思ってる」

「うん、いいね、それ」

 紗季は手元に目を落として、ほどけかけたマフラーを丁寧に直した。

「朝比奈さんは?」

「私は……やりたいことを、ちゃんとやりきりたいなって思ってる」

「やりたいこと?」

「うん。卒業式の演奏もそうだし、あとは……」

 言いかけたところで、ほんの少しだけうつむく。

「あとは?」

「あとは秘密!」

 紗季は唇に人差し指を当てて、いたずらっぽく笑った。その仕草に一瞬だけ視線が泳いで、慌てて目を逸らす。──何やってんだ、俺。

 やがて順番が巡ってきて、賽銭を投げ、鈴を鳴らす。二礼、二拍手、一礼。目を閉じ、願いを込めた。

 (今度こそ、ちゃんと向き合いたい。朝比奈紗季と──)

 そのあと、二人で境内をぐるりと歩いた。おみくじを引いて一喜一憂したり、甘酒を少しだけ口にして「思ったより飲めるかも」と紗季が驚いたり。

 出店では、りんご飴やチョコバナナを眺めながら、どれが好きかなんて他愛もない会話を交わした。隣を歩く紗季の声も仕草も、やけに近く感じた。

 ──これは、たぶん、デートだ。そう思った瞬間、頬が少しだけ熱くなった。

 午後の日差しがゆっくり傾きはじめて、境内の影が少しずつ長く伸びていく。空の色も、気づけば柔らかく変わっていた。

「そろそろ、帰ろうか」

 紗季は一瞬だけ、ためらうような顔をしてから、小さく「うん」と頷いた。

 神社をあとにして、二人で歩き出す。帰り道の階段に差しかかったところで、ふいに立ち止まった。

「きれいだね」

 紗季は赤く染まった空を見つめている。その横顔に目を奪われて、何か言おうとしたけど、言葉にならなかった。

「卒業したら、こういうのも、減っちゃうのかな」

「そうだな……」

 言葉をつなぎながら、どこか自分を納得させるように口にしていた。

「だから──今のうちに、思い出をたくさん作ろう」

 紗季がこちらを見て、少し目を丸くする。そして、唇の端をゆっくりと上げた。

「うん、そうだね」

 再び歩き出すと、足元に落ちる影がさらに長くなっていた。さっきまであんなに聞こえていた人の声も、今ではすっかり遠い。二人の言葉も、自然と少なくなっていく。

 しばらく無言で歩いていた紗季が、静かに口を開いた。

「ねえ、秋月くん」

「ん?」

「そういえばさ、前に……学校休んでたこと、あったよね?」

 リープ前、不登校だった頃の俺。できれば触れられたくなかった記憶が、思わぬ角度から引き出される。

「ああ」

 なんでもないふうに返そうとしたけれど、うまく声が出ない。

「あの頃……」

 紗季は何か言いかけて、そのまま目を伏せた。長い睫毛の先に揺れたものを、うまく読み取ることはできなかった。

「どうかした?」

「……ううん」

 首を小さく振り、曖昧な笑みを浮かべる。

「なんか、あの頃の秋月くんって……壊れそうだった。見てるだけで、こっちが苦しくなるくらい」

 その言葉が落ちたあと、風がひとすじ吹き抜け、彼女の髪が揺れる。

「なんて言えばいいのかな。うまく言葉にできないけど」

 紗季は、ほんの一瞬だけ視線を揺らして、それからすぐに笑ってみせた。

「ごめん、変なこと言っちゃったね。忘れて」

 その笑顔はいつも通りだったけれど、胸のどこかに引っかかるものが残った。

「今日は楽しかったね」

「……そうだな」

 空を見上げると、夕焼けはいつの間にか夜の青に溶けていて、星がひとつだけ、ぽつんと光っていた。

「秋月くんと一緒にいると、安心するね」

「俺も。朝比奈さんといると、落ち着くよ」

「ありがと。また一緒に出かけよ?」

「うん。約束だ」

 人の少なくなった参道を、俺たちは並んで歩いた。足元に落ちた影がふたつ、長く伸びて、静かに重なっていた。

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