第5話 やっぱりわからない
翌朝、私は昨日と全く同じように昇降口の前に立ち、登校してくる生徒たち一人ひとりにできるだけ明るく、そしてはっきりとした声で挨拶を送っていた。
冷えた朝の空気が、まだ少し眠たそうな生徒たちの顔を優しく頬を撫でる。昨日と同じように、生徒たちは次々と校舎へと入っていく。その光景は、まるで時間が巻き戻ったかのように昨日と寸分変わらなかった。
そして、その中に月影美咲の姿を見つけた。
私は彼女の姿を認めると、無意識のうちに彼女の髪に視線を走らせた。そして次の瞬間、私は胸の奥で小さく安堵の息を吐き出した。
——メッシュが消えている。
昨日は光の加減によってはほとんど見分けがつかないほど微かに、しかし確かに明るい色に染められていた部分が、今日はいつもの深く美しい黒髪に戻っていた。
けれど、また何かが違う。彼女の外見に、昨日とは異なる何かを感じる。それは言葉ですぐに説明するのは難しい、本当に微かな変化だった。
私はその違和感を探すように、じっと彼女の顔を見つめた。
すると——
(……唇?)
昨日と何かが違うと感じたのは、彼女の唇だった。
ほんのりと艶があり、かすかに色が乗っている。決して派手なものではなく、遠目にはほとんど分からないほどの自然な色づきだった。けれど、素顔のままではないことは私にははっきりと分かった。これも、彼女なりの精一杯の主張なのだろうか。
「————月影さん」
呼びかけると、美咲はいつものように余裕綽々とした完璧な笑みを浮かべて、すぐに私の方を向いた。
「あ、先生。おはようございます」
「おはようございます、月影さん。髪の色、ちゃんと戻したのね」
「そりゃあ、昨日の今日でまた注意されたらさすがにまずいからね。あたしも、それくらい分別は弁えてるつもりだよ」
美咲は、まるで私の指導を素直に受け入れた良い生徒であるかのように振る舞った。けれど、その態度にはどこか芝居めいたわざとらしさを感じる。
そして、私は視線をもう一度彼女の唇へと向けた。
「……そのリップ、今すぐ落としなさい。それも立派な校則違反です」
そう言いながら、私はポケットからティッシュを取り出し、美咲の前に差し出した。
美咲は私の手元を見つめ、少しだけ目を細めた。
「先生、本当に細かいね。あたしのこと、隅から隅まで観察してるみたい」
「当然です。生徒の皆さんをしっかりと見るのは、教師として当たり前のことです。そして、校則違反は見過ごすわけにはいきません。それは、教師としての私の責任です」
「えー……もう。本当に先生には敵わないなぁ」
文句を言いながらも、彼女は素直にティッシュを受け取る。
そしてゆっくりと、まるで自分の大切なものを扱うかのように丁寧に、それでいて、どこか楽しそうに自分の唇をなぞるようにして、あの微かな色を少しずつ拭い去っていった。その仕草は反省しているというよりも、むしろ、私とのやり取りを楽しんでいるようにも見えた。
私はそんな彼女の仕草を見ながら、昨日と同じ疑問を抱く。
(なぜ……こんなに素直なの?)
反省文を書かせても、髪のメッシュを元に戻させても、彼女は決して私に反発しようとはしない。それどころか、まるで私の指導を面白がっているかのようにすら見える。それは、私を困らせようとする彼女なりの戦略なのだろうか? それとも何か別の……もっと複雑な理由があるのだろうか?
そんな疑問が渦巻く中で、私は、今日の放課後生徒指導室に来るように伝えようとした。それは、私なりの彼女との対話の継続の試みだった。
「放課後、また——」
けれど、私が言い終わる前に、彼女が口を開く。
「生徒指導室、ちゃんと行くから待っててね。先生にまた反省文提出しないとだし」
……まるで私の言葉を、私の行動を、全て見透かされているような……。私は彼女を叱り、指導する立場のはずなのに、まるで主導権を握られているような……そんな感覚に襲われた。
「……分かったわ。必ず来なさい」
「はいはい、先生の言うことはちゃんと聞くよ? 先生は心配性だね」
彼女は軽く手を振って、私の視界から遠ざかるように校舎へと消えていく。
私は、そのどこか掴みどころのない後ろ姿を見送ることしかできなかった。
彼女のことがわからない。彼女の行動の真意が、全く理解できない。
昨日と同じ感情が、胸の奥に静かに広がっていった。
◇
昼休み、職員室にはそれぞれが持ち寄った昼食の匂いと、ひそやかな雑談の声が漂っていた。
私は自席で、朝買ってきたコンビニ弁当の封を開ける。見慣れたパッケージに、決まりきったメニュー。特別美味しいわけではないけれど、空腹は確かに感じていた……はずなのに、箸を動かす手がどこか鈍い。
——月影美咲。
頭の片隅に、今朝の彼女の姿が居座り続けている。
黒髪に戻された髪。艶のある、微かに色づいた唇。そして、私の指導に素直に従うあの態度と、それに反するような、芝居がかった笑み。
(……やっぱりわからない)
口に運んだ一口を、なんとなく咀嚼する。味がしない。いつもの唐揚げ弁当なのに。
あのリップに気づいたときの自分の視線の動きが思い出されて、少しだけ頬が熱くなる。
(……どうしてあんなに彼女の顔ばかり見ていたのかしら)
教師として当然——そう自分に言い聞かせながらも、その言葉では説明しきれない感情が胸の奥に渦を巻いている気がした。
彼女の態度は反省しているようでいて、どこか私を試すようでもあった。
わざと校則違反をして、私の注意を引く。
そしてその後、私の言うことを素直に聞く。
……まるで、関心を向けさせること自体が目的であるかのように。
(もしそうだとしたら……私は、まんまとその思惑に乗せられていることになる)
そんな自嘲めいた思いが浮かびかけて、私は箸を置いた。弁当は、まだ半分も食べていなかった。
(どうして、こんなに気になるの?)
彼女の行動、言葉、仕草——どれもが普通の生徒のそれとは少しずつ違っていて、でも、だからこそ無視できない。
美咲の視線の奥にあるものを、私はどこかで見極めようとしている。教師として……そして、それ以上に個人的な興味として。
彼女に接することが、すでに心のどこかで仕事以上の意味を持ち始めていることに、私は気づかないふりをしていた。
目の前のぬるくなった唐揚げをひとつ見つめ、ため息をひとつ。
(……放課後、ちゃんと来るかしら)
自分で来るよう言ったくせに、心のどこかでそれを期待しているような自分がいることが、どうしようもなく苦しかった。
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