第6話 何を考えてるの?

 私は昨日と同じように教師用の椅子に座り、月影美咲が来るのを静かに、しかし内心では落ち着かない気持ちで待っていた。


 そして約束の時間ぴったりに、生徒指導室の扉が静かに開く。


「失礼しまーす」


 気だるげで、それでいてどこか余裕のある声とともに彼女が姿を現した。


 けれど、その表情は昨日と比べると、ほんの少しだけ柔らかいものに変わっていた。それは、まるで仮面を外したかのような、そんな印象を受けた。


「約束通り来たよ、先生。遅刻してないでしょ? 褒めてくれてもいいんだよ?」


「ええ、分かっています。あなたは時間を守ることに関しては、非常に真面目な生徒なのね」


 彼女は私の言葉に必要以上に反応することなく椅子を引いて席につき、私は彼女の目の前に反省文の用紙を置いた。


「さあ月影さん、今日は一体どんな反省の言葉を綴ってくれるのか、楽しみにしていますよ。あなたの心のこもった反省の弁を聞かせてください」


 私はできるだけ冷静に、そして教師として毅然とした態度でそう促したが、彼女はペンを取ることなく、ただ私を見つめていた。


 その瞳の奥には、一体何が映っているのだろうか? 反省の色? それとも何か別の……もっと複雑な感情が隠されているのだろうか?


「……どうして書かないの?」


 私は彼女の沈黙に耐えかね、少しだけ語気を強めて問いかけた。


 問いかけられた彼女は、唇の端をほんの少しだけいたずらっぽく上げた。それはまるで子供が何か面白いことを思いついた時のように無邪気で、それでいてどこか挑発的な笑みだった。


「先生のこと、色々教えてくれたら書いてあげてもいいかなって」


「……は?」


 予想外の言葉に、私は思わず眉をひそめた。


「何を言ってるの? これはあなたが犯した校則違反に対する罰としての反省文です。あなたが自分の行動を深く反省し、二度とこのようなことを繰り返さないと誓う、当然の報いです。個人的な興味を満たすためのものではありません」


「でも、ただ反省文を書いて『はい終わり』ってなんか退屈じゃない? 先生のことを色々知れたら、あたしももうちょっと心を込めて反省文が書けるかも」


 彼女は頬杖をつきながら、ゆったりとした口調で言った。


 私は溜息をつきながら、彼女の言葉に惑わされないよう冷静に対応しようと努め、彼女の目を見据えた。


「月影さん、全然反省してないわね。あなたのその態度は、反省している人間のそれではありません」


 その言葉に、彼女は何も言わなかった。


 重苦しい沈黙が私たちの間にゆっくりと、しかし確実に落ちる。それは、私にとって、非常に長く感じられる時間だった。


 けれど、この沈黙を破るために仕方なく、そして彼女のペースに乗せられていることを自覚しながらも、重い口を開いた。


「……分かりました。あなたが少しでも反省する気持ちになってくれるのなら、あなたの質問に答えます」


 私の言葉に、彼女の瞳が一瞬輝きを増したように見えた。それはまるで、子供が欲しかったおもちゃを手に入れた時のように、無邪気で、そしてどこか嬉しそうな光だった。


「私のことですよね? 朝比奈詩織。年齢は……ご想像にお任せします。この学校に赴任して二年目の若輩教師です。一年生のクラスの担任を任されています」


 私は、できる限り当たり障りのない形式的な自己紹介を淡々と述べた。


「はぁ……」


 私の言葉を聞き終えた彼女は、まるで期待外れだったと言わんばかりに小さく、そして、わざとらしくため息をついた。


「そういう面白みのない情報じゃなくて、先生のもっと個人的なことを教えてよ。例えば……休日は何をしてるとか、好きな食べ物とか。そういう、先生の人間味が出るようなこと」


 彼女は返事を催促するように机の上でペンを弄びながら、私の顔を見つめていた。その手元は、まるで私が言葉を発するのを待ちきれないかのように、落ち着きなく動いていた。

 

「ねえ、先生」


 反省文を書く気が全くないのかと思われた彼女の手は、いつの間にか用紙の端に添えられている。


「どうして先生になろうと思ったの?」


 唐突な問いに、私は少しだけ眉をひそめた。


「……それと反省文になんの関係があるの? 反省文を書く上で、それが何か役に立つとでも?」


「あるかもしれないし、ないかもしれない。それは先生の答え次第」


 彼女はそう言いながら、用紙の片隅にさらさらとペンを走らせた。


 私は机に肘をつき、視線を窓の外へ移す。赤みを帯びた夕空が、まるで燃えるように反省室の窓ガラスを静かに染めている。


 書いてくれるなら、言わない選択肢はなかった。


「……子どもの頃、尊敬していた先生がいたの。私たち生徒一人ひとりの個性を尊重して、私たちの可能性を信じて、いつも私たちを温かく励ましてくれたわ。その先生みたいになりたくて、気づいたらこの職を目指してたの」


「へえ……先生にもそういう熱い時代があったんだ」


「私だって昔は生徒だったもの。色々なことを考えて悩む、ごく普通の生徒」


 彼女は小さく笑いながら、何かを納得したようにまたペンを走らせた。カリ、カリ、と反省文を書く音だけが室内に響く。


 少しの沈黙の後——


「好きな食べ物は?」


「……急ね。一体何に使うの、そんな情報」


「いいから答えて。先生の好きな食べ物、教えて」


 彼女は私の問いを軽く受け流し、まるで子供が駄々をこねるように返事を催促してきた。その態度に、私は少しだけ呆れながらも、彼女のペースに巻き込まれていることを自覚した。


「食にこだわりはないけど……強いて言えば、和食が好きです。煮物とか、そういう素材の味を活かしたシンプルな料理が。まぁ、普段からコンビニ弁当だけど」


「うんうん」


 彼女は頷きながら、また文字を書いていく。まるで、私の答えが書くための燃料になっているかのように。


「じゃあ……恋人はいる? 好きなタイプは?」


「……月影さん、それはなんのつもり?」


「ただの雑談。先生のことをもう少し個人的に知りたいと思っただけ」


 私は彼女の意図が読めず、静かに息をついた。


「……いないわ、誰かと付き合う気も好きなタイプも特にない。それでも強いて言うなら……一緒にいて心が安らぐ人、お互いを尊重し支え合えるような関係を築ける人が理想ね」


「ふーん。先生って意外とロマンチストなんだね」


 彼女は特に驚くでもなくペンを進める。


 そんな彼女を、私は不思議な気持ちで見つめていた。


 こんなことを聞いて何になるのだろうか。私の弱みを握りたいのだろうか。それとも、ただ単に私という人間に興味があるだけなのだろうか。


 けれど、質問に答えるたびに、確実にその手は動いていた。


 次第に、彼女の書く音だけが部屋を満たしていく。そして——


「……できたよ」


 気づけば、用紙はびっしりと埋め尽くされていた。


 私はその紙を受け取り、一部に視線を落とす。そこに並ぶ文字は、昨日のような定型文ではなかった。


 ——私は、何気ない気まぐれでルールを破りました。

 ——その結果、私は今こうして反省文を書いています。

 ——次からは、先生に余計な手間をかけさせないように気をつけます。


 淡々としているのに、妙に彼女らしい文章だった。


 私はそれを読んで、小さく息をつく。


 ふと顔を上げると、彼女は椅子から立ち上がっていた。その表情はどこか満足げで、達成感に満ち溢れているようにも見えた。


「それじゃ、またね。先生と話をするのって結構楽しいから」


 そう言って、彼女は軽く手を振る。まるで、この生徒指導室に入り浸るつもりでいるかのように。


 私が何かを言う前に、彼女は扉を開け部屋を後にした。その足取りは軽く、まるで何か楽しいことがあった後のようだった。


 残されたのは、彼女の書いた反省文と、私の中に残る拭えない違和感。


 (本当に……彼女は一体何を考えているの?)


 その答えは分からないまま、私は彼女の温もりの残る紙をじっと見つめ続けることしかできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る