第4話 私のままで
放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。まるで、学校全体が深い眠りについたかのように、廊下を歩く音さえも遠い世界の出来事のように感じられるほどだった。
机と椅子が並べられた小さな部屋。窓から差し込む夕陽が、まるで古い映画のワンシーンのように、薄暗い室内をオレンジ色に染めている。
私は、部屋の片隅で月影美咲が来るのを待っていた。
生徒を叱る立場になったのはまだ片手で数えるほどしかない。その度に、自分の言葉が本当に生徒の心に届いているのか、いつも不安に感じていた。けれど、今回のように疑問を感じることは初めてだった。
彼女の朝の素直さは一体何だったのだろうか? 単なる反抗の裏返しなのか? それとも、何か別の……もっと複雑な感情の表れなのか?
そんな考えが頭の中を堂々巡りをしていると、静かに、しかし確かに生徒指導室の扉が開く音がした。その音は、静寂を破るように私の耳に鋭く響いた。
「失礼しまーす」
気だるげな、しかしどこか余裕のある声とともに彼女が入ってくる。まるでこの状況を全く意に介していないかのようだった。
それは、彼女なりの挑発なのだろうか。それとも、単なる強がりなのだろうか。
「ん? 先生なんだ。生徒指導の先生かと思っちゃった」
「あなたは私の生徒です。であれば指導するのも私の役目。あなたがきちんと約束を守って来てくれる生徒で、私は嬉しいです」
「何時までに終わらせればいい?」
彼女は、私の言葉をまるで聞いていなかったかのように尋ねてきた。反省の意は微塵も感じられず、まるで、ただの形式的な義務作業をこなせばいい。そう考えているような言い方に、私は少しだけ違和感を覚える。
(最初からこうなることが分かっていたの……?)
私はできるだけ平静を装いながら答えた。
「なるべく早く、けれど今日の反省をしっかりと文章にしてください。そして、それが終わったら速やかに帰宅してください」
「了解。さすが先生、話が早くて助かる」
彼女は私の言葉に軽く頷くと、指定した机の椅子に腰を下ろし、まるで流れるように迷うことなくペンを走らせ始めた。
その速さに、私は目を見張った。まるで、最初から書く内容が決まっていたかのように淀みなく、すらすらと文字が紡ぎ出されていく。
私はそっと近づき、机の上の紙に目をやった。
——私は本校の校則に違反する行為をし、朝比奈先生をはじめ、学校の先生方、そして、クラスの生徒の皆さんに多大なご迷惑をおかけしました。今後はこのようなことが二度とないよう深く反省し、自分の行動に責任を持ち、学校の規則を遵守することをここに誓います。——
それはあまりにも完璧で、感情の欠片も感じられない、ただの定型文だった。
これならば、形式的な手続き上は何の問題もない。校則違反に対する反省の文章として体裁は整っている。けれど——私の胸の奥に違和感が残る。それは、彼女の言葉の奥に隠された本当の気持ちを知りたいという、私の心の叫びだった。
「……月影さん」
私はできるだけ優しく、そして彼女に警戒心を与えないように静かに呼びかけた。
「ん? 何か書き方に問題あった? 書き直す?」
彼女は、私の言葉を遮るように、まるでからかうような口調でそう言った。その言葉には反省の色は微塵もなく、むしろ私の反応を楽しんでいるかのようにさえ感じられた。
「どうしてあなたは髪を染めようと思ったんですか? 何か……誰にも言えないような理由があったのなら聞かせてほしいんです」
私はできる限り感情を込め、自分の言葉が彼女の心の奥深くに届くよう丁寧に、そして真摯に問いかけた。それは教師としてではなく、一人の人間として彼女と向き合おうとする私の精一杯の試みだった。
私の問いかけに、彼女は一瞬言葉を失い、少しだけ驚いたように目を見開いた。その瞳の奥に、ほんの一瞬何かが宿ったように見えたものの、それはすぐにいつもの冷静な表情に変わった。
「どうしてって……うーん、あたしの個人的な動機がそんなに気になる?」
「ええ。私は、あなたが単なる気まぐれや、軽い気持ちで校則を破るような生徒には決して見えないからです。あなたはもっと深く、何か考えているのではないかと私は思っています」
彼女は私の言葉を聞くと、小さく、しかし意味深な笑みを浮かべた。それはいつもの彼女の余裕の笑みとは少し違い、何かを諦めたような、それでいてどこか寂しげな複雑な感情が入り混じったものだった。
「先生は、あたしのこと何も知らないくせに……そんなことを言うんだね」
「知らないわ。あなたという個人の過去も、今も、内面も、私はまだよく知らない。でも、だからこそ、私はあなたのことをもっとよく知りたいと思っているんです。あなたの言葉に、あなたの行動に隠された本当の意味を」
私の言葉に、彼女の表情がほんの一瞬だけ揺らいだように見えた。それは、まるで心の奥底に隠された感情が一瞬だけ表面に現れたかのようだった。
けれど、それも本当に一瞬のことだった。
「……気まぐれだよ、先生。本当にただの子供の気まぐれ。それ以上でも、それ以下でもないよ」
彼女は先ほどまでの挑発的な態度から一転し、まるで全てを拒絶するかのように淡々とした、感情のこもっていない口調でそう言った。
私はそれ以上、何も言い返すことができなかった。
彼女は静かにペンを置くと、反省の文章が書かれた紙を私の前に差し出した。
「終わったよ先生。これでもう帰ってもいいよね?」
「……ええ」
形式的な反省の文章を受け取り、私は小さく、本当に小さく息をついた。それは安堵の息ではなく、むしろ、彼女との心の距離が少し広がってしまったかもしれないことに対する、失望の息だった。
彼女は丁寧に椅子を引き、静かに立ち上がった。そして扉に手がかかった時、不意にこちらを振り返った。
「先生」
その声は、先ほどまでの冷たさとは打って変わり、少しだけ柔らかく、そしてどこか切なげに響いた。
「……何ですか?」
彼女は少しだけ、本当に少しだけ微笑んでいた。しかし、それはいつもの余裕綽々とした笑みとは全く違うものだった。それはまるで、何か大切なものを守ろうとするかのように儚く、そして、どこか物悲しい……そんな表情だった。
「先生は……先生のままでいてね」
その、まるで心の奥底から絞り出すような言葉を残し、彼女は静かに、そして私の視界から消えるように生徒指導室を後にした。
私はしばらくの間、その去っていく背中を見送ることしかできなかった。彼女の言葉が私の心を激しく揺さぶり、私の思考を支配していたからだ。
(——先生のままで、って……?)
部屋の中は夕闇に包まれ、彼女の言葉だけが、私の胸の中にまるで消えることのない炎のように、いつまでも……いつまでも深く、そして不思議な熱を帯びて残っていた。
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