序章III

 俺は常識人なので、最初は周囲の誰かを疑った。出世街道には一切縁はないが、事によると俺の係長補佐の肩書を喉から手が出るほど欲しいやつがいるのかもしれない。役職手当は千五十円しか加算されないのだが。残業代も出ないので、係長補佐となってからは時間外は全く仕事をしていないのだが。

 あるいはヤクザの情婦にでも手を出してしまっただろうか。そんな浮いた話はここ数年全く縁が無いのだが。というか素人童貞なのだが。ある日「金を出してまでしたいか?」と己に問い、純粋に無駄だと悟ってから風俗遊びからは足を洗った。それで困るかと言うと、俺は元来それほど性欲が強い訳では無かったらしく、何も困らなかった。時折一人上手で散らせば済む。

 ・・・って、おい!そんなことまで赤裸々に書くやつがあるか。バカじゃないのか。いい加減にしろ。未成年が読んだらどうするつもりだ。おっさんのお一人様事情を読まされる身にもなれ。


 それはともかくだ。

 いや何が『それはともかく』だ。誤魔化されると思うなよ?もう書くなと言ったら書くな。俺にプライバシーは無いのか。

 ともかく、こうした事故が相次ぐ中、俺は無意味に回避能力に磨きを掛けていたところで、遂に異世界は新兵器を投入してきた。俺はそこでようやく異世界からの召喚侵略に気付いたのである。

 

 ある朝、出勤しようとアパートのドアを開けると、そこに女神がいた。馬鹿みたいだろう?何だよ『女神』って。真面目に書いていておかしいと思わないのか。家賃六万八千円(二階、1DK、極小ロフト付き)のアパートのドアの外に、女神がいるんだぞ。

 女神は類型的な白人で金髪碧眼で、よく判らないがギリシャ風のトーガらしき薄物の、というか明らかに透けて見えそうでギリギリ見えない衣装に、キラキラとした装飾品と、キラキラとした背景効果を背負って微笑んでいた。

 人の人生でふざけるのもいい加減にしろ。真面目にやれ、と俺は怒鳴りつけたくなった。お前だ。書いているお前だぞ。

「・・・どなた?」

「おお、勇者よ!我は」

 バタン!

 俺は素早くドアを締めて鍵を掛けると、上司に電話をした。「あ、佐藤です。ええ、はい。えー・・・お察しの通りで。ちょっと体調が優れませんので、ええ。今日は有給を取らせて頂きたい、と。ええ。・・・はい、明日は普通に出勤できると思います、ええ」

「ちょっと!ちょっと、勇者!!」

「うるさい!黙れ!!世間体を考えろ!!何が勇者だ!頭がおかしいのか!!」

「待って!ちょっと待って!ねぇ、取り敢えず話を聞こう?ね?」

「黙れ!どうせ碌でもない詐欺に決まってる。俺の平凡な人生にお前みたいな痴女は入る余地がない!!」

「ちょっ・・・っ!!痴女って何よ!!」

「お前は鏡を見たことが無いのか?!何だその格好は!!」

「これ普通だから!私女神だから!!」

 もはや議論の余地が無い。

「あ、もしもし警察ですか?すいません、あの私の家の前でちょっと頭のおかしい女が叫んていて・・・はい。もう怖くて外にも出られません。ええ、ええ」

 ドンドン、ドンドンとドアを叩く痴女神(自称)。相変わらず「開けて?取り敢えずドアを開けて話を聞いて?ねぇ、ちょっと!」と騒ぎ立てているので、俺は警察に繋いだままスマホをマイクを向けた。

「お聞きの通りです。いえ、私は全く面識がありません。どっか外国の方みたいです。とにかく訳が判りません。はい。えっと住所は・・・」

 俺が通話を切ると、案外警察の動きは早かった。ものの十分程度でパトカーのサイレンが鳴り響き、我がアパートの前に止まった。

 一悶着あったようだが、どうやら女神とやらはパトカーへと連行されたようだった。

「佐藤さーん」

 今度は男の声だったので、俺は素直にドアを開いた。そこには制服姿の警察官。

「通報された、佐藤さんですね?」

「ええ。何ですか?あの外人は」

「それが、どうにも要領を得ない話ばかりで、我々も困惑しているところでして・・・」

「全く、迷惑極まりない」

「念の為、伺っておきますが、本当に面識は無いんですね?」

「あんなキ◯ガイと知り合いだなんて、冗談でも勘弁してくださいよ・・・」

 俺はげんなりとした。身分証の提示を求められたので、素直に免許証を渡した。警官はメモを取ると、連絡先を尋ねてきたので、スマホの番号を教えた。

 さすがに個人情報は書かないんだな。

 当たり前か。俺はお前を訴える準備は粛々と整えているからな?もう書くな。こんな異常事態を引き起こしているのは、書いているお前に決まってる。

 俺の平穏な日常をこれ以上乱すつもりなら、俺もそれなりに覚悟を決めるぞ?もう止せ。書くんじゃない。


 俺はその日、一日外出しなかった。

 午後にスマホに着信があり、それは先程の警察官からだった。

「逃げた?取り逃がしたんですか?」

「全く、申し訳ない。我々も困惑しているのですが、事情聴取の途中で掻き消すように姿が消えてしまって」

「警察が何をそんな夢みたいな事を言ってるんですか・・・」

 真面目に仕事をしろ。あっさりサボりを決めた俺に言われる事ではないかもしれないが、せめて人定くらいはしておいて欲しかった。怒鳴りつけたい衝動に駆られたが、俺のような小市民が官憲に牙を向けば何をされるか判らない。

 こう見えても俺は平和主義なのだ。

 未だに俺の事が書かれている事から類推するに、あの痴女神はまた俺の所に現れるに違いない。何回書くなと言えば気が済むのだ。

「取り敢えず、周辺のパトロールは強化しますので、また現れたら110番通報してください」

 俺はすっかり強気になってしまい、ついつい「お願いしますよ」などと念押ししてしまった。俺らしくもない。反動で午後は虚無感に襲われて過ごした。俺はうつ気味なのだ。せっかくサボったのに、本当に家から出ないことになるとは。あの痴女神め。

 コンコン、とノックの音がした。

 俺はすぐさまスマホを取り出すと迷わず110番通報通報した。どうせ見るまでも無いのだがドアスコープを除くと、さすがに痴女呼ばわりが効いたのかスーツ姿に着替えた先刻の痴女神であった。なるほど、あくまでも俺の物語を書き続けるつもりのようなので、俺だって容赦はしない。

「ねぇ、お願いだから勇者。せめて話だけでも聞いて」

 今度は泣き落としか。

 素人童貞を舐めるなよ。伊達に女に慣れてないんじゃないぞ。そんな手段が通じると思うなよ?

「はい、警察です。どうしましたか?」

「来ました。例の痴女です」

 警ら中だったのだろう。今度は早かった。二分と経たずに痴女神は連行されていった。

 だいたい女神とやらが人目を気にして着替えたり、警察におとなしく連行されているだけでおかしいだろうが。どんな異世界だよ。いやここは異世界じゃないよ。現実だよ。混乱してきたな俺。

 うるさい。混乱していることを書くな。ますます迷宮入りするだろうが。

 そもそも女神を名乗るなら、魔法なり何なりで来い。あっさり捕まる前に消えるくらいの芸当が出来ないところが、怪しさ爆発である。やはり痴女ではないか。ストーカーじゃあるまいに。いやストーカーだ、あれは。断じて女神などではない。絶対に俺は認めない。



 

 

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