序章II
おい、まだ俺の事を書いているのか。やめろと言っているだろう。
何度でも言うが、俺はごく普通のありふれた生活しかしていない。不眠症気味なので少し夜更かしするが、それでも夜に寝て朝は目覚ましで起きる。今朝も目覚ましで起こされた。今日は平日で普通に出勤だ。通勤電車に揺られて都内へと行かねばならない。
朝飯は適当なパンを食べ、牛乳は腹を下すのでインスタントコーヒーで流し込む。砂糖とコーヒーフレッシュを入れる。ブラックを飲むほど大人舌でもないし、人目を気にしてもいない。
かといって、それをいちいち書くな。
駅まで歩いて二十分程度。時間に余裕があるわけではないが、パンを咥えて走るほどではない。曲がり角には要注意だ。何のフラグが立つか判らない。
俺みたいな平凡な男にフラグが立ったら申し訳ない。俺は取り立てて容姿に自信がある訳では無いし、何処かの学校に転校する訳でもない。慎重に左右を確認して、曲がり角を曲がると、
やめろと言っているだろう。
俺を異世界に連れ込もうとするんじゃない。このところ、異世界のヤツは自然さを装うことさえ惜しむようになってきた。強引極まる。
向こうも何を意地になっているのか知らないが、俺ごときにどうしてここまで執着するのだ。これで今月は三回目だ。まだ初旬だぞ。
俺も慣れたものだ。
スッと体を躱すと、トラックはそのまま壁に激突した。何処から現れたのか知らないが、運転手には同情する。突然無理やり転移させられ、眼の前に壁が迫ってくる状況は不幸としか言いようがない。
俺は通報すると、その場を離れた。
誰が異世界になど召喚されてやるものか。もっと相応しい男なり女なりがいるだろう。平々凡々たる俺をターゲットにする時点で勘違いにも程がある。
なので、これ以上俺のことを書き続けても無駄だ。俺は召喚されない。俺は俺の日常を守る。
始まりは、それでもまだ異世界のヤツもそれなりに気を使っていたようだ。本物の事故で俺を召喚しようとしてきた。
帰宅途中の俺は、交差点に差し掛かったところで、とんでもない腹痛に襲われた。その場で実弾が出るのではないか、という勢いである。その朝、うっかりコーヒーに牛乳を入れた事を俺は思い出していた。その場で回れ右をして、俺は急いで職場へと戻ろうとした。
その俺の背後を猛スピードでトラックが掠めて行った。目の良い審判ならデッドボールの判定が出るだろう。擦ったのだ。後で確認したら俺のスーツの背中にかぎ裂きが出来ていた。
これまで聞いたこともない、聞きたくもない、肉を叩きつける音を背後で響かせ、トラックは数人を跳ね飛ばし、ハンドル操作を誤ってブレーキも無しに反対斜線へと突っ込み、複数台が押し潰され、信号のポールに激突して、ようやく止まった。ラジエーターから水蒸気がもうもうと吹き出し、やがてトラックは炎に包まれた。
あっという間の出来事だった。
俺は呆然とそれを見ているしかなかった。凄まじい事故に巻き込まれる寸前、紙一重のところを腹痛に救われたのだ。その夜のトップニュースで知ったのだが、犠牲者は二十人を超え、巻き込まれた車は八台にも及んだ。さすがの実弾も引っ込む位の衝撃だった。
いや、嘘だ。少しだけ漏らした。
俺は泣きながら職場のトイレでパンツを洗った。
だからそんなことまで、いちいち書くんじゃない。名誉毀損で訴えるぞ。
これが召喚なら、一気に二十人も確保したのだから異世界も満足だろう。その内、一人くらいは特殊能力の持ち主もいるかもしれないし、最近では特殊能力が無くてもどうにかなっているという話も耳にする。殆ど詳しくはないのだが。
しかし。俺は駄目だ。
俺は週末の夜はNetflixを見ながらビールを一缶開けるのが唯一の楽しみなのだ。スーパーで惣菜の見切り品を物色しながら、夜の楽しみに思いを馳せる。異世界にNetflixもキンキンに冷えたビールも惣菜もあるまい。まぁ発泡酒でも俺の舌は気付かないが、キンキンに冷えてるはずがない。
この『死亡事故をすんでのところで回避した』という幸運が俺の特殊能力、と思うかもしれないが、とんでもない。俺はいい歳をしてお漏らしし、パンツを洗ってたまたま持っていたコンビニ袋に入れてカバンに仕舞い、ノーパンの上にズボンを履いて帰宅したのだ。帰路のほぼ全行程を。
生きた心地がしないどころの騒ぎではない。ある種の人にとってはこのスリルがご褒美なのかもしれないが、俺は布地一枚が俺の社会的生命を握っている状況を楽しむことなど出来やしなかった。一瞬たりとも。
これがラッキーなもんか。相殺とは言わないが、俺の気分的にはプラマイゼロである。生物的生命は助かっても社会的に死ねば、やがて生物的にも死ぬのだ。露出魔などとレッテルを貼られたら、もはや改名し整形して社会の物陰でひっそりと生きていくしか無い。ネットの拡散力を舐めてはならない。
もちろん、この時は異世界だの何だのという事は考えなかった。そんな筈があるまい。俺は凡庸な社会人でしかないのだ。わざわざ俺を狙う理由が無い。
それからは酷かった。トラックから観光バスから高齢者の運転するハイブリット車ミサイルから山道で遭遇した猪から動物園から逃げ出した象から・・・何度、命からがら逃げ出した事が、枚挙に暇がない。その頃からさすがにおかしい、と鈍感な俺も思い始めた。
明白に俺の命を狙いに来ている。
誰かが、俺を事故に遭わせようとしている。
最初のトラック事故は、あわやのところとはいえ、言わば傍観者の立場だった、と思っていた。しかし腹痛が起きなければ、俺も犠牲者の一人だったのは間違いない。観光バスの辺りから、事情聴取をする警察官もあからさまに「あんた誰かの恨みでも買ってないか?」などと聞き出す始末。
そんなはずがあろうか。何度でも強調するが、俺は本来人畜無害のそこらのおっさんでしかない。おい、誰がおっさんだ。書き方に気を付けろ。
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