灰の朝/名もなき街角
赫原雫は泣いていた。
声を殺して、ただひとり、廃墟と化したバス停の影で膝を抱えていた。
冷たい地面に座り込んだまま、何分、いや何時間が経ったのかもわからない。
呼吸は震え、涙は止まらず、喉の奥にはさっき吐いた胃液の苦さが残っていた。
全身がずっしりと重たく、まぶたの裏でまだスパナの鈍い音が鳴り響いていた。
あれが現実だったことを、体の芯が拒絶していた。
「どこに行けばいいの……」
誰にともなく、かすれた声が漏れる。
風の音だけが、それに答えた。
そのときだった。
遠く、通りの先。
建物と建物の間を、黒い影が横切った。
一体、二体──いや、もっと。
人のようでいて、人ではない。
歩き方が奇妙だった。身体が傾き、関節の動きは ぎこちなく、まるで壊れた人形が無理やり歩いているようだった。
その群れは音もなくじわじわと路地を進んでくる。
雫の心臓が跳ねた。
喉の奥に氷の刃を突っ込まれたような感覚。
目を逸らせば、何かが崩れ落ちてしまう気がして、凝視するしかなかった。
しかし──先ほどの“それ”とは違う。
今度は数がいる。
赫原雫は、震えながら立ち上がった。
とっさにバス停の支柱の影に身を伏せる。
音を立ててはいけない。息をしてはいけない。
そっと覗いた視界の隅で“それら”が止まっていた。
五体──数え間違いではない。
まるで誰かに命令を待っているかのように、路地の中央で静止している。
前後に揺れる身体、ぶつかりそうになっても反応しない動き。
その異常な“無音の待機”が、むしろ恐怖を増幅させた。
見つかれば、終わりだ。
この距離、この数では、逃げきれるはずがない。
雫の全身が、冷たい汗で濡れていく。
足も手も呼吸さえも──少しでも動けば命を奪われる。
沈黙の路地に、緊迫した数秒が張りつめた。
だが──
空気が、ひときわ鋭い音を放った。
パァンッ。
乾いた破裂音が一発、また一発と鳴り響く。
一体目が崩れ落ちた。
続けざまに、二体目、三体目──そのすべてが額の中心に一閃を受け、静かに地面へ倒れていく。
四体目が倒れ、残るはあと一体だけ。
五体目が、音の主に向かって駆け出す。
その刹那──黒い影が風のように横から滑り込んだ。
すれ違いざまに繰り出された一撃。
膝を砕くような動きでバランスを崩させ、そのまま腕を取って地面に叩きつける。
鋭く、滑らかで、何よりも迷いのない所作だった。
やがて動きを止めた最後の一体の傍らに、ひとりの男が立っていた。
その手には拳銃が握られている。
雫は呼吸をするのも忘れ、その光景を見つめていた。
そして男は、最後の一体に向けて迷いなく引き金を引いた。
乾いた銃声が一つ、路地に響いた。
これで、すべてが終わった──少なくとも、今は。
それでも雫の足は動かなかった。
助けてくれたはずのその男を前に、彼女の心は警戒と混乱で渦を巻いていた。
誰? どうして? なぜ銃を持っているの?
そしてどうしてこんなにもためらいがない?
言葉にできない問いが喉の奥でせり上がり、ただじっとその男を見上げるしかなかった。
男は静かに拳銃のマガジンを抜き、新しい弾倉を装填する。
その仕草には慣れた緊張と、どこか疲労のようなものが混じっていた。
「いるのはわかってる。……出てこい」
落ち着いた声だった。
だが、引き金を引いてきた男が発するには、あまりに静かすぎた。
雫はその言葉が、自分に向けられているのかも分からず、動けずにいた。
まるで意識の奥底が「違う」と否定しているかのように。
「……でてこないなら、こっちからいくぞ」
男はそう言うと、銃口を構え、ゆっくりと足を踏み出した。
その瞬間、雫の心が跳ねた。
「待って、私……っ」
思わず両手を上げ、物陰からおずおずと姿を現す。
ひとりの中学生。
病院の入院着は泥と埃にまみれ、顔は涙と埃でぐしゃぐしゃだった。
それはあまりにも、この風景に不釣り合いな存在だった。
銃を持ち、映画のアクションシーンさながらの動きをする男と泣きながら手を挙げる少女。
出会うはずのない者同士が、崩壊した街角で向かい合っていた。
男──早瀬拓真は銃を下ろさなかった。
射線は逸らしたまま、しかし明確に警戒の構えを解かぬまま少女を見据える。
「手は上げたままでいろ」
低く、明瞭な声。
それは命令であり、確認でもあった。
「武器は?」
雫は小さく首を横に振る。
息を吸い込むことさえ、ままならなかった。
拓真の視線が、彼女の手のひら、足元、ポケット、腕の動き──すべてをわずか数秒で走査する。
「……ひとりか?」
再びの問い。
雫は戸惑いながらも、ゆっくりと頷いた。
「負傷は?」
「……してない、と思う……」
その答えに、ようやく拓真は銃を下げた。
その所作にも一切の隙はなく、指は最後までトリガーにかかっていた。
風が吹く。
崩れたビルの隙間から、空の灰が舞う中で──
ふたりの距離が、わずかに縮まった。
雫の喉が乾いた音を鳴らした。
質問を返していいのかもわからない空気の中で、けれど黙っていることの方が怖かった。
「……あなた、警察の人……?」
問いかけた自分の声が、やけに幼く響いた。
風に揺れる埃の中で、銃と迷彩服に身を包んだ男は、無言のまま彼女を見下ろしていた。
「あなたは襲ってこないの……?」
それは雫の本心だった。
この世界で、誰を信じていいのか、誰なら“人間”として通じ合えるのか。
その判断を、目の前の男に預けるしかなかった。
拓真はわずかに視線を伏せ、再び彼女を見た。
「……特殊作戦群、陸自のSOGだ」
名乗るようにして、しかし感情のこもらない声だった。
どれほどの時間を“誰かを助ける”ために使ってきたのか。
どれほどの瞬間に“助けられなかった”後悔を飲み込んできたのか。
その沈黙が、言葉より多くを語っていた。
「いまは……もう、俺だけだ」
ぽつりと落ちた言葉が、風にさらわれた。
雫は彼の言葉の意味を正確には理解できなかった。
けれどその声に宿る“孤独”だけは、なぜか胸の奥で理解できた。
「私は……赫原、雫……たぶん、そう……」
雫は、か細い声で自分の名前を口にした。
それが本当に自分の名前なのか、自信があるわけではなかった。
ただ、病室のネームプレートに書かれていたあの文字列が、唯一の“証拠”だった。
「目が覚めたら、病院のベッドの上で……誰もいなくて……外、見たら……」
言葉は途切れがちだった。
思い出すたびに喉が詰まり、景色と恐怖が重なって目の奥を刺してくる。
「なにもわからなくて……どこに行けばいいかも、思い出せないの……」
ひとつひとつ、石を積むようにして雫は語った。
まるで自分自身に向けて説明しているかのように。
拓真は黙ったまま雫を見ていた。
表情は読めない。
だがその目だけが、微かに鋭くなった。
「他に誰かいるんじゃないのか?」
低く投げかけられた問い。
それは疑いではなく、冷静なリスク分析だった。
「誰かが待っている。
誰かがお前を見張っている。
そういう可能性は?」
問いの端々に、戦場で培われた感覚が滲んでいた。
生き残るために、信じる前に確かめる。
それがこの世界の“現実”なのだ。
雫は、ぎゅっと口元を引き結び、首を振った。
だがその直後、まるで張りつめた糸が切れたように、彼女の体が震えだす。
「違うの……ほんとに……誰もいないの……」
目に溜めていた涙が、一気に零れ落ちた。
「わたし……なんにもわからなくて……!」
声が震え、喉が詰まり、呼吸が上手くできない。
それでも、彼に何かを伝えなくてはという一心で、言葉を絞り出す。
「どうしたら信じてくれるの……?
どうしたら……」
彼女は子供だ。
この世界に置き去りにされ、記憶もなくし、誰かを信じるしかない状況で疑われる。
その不安と混乱と絶望が、涙とともに堰を切ったようにあふれ出す。
拓真の前で、雫は声を殺して泣きじゃくった。
「……はあ。ったく」
拓真が小さく息を吐いた。
呆れとも諦めともつかない声音だったが、その眼差しには、もう銃口の硬さはなかった。
「腹減ってるだろ。ついてこい」
そう言って背を向けた彼の背中には、戦う者の緊張感と、誰かを導く者の静かな強さが混ざっていた。
雫は泣き顔のまま、しばらくその背中を見つめていた。
あの背中についていくべきかどうか。
心はまだ揺れていた。
けれど、もしも今、この場所にひとりで取り残されたら──
その恐怖の方が、よほど現実だった。
空腹と不安で冷え切った胸に、微かに灯った何か。
それが信頼かどうかはわからない。
それでも彼女は、足を一歩だけ、前に出した。
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