目覚め/耳鳴りの静寂

 世界はまだ、夜の中にあった。


 それは闇ではなく、まるで深海に沈んだような、光も音も希薄な“静”の世界だった。


 耳鳴りとも、血流のうねりともつかぬ音が、かすかに鼓膜を揺らしていた。


 まばたきの方法すら忘れていた。


 呼吸を意識することも、体の境界線を感じることもなかった。


──それでも、赫原雫は目を開けた。

 瞬きのない視界が、白くぼやける。


 まるで陽の光を透かして見るような淡い世界。


 天井のシミは、どこか懐かしく見えた。けれど、それが何かは思い出せない。


 右目の奥が、じん、と痛んだ。


 意識が網膜の裏を這うようにして戻ってくる。


 手を動かそうとしたが、重たい。


 自分の身体が、自分のものではないような錯覚。


 寝台の軋む音が、現実に接続される合図だった。


 同時に、肺がひとつ息を吸った──自動ではない、  

意志による初めての呼吸。

 それが赫原雫の“目覚め”だった。


 そして、そのすぐ後。


 窓の向こうから風が吹いた。


 病室のカーテンが、ゆっくりと揺れた。


 その風は、あまりに生温く、まるで“何か”が、雫の帰還を知っていたかのようだった。


 喉が焼けるように乾いていた。


 口内はひび割れた土のように荒れていて、舌がどこにも馴染まない。


 胃の奥が軋む。


 空腹というより、何かを忘れていた臓器が急に目を覚ましたような、鈍くしつこい痛みだった。


 足を動かそうとしたが膝が震え、力なく沈んだ。


 骨も筋も、すべてが忘れられていた──まるで自分が「人間だった記憶」そのものを、この数か月で剥ぎ取られたかのように。


 “生きること”は、こんなにも重たかっただろうか。


 赫原雫は、身体という牢獄のなかで、はじめてそれを知った。


 やがて、ベッド脇の棚に目が止まった。


 金属のネームプレートが差し込まれている。


 印字された名前は、見覚えがあるようでいて、他人事のようにも思える。

──赫原 雫(あかはら しずく)/女/13歳


 それが自分の名前であることは、理解できた。


 けれど、思い出せなかった。


 その名前で誰かに呼ばれたときの声も、誕生日の記憶も、学校の教室の匂いも、すべてが霧の奥にある。


 プレートの下には、事故日、脳死判定日、担当医名。


 「脳神経再建処置 実施中」のシールが貼られている。


──自分は、死んでいた。


 それが“事実”として、静かに胸へ沈んできた。


 震える腕をつたって、雫はようやく窓際まで這うように近づいた。

 陽の光のように見えていたそれは、じつは濁った曇天の色だった。


 カーテンを押しのけ、窓を覗く。


──世界が、崩れていた。


 地面には誰かが這いずったような黒い筋が無数に走り、電柱は傾き、建物は無人のまま口を開けていた。


 風にのって飛んできた紙片が、病院の外壁にぶつかり、はらりと落ちた。


 人の声も、車の音も、鳥のさえずりすらない。あるのは、風と、風が揺らす廃墟だけ。


 それでも、視界の端で“動くもの”がいた。


 遠くの歩道、足を引きずるように歩いていた人影。

 ……いや、あれは“人”だろうか?


 雫の背筋に、遅れて冷たい何かが流れた。


 震える手で窓枠をつかみ、彼女はそっと後ずさった。室内の空気は、すでに誰も吸っていない空気のように乾いている。


 この階に誰かがいるのかもしれない──そんな、淡い希望のようなものが雫を動かした。


 廊下に出ると、蛍光灯の半数が点いていなかった。


 光はまばらに点滅し、天井からは配線の一部が垂れていた。


 足を引きずりながら、隣室のドアに手をかける。


 誰もいない。

 次の部屋も、その次の部屋も──


 カーテンは静止し、点滴台は空のまま佇んでいた。


 誰かがいた形跡だけが、そこにある。


 やがて階段にたどり着いた。


 錆びた手すりにすがりながら一段ずつ降りていく。


 その音は、誰もいないはずの病院内に、小さく小さく、けれど確かに反響した。


 一階の廊下に足を踏み入れた瞬間空気が変わった。


 重く、淀んでいる。


 まるで水の底を歩いているかのような粘り気のある空気だった。

 受付カウンターの向こうに、何かが見えた。


 床に、崩れ落ちるように倒れている人影。


 雫は立ち止まり、瞬きもせずに見つめた。


 それは確かに、人間の“形”をしていた。


 けれど、その背中は不自然に湾曲し、片腕はねじれ、皮膚の一部が灰色に変色していた。


 何かの拍子に崩れたのではない。


 明らかに、痛みや苦しみを伴う「死」の痕跡だった。


 息を呑もうとして、喉が鳴った。


 死体──それを雫は、テレビのなかでしか見たことがなかった。教科書のイラストですら目を逸らしていた。

 そして今、それが目の前にある。


 足元の世界が、軋むように揺れた。


 これは事故でも事件でもない。


 もっと、決定的に世界そのものが歪んでいる。


 赫原雫はそのとき、はじめて理解した。


 ──自分が目覚めたこの場所は、「元の世界」ではないのだと。


 彼女は玄関へ向かった。


 もう“窓越しに眺める”段階ではなかった。


 今度は、この足で外へ出る番だった。


 玄関の前に立ったとき、雫はほんの一瞬振り返った。


 この数分で知った世界のすべて──乾いた空気、倒れた死体、無音の廊下──が、彼女を黙って見送っていた。


 扉を開けた。


 風が吹き込む。


 血のにおいが、混じっていた。


 外の景色は、想像を遥かに超えていた。


 崩れた家屋、折れた電柱、塗りつぶされたような黒いスス。


 道路には複数の血痕が引きずられたように広がっていて、その先には車の残骸。

 人間の叫び声も、犬の遠吠えもない。


 ただ、沈黙と、血の色だけが世界を塗っていた。


 赫原雫は、絶句した。


 言葉ではなく、心が崩れていく音だけが、内側で響いた。


 一歩、また一歩。


 彼女は靴を履くこともなく、素足のまま病院の玄関から外へと踏み出した。


 肌に触れる風は冷たくも暑くもなく、ただ“人の気配”を持っていなかった。


 どこへ行けばいいのか、まるでわからなかった。


 記憶は剥がれ落ち、土地勘もなく、頼れる顔も名前もない。


 けれど、ひとつだけ確かなことがあった──


 空腹と、渇き。


 それはとても人間らしい感覚だった。


 それだけを道しるべにして、雫は歩き出した。


 目の前の道を下り、交差点を過ぎた先に看板が見えた。


 青と白の色褪せた、見慣れたロゴ。


 ガラスは割れ、扉は半開きになっている。


──コンビニだ。

 彼女の足が、ほんのわずかに速くなった。


 店内は静まり返っていた。


 割れたガラス片が足元に散らばっていて、歩くたびに小さな音が響いた。


 それでも雫は、どこか懐かしさを感じながら冷蔵ケースの前に立った。


 手が、自然に緑茶のペットボトルへと伸びた。


 なぜそれを選んだのかはわからなかったが“そうするもの”として身体が動いた。


 パン棚の前では一瞬迷った末、あんパンを取った。


 袋の柔らかい手触りに、幼い日の何かが微かに揺れた気がした。

 レジの前に立つ。


 誰もいない。


 空っぽのカウンターと、沈黙だけがそこにある。


 雫はポケットを探り、小銭を数枚取り出した。


 レジの隅にそれを置くと、ぺこりと頭を下げた。


 店を出て、ひとつ呼吸をする。


 緑茶を開け、喉に流し込む。


 ただの水分なのに、涙が出そうなほど体に染みた。


 パンをちぎり、口に運ぶ。


 咀嚼の音が、やけに大きく響いた。

 こんなものでも、こんな世界でも、食べ物があるということが、これほどまでに幸せだったのかと、雫は目を細めた。


 ──その瞬間だった。


 「……ッッァアアアアアアアア!!!」


 叫びにも唸りにもならない何かが、空気を裂いた。


 視線を向ける。


 通りの向こうから、“何か”が全力で雫めがけて走ってくる。


 体を振り乱し骨の軋む音すら聞こえそうな勢いで。


 雫の手から、ペットボトルが落ちた。


 その“何か”は、もはや人間の動きではなかった。


 頭蓋は一部が陥没し、骨の輪郭が皮膚の下で歪んでいた。


 片足は各関節が不自然な方向にねじれ、地面を掻くように走ってくる。


 それでも、信じられないほどの速さだった。


 雫の身体が動いた。


 逃げろと言われたわけでも考えたわけでもなかった。


 ただ“生存”という本能が、膝に力を与えた。


 足場の悪い舗道を跳ねるように走る。


 コンクリート片が足裏を切り裂くのがわかる。

 それでも走る。


 振り返れば、あの異形の“もの”は確かに迫っていた。


 けれど──片足の奇怪な軌道と、壊れた骨格は、限界の速度を支えきれていなかった。


 あと少し。


 ほんのわずかだけ、雫の方が速い。


 命と恐怖の天秤が、ぎりぎりで傾いた。


 視界の隅に、開きっぱなしのシャッターが見えた。


 そこは、廃墟と化した板金工場だった。


 割れた鉄扉、錆びたトタン、雨で剥がれた注意書きのステッカー。

 それらすべてが、今はただの“隠れ場所”にしか見えなかった。


 雫は躊躇なく飛び込んだ。


 内部はほこりと鉄の匂いに満ちていて、古びた器具や車の骨格が散乱していた。


 何かに足をぶつけながら、奥へ、奥へ。


 そして暗がりに身を潜める。


 心臓の音が、耳の奥で跳ねる。


 外の足音が消える──いや、違う。


 入り口から、かすかな擦過音が聞こえた。


「……ア……ァ……」

 声とも、呼吸ともつかない音。


 奴が追いついてきた。


 雫は両手を口にあて、息を殺す。


 それでも、足音は確かに工場内をさまよっている。


 ぐしゃり、と何かを踏みつけた音。


 ──もう、ここにはいられない。


 雫は目を凝らした。


 身を守れそうな──武器になるものは──。


 辺りには工具が散乱していたが、その多くは錆びついて使い物にならない。

 

 それでも視線を巡らせるうちに、ひときわ太いスパナが目に入った。


 放棄された修理中の車の下、油の染みたコンクリートの上に、それは転がっていた。


 息を呑む。


 一歩、また一歩とにじり寄る。


 あれを掴めば、きっと戦える。……そう思った。


 だが持ち上げた瞬間、雫の腕に鈍い重みが走った。


 スパナは思った以上に重く、手に馴染まなかった。


 そもそもこれほどしっかりとした工具なんて、握ったことがない。


 それでも、握りしめる。


 利き手の中指と薬指に食い込む鉄の冷たさが、指先の震えを一層際立たせた。


 物陰に身を潜めながら、奴の気配を探る。


 そのときだった。


 背後の鉄製の棚に肘が触れ、カラン、と工具のひとつが落ちた。


 音。


 あまりに鋭く、あまりに不自然な音。


 工場内の沈黙が、裂けた。


 ──気づかれた。

 まるで“音”そのものに餌付けされた獣のような勢いで雫の背後に、足音が跳ねるように迫ってくる。


 スパナを構えた手が、震えた。


 中学二年生の少女にとって、それはあまりにも“現実離れした武器”だった。


 人を殴る──いや、“何か”を殴るために鉄の塊を振るうという行為自体が、彼女の生活圏に存在したことがない。


 腕に力が入らない。


 それでも、振り返らなければならなかった。


 逃げ道を探しながら、雫は身をひねるように工場の隅へと走った。


 だが、背後の“それ”は、想像を超える速度で迫ってきた。


 視界の端に鋭い影が映る。


 次の瞬間、雫の肩に冷たい何かが触れた。


 ──捕まった。


 肩にのしかかった手は人の温もりを持たなかった。


 皮膚の感触すら通さない、ただ“圧”だけがそこにあった。


 雫は本能的に叫ぼうとしたが、声は出なかった。


 喉が凍りついたように固まっている。


 それでも、腕は震えながらもスパナを握っていた。

 殺される。


 その確信が、稲妻のように脳内を駆けた。


 頭を砕かれる。喉を裂かれる。骨を折られる。


 その未来が、まるで記憶のように鮮やかに脳裏に浮かんだ。


 雫は目をつぶったままありったけの力で眼前の脅威に向かってスパナを振り抜いた。


 鈍い音がした。


 金属が何か硬いものにぶつかった音──それは“人を殴った”という事実よりも先に、雫の中の何かをひとつ、確かに変えていった。


 だが、それでは終わらなかった。

 それは、倒れなかった。


 ぐらついた頭蓋のまま、肉の奥から軋むような音を立てて、再び立ち上がった。


 雫は言葉を失った。


 目の前にあるのは、痛みも悲鳴も感じない“何か”。


 腕が勝手に動いた。


 二撃目。三撃目。


 スパナは悲鳴の代わりに、何度も何度も鈍い衝撃音を返した。


 そのたびに、何かが剥がれていく気がした──自分の中の“誰か”が。


 それでも雫は振るった。


 やがて、その“もの”が崩れるように沈んだ。


 皮膚の下で割れた骨が浮かび、頭部は異様な角度で傾いたまま動かなくなった。


 雫はスパナを手放した。


 金属の塊が床に落ち、乾いた音が工場内に響いた。


 次の瞬間、彼女は膝から崩れた。


 喉の奥からこみ上げるものに逆らえず、胃の中に残っていたわずかなものを床に吐き出す。


 それは恐怖ではなく“現実”だった。


 自分の手で、誰かの頭を砕いたという事実。

 壊れたものがまだかすかに動いていた記憶。


 そのすべてが、血と鉄の匂いとなって口内に染みついていた。


 吐きながら、雫は震えていた。


 全身が、自分のものではないように震えていた。


 そのとき──


 工場の外から何かを引きずるような音が聞こえた。


 鋼鉄の床を爪でこするような、擦れる音。


 ひとつではない。複数の足音が、ゆっくりと、だが確実に近づいてきていた。


 雫は目を見開いた。

 あの騒ぎが、奴らを呼び寄せた。


 時間は、もう残されていない。


 彼女は思わずスパナに手を伸ばしかけ──やめた。


 あれはもう、ただの鉄の塊じゃなかった。


 人を殺した感触と記憶が、こびりついていた。まるで呪物のように。


 雫はそれを“汚らわしいもの”のように払いのけ、床に叩きつけるように放り投げた。


 音が響いたが、もうどうでもよかった。


 すぐに立ち上がる。


 ふらつく脚で、工場の反対側へと駆け出す。

 ──逃げなきゃ。


 何もかもを振り切るようにして、雫は再び外の世界へ飛び出した。


 焦げた匂い、濡れたアスファルト、どこかで誰かが崩れたような音。


 胸の奥で何かが叫んでいた。

 

 もう二度と、昨日には戻れない。


 でも──それでも、歩き続けるしかなかった。


 どこへ向かえばいいのかもわからず、この世界のどこにも、自分の帰る場所が見当たらないまま。


 赫原雫は、途方に暮れていた。

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