第5話 命令ひとつで、痛みも自由も奪われた話
「はーい、じゃあ――あなたたちは、私のもの」
クートは、そう言ってふわりと笑った。
ピンク色の唇が、その言葉を楽しむように弧を描いていた。
ドレスのレースが揺れて、彼女の笑顔がほんの一瞬だけ子どもみたいに見える。
だけど、その言葉の意味が理解できなくて、俺とメリアは、同時に首を傾げた。
「……え?」
「……どういう、ことですか?」
クートは何も答えず、顎を軽く引いてこちらを見つめていた。
その視線の奥に、なにか静かな愉快さのようなものが漂っている。
「ほらほら、お嬢様の“儀式トーク”だよ。気にしない気にしない。って言っても……まあ、うん、実際にはけっこう気にしたほうがいいんだけどね~」
スゥがケラケラと笑いながら言った。
「え?」
メリアはもう一度首をかしげる。
その顔には、笑顔が張りついたまま動かない。
その様子を見て、クートが立ち上がった。
ドレスの裾がすっとなびく。
「じゃあ、試してみよっか」
さっきまでの柔らかい笑みとは違う、
どこか悪魔みたいな、いたずらっ子のような顔をしていた。
その目の奥にだけ、光がなかった。
「やっぱ、こういうときは――男の子かなぁ」
クートお嬢様は、机の端に手を添えて、椅子の背から体を起こした。
その言葉の意味が分からず、俺はただ「は?」という顔をしたと思う。
「……え?」
小さな声が漏れる。
メリアも隣で、俺と同じように意味がわからず固まっていた。
クートはくすくす笑って、言った。
「ミヤコ、メリアを殴っちゃいなさい」
時が止まったみたいに、空気が固まった。
「え?」
俺はもう一度、声を出した。
でもそれは言葉というより、口の中で何かをこぼしただけだった。
冗談だろ、と思った。
いや、冗談に決まってる。そんなこと、できるわけがない。
「無理です」
そう言った直後だった。
――ビリッ、という音が、頭の中で鳴った。
その瞬間、視界が爆ぜた。
頭のてっぺんから、鉄の杭が何本も突き刺さったような痛みが走る。頭蓋の内側から、何かがガリガリとこすれる音がして、脳がぐしゃぐしゃに握り潰される感覚が、後頭部から額にかけて流れてくる。
痛い。
痛い。
痛い。
痛みが“鋭い”のではなく、“広がっていく”のが分かる。
頭の中心に火がついて、それが爆ぜて、破裂した破片が、目の奥や耳の奥にまで突き刺さっていくような。
呼吸ができなかった。
息を吸おうとすると、喉がつまって、視界が狭まった。
膝が崩れる。
床に手をつく。
でも、手が震えて支えにならない。
「うわあああああああああ!!!!!」
あまりの声に、自分でも驚いた。
クートは、笑っていた。
それも、椅子から身をよじって、涙を浮かべながら大爆笑していた。
「やだぁ、ミヤコ最高ー! ほんっとに痛がってるー!」
手をバンバンと机に叩いて、
身体を揺らしながら、心の底から楽しそうに笑っている。
メリアは、完全に固まっていた。
目を見開いたまま、何も言えず、ただ震えていた。
スゥは、どこかで見慣れたような顔をして、苦笑いを浮かべた。
「うわー……出たー……クート様の本気モード」
「あー……おかしかった。殴れっていうのは嘘。そんなことしなくていいよ」
込み上げてくる笑いを押し殺してクートはそういった。
その途端痛みが引いていく。
俺は、まだ頭を抱えたまま、床の上で呼吸を整えようとしていた。
痛みは少しずつ引いているはずなのに、背中に冷たい汗が流れていた。
――これが、“契約”。
ここに来てから、たぶん一番怖かった。
俺は、クートの笑い声を聞きながら、
まだ、頭の奥に残る「殴れ」という命令の残響を、必死に振り払っていた。
この人は……いやこいつは――悪魔だ。
「じゃ、そういうことだから――よろしくねー」
クートお嬢様は、まるで誰かに買い物でも頼んだような軽さで言って、
両手をぱたぱたと振った。
まるで、もう俺たちのことはどうでもいいというように。
署名された二枚の紙は、今や何よりも重い“証明書”になっているのだろう。
部屋を出たあと、廊下の空気が少しだけ違って感じられた。
さっきまで肌にまとわりついていた圧が、ようやく薄れていく。
スゥが、前を歩きながら言った。
「ね……性格、悪いでしょ?」
肩越しに振り返るその目が、少しだけ笑っていたけれど、どこか申し訳なさそうでもあった。
「悪魔だ」
俺は、それしか言えなかった。
比喩でも冗談でもなかった。
さっきの笑い声が、まだ頭の奥でこだましていた。
“人の痛みに笑う”という行為が、あれほど自然に行われるとは思わなかった。
後ろを歩くメリアは、何も言わなかった。
でも、分かった。彼女は、震えていた。
足音が小刻みになって、歩幅が狭まっているのが、すぐ後ろから伝わってきた。
俺は、自然に手を後ろに伸ばして、彼女の手を握った。
そっと、でも、はっきりと。
「大丈夫だから」
自分でも驚くほど、声は穏やかだった。
強さはなかったかもしれない。でも、静かに、まっすぐ伝えたつもりだった。少し振り返って、彼女を見る。
メリアは、びっくりしたように目を丸くして俺を見上げて、
それから、ほんの少しだけ、表情を緩めた。
「……うん」
それは、かすかな声だったけれど、確かに聞こえた。
その顔が、ほんの少しだけ赤くなったように見えたのは、
たぶん、廊下に差し込んできた朝日のせいだった。
――きっと。
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