第6話 じゃがいもをむいて、フライパンの強さを知った話

 厨房の空気は、油と怒鳴り声と、焦げた香辛料の匂いで満ちていた。

 壁の煉瓦には煤が染みつき、床は薄くぬめり、鍋は数分おきに爆ぜたような音を立てる。


 その真ん中で、料理長ゴンザレスが腕を組んで仁王立ちしていた。

 頭に巻いた白い布は、もはや原色に近い茶色に染まり、その下から覗く瞳は、鋼のように黒かった。


「そこのガキィ!」

 低い声が、湯気を裂くように飛んできた。


 ミヤコは、背筋がびくりと跳ねるのを感じながら、手を止めた。いや、何かをしていたわけでもない。始まってすらいなかった。


「全部むいとけ!」


 テーブルの上にドサッと投げ出されたのは、じゃがいも。山盛りだ。

 そして、その横に添えられるように置かれた、刃こぼれしたナイフ。

 刃先は薄く茶色く変色しており、もはや皮をむくというより、傷つけるための道具に見えた。


 厨房の空気が、ふたたび熱を取り戻す。

 誰も何も言わないが、全員が「ここでは与えられたことを黙ってこなすべきだ」と知っている顔をしていた。


 ……やってられないだろ、これ


 ミヤコは、テーブルの端に腰を下ろす。

 じゃがいもの山は、自分の頭より高かった。

 ボロボロのナイフを握ると、刃が手のひらに合っていないのがわかる。全てが、拒絶の角度をしていた。


 厨房の隅の窓から、細く光が差している。

 それを見つめながら、俺は息を吸った。


 ……ピーラー、出せるか?


 心の中で、ゆっくりと願う。

 強くではなく、静かに、ただそれを望む。

 すると、手のひらの上に、ふっと空間のひび割れのようなものが現れる。

 水面を突き破って手を入れたような感触。

 そこから、何かのあるものを掴む。その滑らかで冷たい感触を俺はよく知っていた。


 ――カシャン。


 そこにあったのは、艶のある金属のピーラーだった。

 取っ手には使い込まれたようななめらかさがあり、刃の部分はきらりと光を反射している。


 ……やれる


 ひとつ、じゃがいもを手に取る。

 その表面はざらついていて、ほんの少し湿っている。

 ピーラーを当てると、シュルッと皮がむけた。

 音もなく、きれいに、まるで長い髪の毛を切り落とすように。


 もうひとつ、もうひとつと、手を動かす。

 腕は勝手に動いてくれた。まるで、ずっとこの作業をしていたかのように。


 ……俺は、こんなとこで何をしてるんだ


 剥きながら、ミヤコは思う。


 なんて言葉で、自分の中の何かをごまかしていたけれど、

 結局のところ、使えるものを使って、日々を回すしかなかった。

 逃げ道はない。選択肢もない。


 だけど。


 少なくとも――あいつが、怯えて暮らさないように


 メリアの顔が、ふっと浮かぶ。

 心配そうな、でもそれを見せまいとする顔。

 細くて、まっすぐで、年上みたいな目をしたあの子。

 

「いや、この世界だと年上か」


 油臭い厨房に俺は言葉を吐き出す。


 俺がやらなきゃ。あいつを守れるのは、きっと……俺しかいない


 シュル、シュル、と皮がむけていく音が、心のノイズを遠ざける。

 厨房の喧噪は相変わらずだったが、俺の耳には届かなくなっていた。


 じゃがいもの皮は、バケツの中にしゅるしゅると積もっていく。


 皮むきくらいで、何かを守れるわけじゃない。でも、守るために、できることをやるしかない。


 今日できることを、今日やる。


 それだけを、今は。


 ピーラーを握る手に、少しだけ力が入った。



「終わった……」


 十分程度でピーラーが消えるから、何回もピーラーを召喚する必要があった。

 いくつものピーラーが煙になって霧散して言ったが、俺はやっとじゃがいもを全員丸裸にすることができた。


 これをゴンザレスに報告しなければ。


 奥にいるであろうゴンザレスを探しに行く。


 厨房の奥に足を踏み入れた瞬間、空気の重さが変わった。


 焦げたバターと鉄のにおいが混ざりあって、鼻の奥に張り付く。床はぬめってて、靴がほんの少し滑る。足を踏み出して滑るたびに、自分の存在も滑っていく感覚がする。


「おらァてめぇがやったんだろうがよ!!」


「黙れや! 鍋落としたのどっちだと思ってんだコラ!!」


 鍋と鍋のあいだで、ふたりのコックが取っ組み合ってた。

 ひとりは赤ら顔の若い男で、もうひとりは痩せた中年。

 どっちの服にも血という名のソースが飛んでて、どっちが悪者かなんてわからなかった。


 皿が床に散らばってて、タマネギがその隙間で泣いてた。


 ああ、これ、完全にアウトだ。


 止めるかどうか迷った瞬間、鈍い音が厨房に響いた。


 何かが潰れるような、でも金属がぶつかったような音。


 赤ら顔の方の男が、横に吹き飛んだ。転がった先にあったのは、床に転がった鍋と、泡立ってたソースの池。ぐったりして、起きてこなかった。


 立っていたのは――料理長、ゴンザレス。


 右手には、フライパン。

 分厚くて、重そうで、うっすらと血がついてた。


 そのまま、ゴンザレスはもうひとりの男の前に歩いていく。

 コック帽がゆらゆら揺れてた。誰かが息を飲む音が、変なタイミングで耳に残った。


「ち、ちがっ……俺じゃな……!」


 その言葉が終わるより早く、ゴンザレスの右フックが男の頬をかすめた。


 続けて、頭突き。

 バキッて音がして、男が沈んだ。ぺたんと座り込んだあと、もう動かない。


 そして、ゴンザレスが言った。


「ここはなァ……」


 喉の奥からしぼり出すみたいな低い声だった。


「調理する場所であって、喧嘩する場所じゃねぇんだよ。殺すぞ」


 こっちが言いたいよ、それ。


 いや、言わなかったけど。


 フライパン持って突っ込んでった時点で、お前も十分だったけどな……。


 でも、強かった。

 強すぎて、誰も何も言えない空気になってた。


 ゴンザレスは、血のついたフライパンを水桶に放り込んで、手をふくこともなく、何事もなかったように大鍋に火を入れてた。

 さっきまで人をぶん殴ってた人間が、そのままポタージュに塩を入れてるの、見ててちょっとゾッとした。


「……あいつ、やべぇよな」


 厨房の壁に寄りかかってた男が、俺に話しかけてきた。たぶん、雑用係の誰か。


 知らん顔してたかったけど、思わずうなずいてしまった。


「昔は反則のゴンザレスって呼ばれてたんだよ。このへんのチンピラまとめてた元締めでさ。ルール無用、何でも武器にするスタイルで有名だった。刃物?椅子?スパイス? 何でもアリ。厨房の中が戦場って、マジであの人のための言葉だからな」


 その男は、なぜか誇らしげに笑ってた。

 まるで、伝説のレスラーの話でもしてるみたいに。


 もう一度、床に倒れたコックたちを見た。

 頭突きの跡が、血でべっとりしてる。

 でも、どこかに変な清潔さがあった。


 フライパン。

 右フック。

 頭突き。


 乱暴だけど、無駄がなかった。

 暴力だけど、筋が通ってた。


 こいつ、誰よりも厨房の秩序を守ってた。


 そのとき、何かがパチンと頭の奥で音を立てた。


 ……これだ


 この世界は、喋ることや服従で価値が決まるんじゃない。

 拳の速度と、意思の強さと、床に転がったあとの立ち上がり方で、全部が決まるんだ。


 俺は、ずっとチートでやりすごせると思っていた。便利道具とか、ちょっとした力とか。


 でも――そうじゃない。


 本当に必要なのは、

 あのフライパンみたいに、何の説明もいらない強さだ。


 そう思うと、体が動いていた。


 脚が、勝手にゴンザレスに向かっていた。

 さっきまで血のついたフライパンを振り回してた人間に対して、何の躊躇もないわけがなかった。むしろ、心臓はずっとドラムロールみたいに鳴ってた。


 でも、それでも。


 ――メリアを守れるようにならないと


 頭より先に、胸の奥のほうが、もう動き出していた。


 ゴンザレスは鍋をかき混ぜながら、こっちに気づいていないふりをしていた。

 けど、鍋に落としたローリエの数まで把握してそうな男だ。俺が近づいたのを知らないはずがない。


「あ、あの……!」


 自分の声が、油のはねる音に負けてた。

 でも、それでも俺は言った。


 ゴンザレスの手が止まった。


 ゆっくりと、こちらを振り向く。


「……あァ?」


 低い声だった。

 湯気の向こう、ゴンザレスの顔が、こっちを射抜く。


 丸刈りの頭皮は、火の光を受けて鈍く反射していた。

 前掛けは黒。だけど、その表面に染み込んだソースや脂や血で、ほとんどカモフラージュみたいに見えた。

 胸元のボタンが弾け飛びそうで、まるで服のほうが彼の筋肉に耐えかねてるようだった。


 左目の上、古い傷。

 右腕はまるでハムみたいに太い。


 これが反則のゴンザレス。


 俺の召喚と……この人の喧嘩殺法。相性は……きっといい


「な、何でもします……! 皿洗いでも掃除でも、仕事だって早く終わらせますから……!」


 言葉が詰まりそうになりながらも、俺は言った。


「だから――僕に、喧嘩を教えてください!」


 一瞬、空気が止まった気がした。


 ゴンザレスの眉が、わずかに持ち上がる。

 ゆっくりと目を細める。口角が上がる。


 そして、にやりと笑った。


「もちろん。いいぞ」


 心臓が、止まりかけた。


 だけど、次の言葉が、それをさらに叩き潰した。


「じゃあ、あれ追加で頼むわ」


 顎で指された先には――


 カゴいっぱいのじゃがいも、もう一山。


 俺は目の前の現実を受け止めきれず、一瞬まばたきした。

 でもゴンザレスはすでにもう鍋に向き直っていて、俺のことなど忘れたようにスープをかき混ぜていた。


 ……そ、そうだよな。タダで教えてもらえるわけない


 俺は無言でうなずくと、じゃがいもの山に向かった。

 足取りだけはまっすぐに。


 そのときだった。


 背中に声が飛んできた。


「ストレス発散のおもちゃ見つかったわ〜」


 その言葉は、笑っていた。

 笑っていたけど、どこまでも冷たかった。


 背筋がゾワッとした。

 あれは、冗談のトーンじゃなかった。


 俺は一瞬、足を止めた。

 何やってんだ俺、って気持ちが込み上げた。

 自分から飛び込んで、笑われて、ストレス発散ってなんだよ。


 ……バカじゃねえのか俺


 でも、そのすぐあとだった。


 メリアの顔が、ふっと浮かんだ。

 怯えてた顔。無理に笑ってた口元。

 「大丈夫」って言ってた、震える声。


 あの手を、もう二度と――

 もう二度と、俺は、離したくない。


 守るって決めたんだろ。だったら、やるしかない


 俺は深呼吸して、じゃがいもの山に向かって歩き出した。

 ピーラーの感触を確かめるように、ポケットの中で握った。


 俺はでも、いい。

 最初は、な。


 でも、いつか、こっちが――になる。

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