2-2 黒ノートの記録

廃図書館から逃れた夜、ミカはホウジンと合流できなかった。


火の手が上がる建物を背にして、人気のない旧区の路地裏に身を潜めながら、彼女は胸元のノートを抱きしめていた。


それは、ホウジンが彼女に託した唯一の“道具”だった。

黒革の表紙に覆われた、分厚く重いノート。何の飾りもないが、ページの一枚一枚には、微かに何かが染み込んでいるように感じられた。


街の明かりの届かない、公園のブランコの脇で、ミカはそっとページをめくった。


最初の見開きには、丁寧な筆記体で書かれていた。


「残響とは、まだ消えきらぬ語の揺らぎ。

 耳には届かずとも、心に残る“意味の名残”。

 これを記録する者は、言葉をつなぐ媒介者である」


その下に続くのは、走り書きのようなメモ、断片的な会話の引用、誰かの手紙の切れ端。

あるものは擦れて読めず、あるものは明確な意味を持っていた。


「いっしょに あさごはん たべたい」

「しんじる って まだ つかえる?」

「だいじょうぶ、だいじょうぶって、ほんとう?」


それらの言葉の周囲には、ペンで書かれた円、矢印、数式のような符号がびっしりと記されていた。


“ロゴス粒子共鳴範囲”

“発声記録:0.3秒以上 → 記憶定着に有効”

“映像記憶からの再構築:成功率24%”


ノートは、単なる日記や記録帳ではなかった。

それは、**消えていく言葉の“再構築マニュアル”**だった。


ミカはゆっくりと、自分のページを開いた。

昨日描いた、祖母と祖父の絵。その裏に添えられた「ありがとう」の文字は、まだうっすらと読めた。


だが、目を凝らして見ると、その文字がじわじわと薄れているようにも見えた。


まるで、時間とともに語の残響が消えていくかのように。


ミカはペンを取り出し、震える手で、その文字をなぞった。

一画ずつ、ゆっくり、丁寧に。


「ありがとう」


小さく、口の中で音を転がす。

音にはならない。だが、心の中にその響きが残った気がした。


その瞬間、ノートの紙がふっとわずかに脈動したように感じた。


目を凝らすと、なぞった文字のまわりに、淡く光る輪郭のような模様が浮かんでいた。

細かな紋様のようなそれは、ホウジンの書き残した「共鳴粒子帯」の図と酷似していた。


ミカは思った。


これはきっと、“言葉がここにいる”という証明なんだ。


ホウジンの言っていた「ロゴス粒子」の残響――

人の心に残った“意味”が、媒体と繋がるとき、言葉はかすかに蘇る。


それをノートに記録していけば、いつか言葉を取り戻せる。

ただ音をなぞるだけではない。“想い”と“形”を重ねることで、言葉の核が浮かび上がってくる。


その夜、ミカはずっとノートを書き続けた。

自分が心に残しておきたい言葉。今は言えないけれど、大切にしたい言葉。


「おかえり」

「ごめんなさい」

「こわかったね」

「ここにいていいんだよ」


それぞれの言葉に、彼女は小さな絵を添えた。


手を握る人と人。

傘を差し出す人影。

火のそばに座る子どもと動物。

小さな窓から差し込む光。


文字と絵がひとつになるとき、ただの記録が、“思い”に変わる。


そして翌朝。

ミカはそっとノートを閉じた。


「わたしも、“言葉拾い”になる」


まだ声は出ない。

でも、ノートの中に確かに芽生えたその言葉が、心の中にあたたかく響いていた。


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