第2話 『夜桜』



 桜の木の下には屍体が埋まっている、そう誰かが言った。




 もちろん根も葉もない与太話だ。


 しかしほろりとした肌色の花びらが、かくも苦しいくらいに降りそそいでいるのを見ると、あながち嘘ではないような気がしてくる。


 どちらにしろ、ぼくにはその話を知っていることが大切なだけで、あとのことはどうでもよかった。


 町を見下ろす小高い丘のすべてを、無数の桜花が覆いつくしている。

 昔はお城があったそうで、いまも桜の陰には苔むした石垣が累々と連なっている。


 その遅くまで宴会にざわめいていた城址公園も、宵と呼ぶには遅すぎる今となっては、カサカサと風に揺れる塵クズだけが空しくうごめいていた。


「桜の木の下には……」


 ぼくは傍らを歩いている佳奈子にむかって、ぼそりとつぶやいた。


「その話、知ってるわ。でも今は怖いから……」


 佳奈子は十数年前まで、ぼくにとって世界中でもっとも大切なひとだった。

 そして別れてからのちも、毎年この日だけは、ぼくの最愛の女性に戻るのだ。


「君でも怖いものがあるのかい?」


 意外な感じがして、思わず足をとめる。


 佳奈子のほうへと首をめぐらせた。


「だって桜の花は、人を狂わせるって聞いたことがあるもの」


 その通りだ。


 桜の花の魔性は、見つめているうちにぼくを狂気へと駆りたてる。


 淡い眩惑の色の乱舞は、ぼくの身体の表面だけでなく、心の奥底にまで降りそそぎ、たちまち現実を夢幻の世界へと変えてくれるのだ。


 しかし、ぼくは沈黙を守った。


 まだ通り過ぎた桜の木は、七本に過ぎない。


 ぼくは今年で三十六歳。

 あとしばらく歩かないと今年の桜には出会えない。


「ねえ。この風景ってあなたの書く作品にそっくり。あなたがボランティア活動までしてこの公園清掃をかって出るのも、よっぽどここが気に入っている証拠ね」


 返事がないのを暗黙の拒否と受け取ったのか。

 佳奈子はさりげなく話題を変えてきた。


 ぼくの気持ちに敏感に反応することにかけては、彼女はこれまで出会ったうちでは最高の女だ。


 ぼくは嬉しくなって、ゆっくりと腕をのばし佳奈子の肩を抱いた。


「ここは、ぼくにとって特別の場所なのさ。執筆に必要なすべての源泉は、この桜の木の下に埋まっている。ぼくはこの桜に捧げるために、すべてを犠牲にして作品を書きつづけている」


「まるで、神様に供物でも奉げてるみたい」


 ほんとうに利発な娘だ。

 ぼくは心の底から微笑みをうかべた。


「その通りだよ。ぼくの作品はすべて、佳奈子に捧げられるために書かれるんだ」


 桜の木は十本目をすぎ、十一本目にさしかかろうとしている。


 城が城としての役目を果たさなくなったとき、はじめてここに桜の木が植えられたという。

 もう、かれこれ百年以上も昔のことだ。


 そしてそれ以来。

 この桜の木は、ゆっくりと歳を経ながら世の遍歴を見守ってきた。


 そして今、彼女は苔むした老木となって、ぼくのために花びらを散らせている。


「佳奈子って、だれ?」


 腕の中で、彼女の肩が固くなった。


 ぼくは答えるかわりに、両腕で彼女をきつく抱きしめ唇をうばう。


「あ……」


 腕の中で、ふたたび身体がほぐれていく。


 ぼくは、桜の花びらがまとわりつく、さらりとした彼女の髪の毛に、右の手の指をゆっくりと鋤きこんだ。


 そして十六番目の桜の木の、ごつごつとした幹に彼女の身体を押しつけ、なおも強く唇を吸った。



「佳奈子は、君じゃないか」


 ぼくは毎年くりかえされるこの言葉を、いま一度つぶやいた。


 それは必要にして不可欠な、言霊のこもった呪文のようなもの。


 この呪文をあびて、彼女は真の佳奈子へと変貌するのだ。


 閉じられていたまぶたが、はっとするほどあざやかに見開かれる。


 ぼくの唇のあいだで、佳奈子の唇が「ちがう」と震える。


「ちがうもんか、君は佳奈子だ」


 いつのまにか首筋に移動したぼくの両手が、ゆっくりと脈打つ頚動脈を絞めあげていく。



 きりきり、きりきり。



 軟骨のきしむ湿った交響曲。


 唇が強ばっていき、ぼくの手を払いのけようと、しなやかな白い指が、がりりと爪を立てる。


「かわいい人。それでこそ今年の佳奈子に選んだ価値がある」


 ぼくを見つめる目は、恐怖と悔恨に濡れている。


 これまでつきあってきた半年あまりの日々が、走馬灯のように駆けめぐる。



 去年の佳奈子と別れ、ふたたび巡りあった愛しい人……



 いつまでも変わらぬ、かがやく十七歳の乙女――佳奈子。



 その永遠を保つために、ぼくは佳奈子に捧げる小説を書きつづける。


 そしてその作品にひきつけられて、また今年も新しい佳奈子がやってくる。



 見つめる目の前で、黒目がちの瞳がくるんと裏返った。


 喰い込むほどにまとわりついていた両の手が、ぶるっと二度ほど痙攣する。


 そして、そのままだらりと離れていく。


 ぼくは、爪痕からにじみ出る黒ぐろとした自分の血をそっと舐め、ふたたび佳奈子の唇に押しつけた。



「さあ、今年の祭りは終わりだ。君はもう今年の佳奈子ではなくなった。君はこれまでの佳奈子と一緒に、この桜の下で永遠の眠りにつく。そしてぼくの作品の、永遠の読者になるんだ。ぼくはこれからもずっと、君のためだけに書きつづける。これまでの、十五人の佳奈子と同じように……」





 ぼくは十六番目の桜の木を廻りこみ、あらかじめ掘っておいた縦穴の蓋を外した。


 穴は深く、桜の根元のさらに下までもぐり込んでいる。


 偽装のために途中で仕切板を張っておいたのを、その上の土砂やら塵芥と一緒に、細心の注意と愛着をこめて、ゆっくりと取り除いていく。


 そしてぽっかりと開いたそこに佳奈子を横たえると、隠してあったスコップで土をかけた。


 土砂をかぶせ、ふたたび仕切板をはめこみ、さらにその上から塵芥を投げこみ、最後にきれいに穴を埋めもどす。



「しばらくの、さようなら」



 ぼくは公園管理事務所が正式に作った『生ゴミ捨て場』という看板を立てると、やっと満足してそうつぶやいた。


 看板を手に入れるため、毎年ボランティアの清掃を行なうのも、すべてはぼくの大切な佳奈子たちのためだ。


 作品を書きつづける限り、そしてぼくが生きつづける限り、毎年恒例となったこの厳粛な儀式とボランティアの清掃は、いつまでも続くことだろう。


「さて。明日からしばらくは、またファンレター待ちの日々か」


 つぎの佳奈子が見つかるまでは、ぼくの執筆活動も眠りにつく。


 それは祭りのあとの、ほんのささやかな休息の時期。


 同時に、去っていった去年の佳奈子に対する、思いをこめた追悼の時期。




 ぼくは、ぼくの狂気の源泉である、ふりそそぐ桜の花びらをそっと唇に含んだ。


 それは乾きはじめた血液の、ひんやりと狂おしい味がする。




「桜の木の下には、屍体が埋まってる」



 そっと、調子をつけて口ずさんでみる。


 うまく歌えた。


 ぼくは嬉しくなって宙をあおいだ。




 そこは、くらむような花吹雪だった。









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