第3話 『母へ』



              ★初出……コンプティークBBS『小説処』








『お母さん、お元気ですか』




 空気はしっとりと湿っぽく、天井から垂れた裸電球の弱々しい光が、狭苦しい簡素な部屋を照らしだしている。


 夜が明けるまでは、まだずいぶんと時間がある。


 良三は塗料のはげかかった小さな机にむかい、いかにも楽しそうに筆を走らせつづけた。


『ぼくも少しお金には苦しいけど、友達もできて、けっこう楽しく暮らしています……』


 水道の蛇口から垂れる小さな水滴。


 それが部屋中の音をかき消しながら。

 ひとつ、またひとつと響いては消えてゆく。


 良三の手紙には、故郷の母に対する精いっぱいの言葉がつづられている。


 なつかしく胸を詰まらせる思い出の風景。


 捨ててきたふるさとへの遥かな望郷。


 そこにいる年老いた母の姿――


 それはずっと遠い昔の出来事だったかもしれないし。


 つい昨日の出来事のような気もする。



 コン……



 鉛筆の落ちる音に、ふと良三は我にかえった。


 手紙の上には、頬をつたって落ちた涙がキラリと冷たく光っている


 小指で涙をぬぐい去ると、また一心不乱に鉛筆を走らせつづける。









「院長。三六号から、また手紙ですよ」


「まだ書いてるのか……治療法を変えてみたらどうかな。ん、手紙はいつものように机の上に置いてくれたまえ」


 良三の担当である若い精神科医は、さわやかな返事をのこして立ち去った。


 一通の手紙を置いて……





 ひとり部屋にのこされた初老の院長は、机の上に置かれた手紙を開き、ゆっくりと読み始めた。


 そこには若い地方出身の青年が、精いっぱい都会の生活をこなしている、つつましく心温まる風景が綴られている。


 そしていつものように、母の健康に対する気遣いの言葉で締めくくられている。


 院長は読み終えると、パイプを取りだし火をつけた。


 ゆっくりとふかし始める。

 紫煙は朝日のこぼれ落ちる明るい部屋に、ゆっくりと層をなしてたなびいてゆく。


 唐突にパイプを置くと、いつものようにペンをとり便箋に筆を走らせる。



 そう。



 良三が入院するきっかけとなった、死んだ母に代わっての返信を。




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