夢幻紀行(羅門祐人短編集)

羅門祐人

第1話 『独楽』

★初出……SFアドベンチャー:ショートショート教室応募作品

    




 遠くから警鐘が聞こえてくる。


 ――明滅。


 そしてふたたび、かなたへと遠ざかる。


 漆黒。



 瞼を開くと、きれいに空になった折り箱弁当と、ちいさなプラスチックの茶器。


 そして、老人。


 暗闇をひたはしる夜行列車、そのがらんとした車内には、ぼくともうひとり、眼の前に老人がいるだけだった。


 いつ老人は座席につき、どのくらいのあいだ前に座っていたのだろう。


 踏切の警鐘が過ぎさる一瞬の、あの甲高い音で眼がさめるまで、ぼくは列車の窓枠にもたれかかり、うとうととまどろんでいたはずだ。


 まだ頭がはっきりしない。


 手をのばし茶器をとり、ちいさなカップにそそいでいく。


 ゆっくりと、パラフインの味のする茶を喉に流しこむ。

 胸ポケットの中のくしゃくしゃになった煙草をとりだし、両手で慎重にしわをのばす。


 まるで、世界で唯一の宝物のように。


 マッチをする。

 煙草に火をうつす。


 深々と吸いこみ、そして吐く。


 読みかけのまま窓際のテーブルに伏せておいた文庫本に、ふわりと手をのばす。

 ページをめくる。


 煙草の煙が紫煙となってたちのぼり、やがて文字のうえに、ぽたりと灰が落ちる。


苦笑しながら払いおとし、眼にしみるほど短くなった煙草をあわてて灰皿へとねじりこむ。


 これらの、きわめて単純な動作のひとつひとつが――


 澱のようにたまった心中の猥雑なものを、すこしづつ、すこしづつ薄皮をはぐように削りおとしていく。


 ためいきの出るような安堵感。


 タールの海に沈みこんでいくような、どっぷりとした安寧。


 真夜中だ。

 時計をつけずに旅にでたぼくには、それしかわからない。


 本を伏せ、レールの奏でるけだるい響きに、また身をゆだねる。


 ふいに声がした。


「旅がお好きなようですな」


 閉じかけた眼を、ふたたび開く。


 老人が話しかけたということに気づくまで、しばらくの時間が必要だった。


 ぼんやりと見つめるぼくに、老人はにこやかな笑いを返している。


 それは、ふしぎな声だった。

 ほわっとした、まるで春の陽ざしがとおり過ぎたような声。


「旅はときに、ちいさな{悪戯:わるさ}をする。わしらの出会いのように」


 老人は、しわの中に埋もれた薄くけむったような眼で、そっとぼくを見つめている。


 やさしさと悲しみが、ずっとふかく溶けこんだような眼。


 おおきな暗い海が……


 まだ命のかけらすら見いだせない太古の海が、これから出づるであろう幾千幾万の――無数の生命のゆく末をじっと見すえているような、そんな……


「何をなさっていなさるのか、ひとつ、わしに聞かせては下さらぬか。いや、ぶしつけな申し出とはわかっておりますが」


 ぼくは老人の質問にとまどった。


 もじもじしながら赤面しているぼくに、老人のやさしい視線が降り積もっていく。


 なんだか、いつまでも見つめられ続けたいような、不思議な気分になってくる。


 疾走する列車の中という不思議な空間は、内気なぼくにも思わぬ力を与えてくれる。

 言葉をつむぎだすという、ぼくにとっては恐ろしくまどろっこしい作業を、それはまるで魔法のように省略してくれた。


「昔から旅は好きでした」


 頭をぼりぼりと掻きながら、たどたどしく答える。


「何かそう……日常のいやなことから逃れられる、そんな働きがあるみたいで」


 ぼくの言葉に老人はうなずき、そしてほほえんだ。


「見たところ学生さんらしいが、良くわかっておられるようじゃな。わしも昔から旅は好きじゃった。そしてこの歳になってもやめられぬ、しょうもない道楽になってしもうた」


 老人は懐中から煙草をとりだし、口にくわえた。


 そのため言葉の最後が、もごもごとあやふやになる。老人はそれが気になったらしく、ちょっと顔をしかめながら上目使いにぼくを見た。


 老人は、不思議な魅力にあふれている。


 おこなう動作のひとつひとつが、磁石に引きよせられる鉄粉のように、ぼくの心を魅了しつづける。


 まるでずっと昔、子供のころに不思議な話をたくさんしてくれた、いまは亡き祖父のような――なつかしさと悲しさをないまぜにした、心が締めつけられるような思いをとめどもなく湧きださせてくれる、そんな力をもっている。


 ぼくはもっと、老人と話をしてみたくなった。


「あなたのような、ながい人生を歩まれた方にそう言ってもらえると、なんだかほっとします。ぼくにとって旅は、人生そのものですから。流されていく時もあり、喜びとともにあゆむ時もある。これから先どんな人生をすごすのかまるで判らないけど、どうせ旅をしているんだと思えば、なんとか今日を生きてゆけるんです。

 でも人生は、二度とくりかえすことはできない。出会う人々や別れゆく人々、それぞれ旅には不可欠なものです。人生もおなじだと思います。二度と後もどりなんかできないんですよね。でも、思い出は必ず残ります。もう戻らないたくさんの出来事。その印象が深ければ深いほど思い出も味わいぶかいものになって、ぼくの人生の良き伴侶となっていくんじゃないでしょうか」


 老人が笑っている。


 声に出さずに、さも楽しいというように、煙を吐きながら笑っている。


「ところで学生さん。さきほどから小一時間ほど眺めておったんじゃが、なにか悩みごとでもあるようじゃな。さしでがましいようだが、よかったら、ひとつこのおいぼれにも聞かせてくださらぬか」


 ぼくは表情を硬くした。


「いや、またまた失礼なことをいったようじゃな」


 ほっほっ、と老人が笑う。


「まいったな……なんでもお見とおしなんですね」


 照れとも諦めともつかぬ苦笑が、つい浮かんでしまう。


「そのとおり。わしはなんでも知っておる」


 老人はかるく片目を閉じた。それはとても素敵にみえた。


「思うにおぬしは、一生に一度の決心を不本意にもつけねばならなくなった。しかし考えれば考えるほど、どうにもならぬ。思いあまって衝動的に旅にでた。一人の時間を得られれば、なんとか良いアイデアも浮かぶじゃろうと思った……」


 心底おどろいた。

 まるで心の中を読まれたようだ。


 頭のなかが混乱してしまい、に変わったことすら、すぐには気がつかなかった。


 老人は言葉を続けるようすもなく、ただじっと見つめている。


(なんとかしなくっちゃ!)


 ぼくの中で、もうひとりのぼくが叫んでいる。


 老人の言葉で、いっとき忘れていたことを思いだした。


 片時も忘れることができなかったくせに、意図して忘れようとしていたことがにわかに拡大されてくる。


 そう……


 本来ならぼくは、故郷へとむかう別の列車へ乗りこんでいなければならないはず。


 実家の両親に会うために。


 二年前の彼女との出会い、その時からこうなる予感はしていた。


 あまりにも――偶然とはいいきれぬほどの劇的な出会い。

 その時からぼくは、自分の人生の一部を手中にした。


 学生で無収入の身にとって、両親の存在はあまりにも大きかった。

 そしてあとすこし、あとすこしと延ばしに延ばすうち、とうとう今日がきてしまったのだ。


 ぼくたちに、子供ができた。


 具合いが悪いと病院へと出かけた彼女が、ふたたびアパートに戻ってきたときの顔を、ぼくは生涯わすれない。


 ほほえんでいた。


 自分の内にあたらしい命の宿ったことを、純粋に喜び感謝している笑顔だった。


 すべての苦悩は消えうせ、すべてをまかせきった……そんな笑顔だった。


 ぼくの悩みは深くなった。





 旅は続く。


 自分で列車を降りないかぎり、さまざまな思いをのせて列車はひた走る。


 レールは無限に続いていく。

 しかし分岐のポイントは、あくまで自分の手中にある。


 無限の枝わかれをしてゆく人生のレールは、行きはあるが戻りはない。

 過ぎ去った軌道には、二度と戻れないのだ。


 すべては列車の窓をすぎさる景色。


 途中下車して安息を得ることは、もとよりできない直通列車。


 ぼくは心の無限ループにはまり込んでしまった。


「若者はかく悩み、やがて年老いてゆく」


「………!?」


「えてして若者の悩みは、先が見えぬゆえに、とほうもなく巨大に感じられる。それに若者は、待つことを知らぬ。おのれひとりが馬車ウマのように突っぱしり、後をふりかえろうともしない。ふと立ち止まれば、食むによい草むらを見つけることもあるだろうに。反対に、わしのような老人は待つことしか知らぬがな」


 老人は指が焼けそうになるほど短くなった煙草に気がつき、あわてて灰皿に運んでいく。


「人の気持ちがわかるんですか? まるで易者のようだ」


「いやいや、わしとてただの人間。そう簡単には人の心は見抜けんよ。ただし、おぬしだけは別じゃ。なんというかほれ、以心伝心というじゃろう?」


 列車が減速しはじめ、歯の浮くようなブレーキの音をのこし、やがてとまる。


 遠くちいさく、ぼそぼそと放送の声が聞こえてくる。


 小さな駅。


 闇の中で、そこの空間だけが明るく浮きあがっている。

 黒いケント紙を窓枠にはめこみ、セピア色のスプレーで描きだした一枚の絵のようだ。


 誰も降りず、誰も乗り込まない。


 時間さえ息をひそめるような一瞬。

 それが、いま眼の前にある。


 ――ひゅう!


 細く汽笛が鳴る。


 がくんという連なった衝撃を残し、列車はまた走りだした。




 しばらく沈黙がつづいた。


 老人は手元のバッグをさぐり、なにかを取りだした。


「これをみせようかどうか、じつは迷っていたのだが……ま、いいじゃろう。これしきのこと大目に見てもらって」


 ひとりごとのようにも聞こえる言葉といっしょに、それは老人の手の中にあった。


「これは?」


 老人にはおおよそ似つかわしくない物。

 ちいさな、使い古された独楽こまだった。


「コマですね」


 さりげなくいうと、老人はちょっぴり悲しそうな顔になった。


「そう、なんのことはないただの独楽じゃ。しかしわしにとっては、これは思い出深いものでの。遠い昔、これでよく遊んだものじゃった。ほんとうに、永いあいだ忘れておった。しかし一人身になって、ひょんなことからこいつがあるのを思いだした」


 老人の話は続く。


「幼い時分とは、不思議なものだ。あのころの一日は一年のようで、一年先は遠い未来だった。おとなは昔から大人で、これから先も、自分はずうっと子供のままでいられるような気がしてならなかった」


 つい引き込まれそうな、深い声。

 次第にぼくは話に集中しはじめた。


「毎日、陽の暮れるのが悲しくてたまらなかった……あの輝くような日々を、は如実に思い出させてくれるのじゃ。わしはこれが、自分の心の一部のような気がしてならぬ」


 老人はニスのはがれ落ちた、手垢と年月で黒くよごれた小さな独楽を、宝石でもあたためるように何度もなでまわした。


「奥さんは亡くなられたのですね」


「そんなことまで言ったっけな。そう、いいやつだったよ」


「すみません。失礼なことを聞いて」


 老人は顔の前でちいさく手を横にふると、気にすることはないといった。


 そしてすこし考えこんだあと、またこちらを見た。


「いやいや。よくぞ聞いてくださった。あやつはわしにとって、この独楽を忘れさせてくれるほど良くできた妻だったよ」


 鼻筋を照れくさそうに指でなぞり、『歳がいもない』とおおいに照れる。


「本当によい妻だった。とうとう子供はできなかったが、いつも毎日が楽しかった。よく二人で旅に出かけたものだ。そうそう、ちょうどおぬしくらいのときに知りあって……あのころは楽しい時代じゃったな。そしてわしらはすったもんだの挙げ句、ようよう一緒になった」


「本当に幸せだったんですね」


「幸せだった、か……。それは難しい質問じゃて。あれは、わしの心そのものだった。かけがえのない分身だった。しかしあれが死んでもうて、いまのわしが不幸せかというと、そうでもない。ほれ、ここに――」


 老人は自分の胸をポンとたたいた。


「ここに、あれとの思い出がしこたま詰まっておる。その中には、おぬしがいま悩んでいる事と似たような、苦く辛い思い出もあるかもしれぬ。しかし今となってはどうでも良いことじゃ。わしは、あれとおなじ列車に乗ることができた。うん。良い言い方じゃな。そう、乗れただけで満足だった。この答えでよろしいかな」


「でも……」


「二人が一緒のあいだ、ずっと楽しかったかといえば、そりゃ嘘になる。人生が自分の思うままになったとしたら、まことに味気ないもんじゃろう?」


 しばらく考えて、ぼくは否定的な返事をした。


「そうか。若いうちはわからんかもしれんな。ところでおぬし、その女性とはどうするつもりじゃ。子供ができたとして」


 なにを聞かれたのか、わからなかった。


 数瞬のあいだ、ぼんやりと口をあけていた。


 そして、やっとの思いで言葉をつむぎだす。


「どうして……どうして子供のことを!」


 ぼくの困惑は大きかった。


 一言も、子供ができたなどとは口走らなかったはずだ。


 しかし老人ははっきりと、子供ができてどうするつもりかと聞いた。


「わしの言ったことを忘れたのか? おぬしのことは、良くわかると」


「でも、そんな……」


「些細なことを気にするな。それよりわしの問いに答えることのほうが、よほどおぬしのためになる。決心がついてからでよい。答えてくれぬか」


 老人はもう、微笑んではいなかった。


 両の眼は濁ってはおらず、精神の高揚のためか嵐のようにざわめいている。


 恐怖が、不気味に頭をもたげてきた。


 古い物語が、記憶のかたすみで警報を鳴らす。


(さとるのばけもの!)


 人の心をことごとく見抜き、その人がもうなにも考えられなくなってしまったとき、突然に心の中に忍びこみ、その人を喰ってしまう……恐ろしく、なぜか物悲しい旋律をたたえた孤独な化物――


「ほらほら、そんなに驚かんでもよい。なにも取って喰いはせんよ」


 いつのまにか、老人の顔に笑いが戻っている。


「種明しをせねばなるまいな。そうでないと恐ろしくて考えることもできんようじゃ。しかし、それで安心できるとはかぎらんぞ。もしかしたら、いまよりもっと驚くことになるやもしれぬ。ほれ、この独楽、よく見るがよい!」


 不可解な老人の行動に、ぼくは翻弄された。


 心を読まれた驚きこそ少しはおさまったが、相変わらず困惑は積るばかりだ。


 それは、どこにでもある木でできた独楽だった。


 下のとがった部分の先端に、鉄の芯が打ちこんである。

 芯の先端はまるく摩耗し、ずいぶんと使われたことを物語っている。


 上の平たい部分は中心が浅く窪み、そのまわりに同心円を描いて赤と緑の線がはいっている。

 昔からかわりなく子供たちのあいだで遊ばれている、ごくふつうの独楽だった。


 ぼくはそれを見つめ、考えた。


 しかし……


 どこにでもある見たことのあるというだけで、なんら有用な情報は伝わってこない。

 ほとほと困りはて、上目使いに老人を見た。


「わからんのも無理はない。わしでさえ、ついこの前まで忘れておった。じゃから、おぬしが困惑するのも当然かもしれん」


 老人は、ふうと大きくため息をついた。


 そして眼を閉じ、もの思いにふけりはじめる。


 なにか深い所にあるものを探ってでもいるような……


 列車はあいもかわらず規則正しい音をつぶやきつづけている。

 周期を乱すことが致命傷になりかねない、だからおれは一生懸命がんばっているんだぞ――そんなふうにも聞こえる。


 列車はひとつの町をすぎ、海岸線へとさしかかった。


 闇のなかで、のっぺりとした海がうごめいている。

 空と海のあいだは定かではなく、まるですべての事象が始まる前の、どろどろとした原初の混屯のようだ。


 人の心の中で、すべての良きことをせせら笑い、しかも自分からは表に出ようとはしない秘められた悪しき部分。それらが窓のむこうから、じっと笑い顔で自分を見ているような気がした。



「遠い、遠い昔」


 老人の口が、ふたたび開く。


「まだすべてが輝いていた頃、こんなことがなかったかな」


「………?」


「遊びつかれてふと西のほうに眼をやったとき、そこに落陽があった。夕日は西の山にかかり――ほれ、丸く小高い山で頂上付近にまばらに樹木が生えていて――その、こずえの一本一本、木の葉の一枚一枚が、まるで太陽に陰刻されたように妙にはっきりと見えたような……山のむこうには、きっと自分の知らない素晴らしい世界がある。いつもの日常とは異なった不思議な時間ときが流れている……そんな気がしたことがあるだろう」


 老人の声はなにやら呪文めいた響きをもちはじめた。


 深く低く、終わりのほうは震え、消え入りそうだ。


 だが……心の中にだけは、より深くしみとおる声だった。


 老人は続けた。


「では麻疹はしかで熱を出して、母の腕の中で死にそうになりながらも、朦朧とした頭で『注射はいやだ!』と思ったことは? あるいは父のポケットから小銭をぬすみ、それが発覚し、はじめて殴られた……あのときの恥しさは? あるいは……」


「もういい」


 耳をおさえて叫んだ。


 なりふりかまわず、いやいやと顔をふる。


「もういい。そう、いまあんたが言ったことはすべてぼくの過去だ。金を盗んだことは、ぼくと父さんだけの秘密だった。母さんさえ知らない秘密だった。それなのに……一体あんたは誰なんだ!」


「おぬしの過去は、よく知っておる。さあ、思いだすのだ。おぬしが子供の頃、かどの駄菓子屋で買ったものを」


「………!?」


「おぬしはあの店に、毎日のように出かけていった。有名な野球選手や関取の写真が表をかざる、大小さまざまなメンコたち。それに子供ごころにもまるで宝石のように思えた、怪しい光輝を放つビー玉の数々。店はまるで、世界の中でゆいいつ開かれた宝石箱のようだった。そうじゃな?」


「えっ? ええ……」


「おぬしは、すべての欲望が満たされていくのを感じたはずだ。噛みしめると強い肉桂の味がする、色とりどりの紙をもう忘れたのか。くじをひいて梅ジャムやら甘納豆を何個手にいれたと、友達に自慢したのを覚えていないのか」


「あ、あの店……そうだ」


「思いだしたか」


「そうだ! あそこには、独楽も売っていた。その独楽はぼくのものだ。家のちかくの駄菓子屋で買って、そしてどこかで失くしたものだ!!」


 老人は、一度おおきくうなずいた。


「そう。そのとおりじゃよ。しかし失くしたのではない。おぬしに独楽を失くして泣いた記憶はないはず。おぬしが大学へ進むため家を出たあと、母親が部屋をかたずけていて、押入れの奥で偶然に独楽を見つけた。いつかは帰ってくるだろうおぬしのために、母親はまた、そっとしまいこんだ。だから今も、おぬしの故郷にはこの独楽がある。しかしこれがおぬしの手にふたたび戻るのは、今から数年後……病気で母が死ぬ時のはずだ」


「……はず?」


「そう。おぬしは、わしだ。わしはおぬし――おなじ名とおなじ両親を持つ、まったくの分身なのだ。ただ、たがいに住む時間軸がちがうゆえ、けっしてまみえることは叶わぬはずの二人じゃった」

 

「信じられない!」


 喉から悲鳴に近い声がほとばしった。


 誰もいない車内で、声はすぐに闇の中へと吸いこまれていく。


「これまでふたりの人生は、まったくおなじだった。しかし、わしは禁を犯した」


 老人は寂しそうに笑った。


「わしの人生は楽しかった。だが妻は子供ができぬのを、ゆいいつの心残りとして死んでいった。それを不憫に思ったわしは、航時機の開発に心血をそそいだ。おぬしがいま学んでいる理論物理の壁をなんとか破ろうと、死に物狂いで努力した。そしていま部分的にじゃが成功したゆえ、わしはこうしてここにおる」


「タイムマシンだって!?」


 老人はぼくの興奮を悲しそうな目で見ている。


「多元宇宙は実在する。したがっておぬしとわしは、まったくの同一人物ではない。おぬしが航時機を作れるか否かは、やはり神のみぞ知る。こんな簡単なことすら理解できぬようでは、やはりおぬしには無理かもしれぬ」


 馬鹿にされたような気がした。


「どうして。ぼくはあなたなんでしょう? 過去が同じならば」


「わしには子供ができなかった。おぬしの彼女には、いま何がおこっておる? わしの妻とは、おぬしの彼女なのだぞ」


「あ……」


「許されぬこととは知りつつ、わしは過去へとさかのぼった。そしておぬしの彼女の、不妊の原因を抹消してしまった。過去への干渉は、時間流を分岐させる。その時点から、おぬしとわしの存在は、べつの宇宙に枝分かれしたんじゃ」


「では、なぜここに」


「その後の結果がどうなるか不安になっての。自分の未来にもどれんのを承知で、わしはおぬしの時間流にとどまった。わしの流れのほうには、もうたどり着けん。次元トレーサーのついていない航時機では、わしの未来には戻れんのじゃ」


「この時間はおぬしのものだ。わしは孤独な異邦人にすぎぬ。しかし、それで良いと思っとる」


 老人はまた、寂しげに笑った。


 まるで永いあいだにそれが習い性にでもなったかのような、深く魂に刻みこまれるような笑いだった。


「信じられない……でも、騙されてみたいですね」


「信じる信じないは、どうでも良いことじゃ」


「でも、信じてみたい」


「ならば、なんとしても自分を信じなされ。そして自分の決心に忠実になることじゃ。そうでなければ、わしの努力はすべて水泡に帰する」


「なんだか変な感じだな。でも決心がつきましたよ。ぼくは……」


 老人は手をかざして、ぼくの言葉をさえぎった。


「いや、聞くまい。その決心はおぬしとおぬしの妻のものだ。わしには関係ない。おぬしにはおぬしの独楽があるように――ほれ、わしにはこのとおり」


 老人の手のなかには、ちいさなニスのはげた独楽がひとつ。




 まるで……

 大切な宝石のように温められていた。






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