掌の痕
私の掌に傷はない。至って綺麗なそれは、手相だけを湛えている。それを読み解くことは私にはできない。そもそも、興味もない。運命を占えるというのなら、今を生きていることに何の意味があるのだろう。私が占えるとすればただ一つ、あなたは今生きていて、いつか死ぬ、ただそれだけだ。
喫煙所で自らの掌を眺めながら、そんなどうでもいい物思いに耽る。長らく、誰とも手をつないでいないことに気が付いた。それは私の孤独を象徴するわけではなかった。一定以上の親密さがなければ、わざわざ手をつなぐことなどしないだろう。恋愛関係か、または関係性の近く、物理的接触に違和感のない友人か…どちらにせよ、私には縁遠くなった話だった。友人はいる。恋人もいる。だが、手をつなぐこととその関係性の事実がイコールで結ばれることはなかった。
それは別に、特段特別なことでもないだろう。手をつながなくとも、人間は生きていける。手をつながなくとも、人間は親密さを感じることができるし、示すことができる。それが友情や恋慕を超える、愛情であったとしても、必ずしも身体的接触を伴う必要はない。私はそう思っている。
だが、なんだろう。この、虚しさと寂しさは。
新しい煙草に火を点け、左手でそれを扱う。手持無沙汰の右手の掌を、私はまた見つめる。この虚しさはどこからきているのだろう。単純に、他者と接触したいという欲求からだろうか、それともほかの、感情からだろうか。
私には、ただの欲求からだとは思えなかった。それは金を払えば手に入れることができた。恋人や友人に頼んでも、簡単に手に入るだろう。だが、それはどこか、この虚しさを埋めるためには違う気がしていた。物理的には同じ行為でも、私が求めているものは、違う。ただ掌と掌が触れ合う行為を求めているのではない。だとしたら、私はこの満ち足りた幸福の中で、何を求めているのだろう。煙草は燃え、灰を増やしながら、それに積み重なるように私の思考は潜っていく。心の奥深くへ。
そして私は気付いた。見て見ぬふりをし続けている、とある欲望に。
そう、私は掌と掌を重ねたいわけではない。誰かを、同じ地獄へ引き下ろすために、その手を引っ張りたいのだ。
これは酷く醜い、欲望だった。しかし否定しきれず、消失することもなく、私の心の奥底に常に居続ける欲望でもあった。私は何者かを私の地獄に落とすことを、誰よりも恐怖している。そして同時に、それを誰よりも願っている。相反する二つの欲望が、葛藤と共に現実を侵食する。それは寂しさや虚しさ、そう一言で形容できるような感情ではない。もっと奥深い…いうなれば、存在そのものの渇きだ。ただ求める、という欲望。それはどこまでも純粋に、だからこそ理性も倫理も跳ね除けて、私の内側に巣食っている。
現実の私はというと、もっぱら「私の地獄に近い場所に来た他者」を「天国へ押し返す」人間だった。それは私にとって、使命のように感じられた。私は決して自らの地獄から出ようとは思わなかったし、同時に引きずり込もうという行動を起こすこともなかった。それは私の根底にあるあの欲動とは、まさに正反対の動きだった。それが苦しさを生まぬと言えば、嘘になる。何度も欲動に呑まれそうになったこともある。だがその度に、私は理性と知性を以って、何とか踏みとどまった。それは一種の誇りで、自負だ。何よりあの原初の欲動の強さと、恐ろしさを知っているからこそ、それへの反抗は私にとって誇りだった。
だがそれでも。ふと疼くのだ。その欲動が。なんでもない、ある一瞬に。
引き金があるわけでもない。理由があるわけでもない。強いて言えば、暇を持て余したからなのかもしれない。ともかく、この欲動の疼きは、私に私自身の醜さを知らしめる。私のいる、この地獄を知らしめる。赤土と泥濘、血に染まったこの、私だけの地獄が、「お前はここにいる、離れることはない」とでもいうかのように、時折嘲りの声を発する。そしてそれは続ける、「誰かを連れ込み、共に墜ちてしまえ」と。
それは、甘美な、どこまでも強い誘惑だった。魅力を感じないといえば嘘になる。それどころか、私の持つ欲動の内、最も強い欲動といっていいだろう。誰かと共に墜ち、そこで融解し、一つになる。そして永遠に同じ地獄の中で廻り続ける。…
自己破壊衝動とも違う、タナトスとも違う、誰かと繋がりたいという欲動の、歪んだ成れの果て。それがこの、地獄だ。
ため息を吐いて、煙草を揉み消す。軽い眩暈がした。それはニコチンの副作用によるものだろう。コーヒーを呷る。甘い、缶コーヒーが脳を刺激した気がする。だからといって、何かが変わるわけでもない。
もう一本煙草を取り出そうかと悩んだ私の脳裏に、過去の誰かが言った。
『煙草、せめて本数減らしてね』
…ああ、そうか。君か。
私が地獄から追い出した、世界で初めての人。その輪郭が、記憶の先に朧げに浮かぶ。心配そうな表情と、何かを抱えるような、苦しそうな声音で、君は私に言う。
『あなたが煙草を吸うのは、死のうとしているようで悲しいから』
君は今、幸せだろうか。馬鹿げた問いが脳裏に浮かんだ。私の世界から消えた君は、きっと幸せだろう。そう信じている。
だから私は、もう一本、煙草に火を点けた。
感じる眩暈を、塗り重ねるように。
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