短編集

鹽夜亮

芥子の花

 庭には芥子の花が咲き乱れている。…

 私は赤一面のそれを見ながら、踊る。月明かりにぼんやりと浮かんだ赤色の芥子たちは、夜風に揺られている。それと呼応するように、私は踊る。

 奇怪なステップ、投げ出されるように振られる手、支えを失ったかのようにゆらりゆらりと揺らぐ首。脱力と緊張が、繰り返される。

 私の踊りを見る人はいない。だからこそ、私はこの深夜に思っているだから。たった一人で。

 足元で砂が音を立てる。足の裏にジャリっとした硬い感触が伝わる。次の瞬間には空を切り、また着地する。踊りを習った事はない。形などない。無遠慮で、見苦しくて、時に美しい踊りを、私は踊り続ける。

「ら〜らら…」

 記憶の底にある、曲名すらわからぬ歌を口ずさむ。それは確か、花のことを歌っていた。それが何の花についてだったか、思い出すことはできない。少なくとも、月明かりが似合う花ではなかったのは確かだった。

 芥子の花と月明かりだけが、私を見ている。

 観客にお辞儀をする。丁寧に、大袈裟な所作で。ワンピースの裾を少しだけ持ち上げて。拍手はない。あるのは、夜風に揺れる芥子の花の微かな音と、朧げな月明かりだけだった。

 私は地面に腰を下ろした。座った、というよりも崩れたと言った方が正しいのかもしれない。理由はなかった。ただ、そうしたかったから。脱力した首を回し、庭の横を流れる川を見る。耳を澄ませると、何かの声がした。鳥なのか動物なのか、虫なのか、それすらわからない。人ではないことだけが、確かだった。

「ら〜らららん」

 私は、小声で歌い続ける。メロディも掠れて、忘れ去りそうなその歌を。思い入れもない、きっとどこかで耳に入っただけの歌。意味などない歌唱は、切なく夜の風に消えた。

 月は狂気を呼ぶという。月に魅入ったものは狂人になるという。

 それは本当だろうか?私にとって、決して直視できない太陽よりも、月はよほど優しく、身近だった。何となしに月に向かって手を伸ばす。月明かりが私の右手に隠れて、消える。それが寂しくて、少しだけ手をずらした。指の隙間から漏れる月光、確かにそれは私を、この世界を、芥子の花たちを照らしている。柔らかく厳かに、気づかれないように静かに、消え入りそうに儚く。

 月への恋慕は、儚さへの恋慕なのかもしれない。そう思えば、私は月に恋していると言ってもいいだろう。身体感覚さえ不確かな脱力の中で、機械仕掛けの人形のように月へ向かって手を伸ばしたまま、私は硬直していた。

 どのくらい時間が経ったかはわからない。私はその体勢に飽きを感じ、立ち上がった。ワンピースに砂利が付いていることも気にせず、歩き始める。

 暗い夜の、一歩一歩は覚束ない。微かな月明かりを頼りに、私は芥子の花たちへ向かって歩いてゆく。視界の中で、少しずつ近づいてくる赤い花たち。夜風に揺らぐ、どこか毒々しい、禁断の花。私はその一つに手を伸ばす。

 真正面から花を見据えると、中央は黒く、夜の闇に沈んでいる。その周辺を赤い花弁が覆っている。美しいと思った。煌びやかではない、厳かで、どこか毒々しい、その花は今、私の手の中にある。

 唐突に、手折ってしまいたい衝動に駆られた。その衝動を飲み込む。力が入りかけた右手を、宥めるように左手で押さえる。理由はわからなかった。ただ一瞬、この花の首を折ってしまいたいと、何かが首をもたげて私に告げた。それは狂気だろうか。それとも、蟻をも殺す子どもの無邪気と似たものだろうか。相変わらず月明かりは芥子の花と私を照らしている。…

 また一つ、別の芥子の花に手を伸ばす。大きく違うわけではない。だが、花弁の形や大きさ、微妙な色合いには確かな違いがある。ここまで歩み寄らなければ、気づくことはできない。遠くで綺麗だと眺めている分には、この花はただ美しい赤を湛えているだけだ。一輪一輪も、全て群衆となる。それがこうして目の前で手に取ると、似ているようで全てが違う。

 それは、美しい、そう思った。

 手に届かない月は変わらない。どこで、誰が、いつ見ても、変わらない。変わるのは見せる姿だけだ。月そのものは、いつだって変わらない。永遠に一つで、永遠に変わらない。少なくとも、私が生きている間に変わることはないだろう。

 手元の芥子の花と、月の対比を思った。どちらがより美しい在り方だろうか。群衆に埋もれながらも、確かな個性を放つ禁断の花と、何一つ変わることなくあり続ける孤高の月。それはまるで、対極な存在のように私には思えた。

 私は、どちらだろうか。ぼんやりと考える。今夜の私は、月に近いのかもしれない。でも、次の朝は?その昼は?別の日は?…

 だからといって、禁断の花と呼べるほど甘い誘惑とそれに隠された危険性を持っているわけでもない。私は、少し変わり者のただの人だ。駅を歩いていればただの人、今夜の姿も、誰も見ていないのだから、その姿は私しか知らない。そもそも、私以外の人間が逸脱した行動を取っていないという答えはどこにもない。誰も見ていないのなら、人は皆狂気を孕むものだ。それは各個人だけが知っている。

 月はそんな私たちさえ、ずっと眺めているのだろう。…

 私は月を見上げた。雲に霞み、柔らかい光を地上に届けるそれを。そして私の衝動はついに行動になった。右手で触れた芥子の花の、首を手折る。パキッと音を立てて、それは私の手のひらに落ちた。斬首、という言葉が脳裏を掠める。違いないだろう、それは残酷な行為に変わりない。植物の、匂いがした。それは彼女たちの流す血の匂い。人の血とは違う、しかし同じ、体液の匂い。

 芥子の花は手のひらの中で静かに、私を見つめている。朝が明ける頃には枯れるだろう。この赤色も、色を失って、見事な花弁も萎れて崩れていくだろう。大地と切り離された芥子の花。何故か私には、それが愛おしかった。私は確かに、一輪の芥子の花を私だけのものにした。あの赤い群れの中の、一輪を。確かに私の手で殺し、私の手の中に埋めた。それだけは事実だった。

 私は手のひらに芥子の花を包んだまま、玄関の扉を開ける。

 そしてその時、ふと思い出した。

 我が家の芥子は、全てただの無害な雛芥子だったということを。…….

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