死人の鏡像
起きた瞬間から、何となく憂鬱だった。それに大した意味も理由もない。特別なドラマも、劇的な事件もない。だが憂鬱には変わりない。結局、人間はそんなものだ。ただ、そういう朝だった。
追憶の先で、ポケットの中でひしゃげたハイライトが脳裏から離れなかった。まだ私が生きていた頃、咽せながら吸っていた、曲がった煙草。それは苦悩の象徴でもあり、抗いの象徴でもあった。寝起きの、泥のように溶けた脳を突き動かし、私はハイライトを買いに、車を走らせた。
「いつもありがとうございます」
「どうも〜」
馴染みの煙草屋の店主と挨拶を交わすと、外に出る。適当にブラックコーヒーを買った。金にすら困っている現状の私は、無駄遣いという言葉を反芻した。小銭に思考が縛られるのは、実に馬鹿らしかった。
パッケージを開けて、ハイライトに火をつける。重い煙が喉と肺を焼く。ほのかなラム酒が香る。懐かしい、と思った。口に残る、このえぐみさえ。
煙草屋の前で煙を吸っては吐く私の視界に、赤いものが映った。アスファルトに浮くような、強いコントラストで安置された、花弁。何の花かはわからなかった。それを解するほど、私は博識でも優しい人間でもなかった。ただ、目を奪われた。その孤独な、一枚の花弁に。
他の全てが視界の奥に沈む。音すら消える。思考と焦点が、ただ一点に集中する。私の世界には、肺を焼くハイライトの煙と、アスファルトの上の一枚の花弁、それしかなかった。
一歩、その花弁に近づく。鮮やかな赤が、荒れたアスファルトの上に点を打っている。これは私だ、と思った。馬鹿らしい考えだろう。感傷的で、どうしようもない、慰めにすらならない、しかし鮮烈な。この花弁はとうの昔に死んでいる。どこから舞ってきたのかすら、わからない。ただ今は、このアスファルトの上で、私に見られている。宿命を感じた。自らの死を確認するように、私は花弁を凝視する。
燃え尽きたハイライトを捨て、次の一本に火をつける。視線は花弁に向けたまま。目が離せなかった。春のゆるやかな風は、花弁を動かすには頼りないようだった。一瞬、この花弁を踏み潰してしまおうかと思った。それは破壊衝動なのか、私なりの花弁への餞なのか、わからなかった。その衝動をコーヒーの苦味と共に飲み込んだ。踏み潰して弔ってしまうより、この花弁をまだ眺めていたかった。
一枚写真を撮る。遠い昔、写真部にいた時のことを思い返した。当時のカメラは数年前に壊れた。もう、記録は何も残っていない。あらゆる瞬間を切り取った写真たちは、もはやこの世界に何一つ遺していない。
だがこの目の前の花弁は、アスファルトの上に鮮やかに一点の紅を落としながら、確かに私のスマートフォンに記録された。フォルダに入った、それを眺める。何と皮肉な対比だろう。踏みつけられ、ボロボロになった古いアスファルトと、死んだ一枚の花弁。やはりそれは、今の私の写絵に他ならなかった。
死体すら、こうも鮮烈に美しくある。私は死体にすらなれなかった。
今もこうして、死んだのに生きている。懐かしさとハイライトの煙を吸い込んでは吐き出している。それは呼吸に他ならない。呼吸を止めることは、私にはできなかった。純粋な死体となり、風に舞うことはできなかった。それはまだ、出来そうにない。それは希望ではない。弱さだろうか、と自らに問う。それもまた事実だ、と自分が答える。もしそれが全てで無いのならば、私という存在の中で他に何が残っているのだろう?…
振り払えない考えに思い至った。本当は、私はずっと誰かを救いたかった。そして自分自身も救いたかった。その願いは、私という死体を今でも動かし続けた。傲慢で、我儘なそれは、心の奥底で永遠に燻り続けている。他の誰よりも私自身が、その資格も権利も、力も無いと知っているのに。他者を救済することに夢を見る、なんと滑稽で、見苦しい生存理由だろう。それは自らの希望の無さゆえに、他者の中に希望を見出す、他人任せの我儘だ。
三本目のハイライトに火をつける。強いニコチンとタールが、軽い眩暈を誘発した。それは微睡に似ていた。私という死人の生にも、似ていた。現実と夢の世界を揺蕩うように、生存と死の境界をふらつくように。
私の希望….醜い我儘は、止むことがなかった。どれほど自らを軽蔑しようと、その希望は叫んだ。
『私の死体から、肉でも皮膚でも心でも、千切って持っていけ』
それは希望だろうか。祈りだろうか。贖罪だろうか。判別はつかなかった。だが、私の中の最も醜い、そして最も強固な生存の理由だった。だから私はまたま息をしていた。自らの存在の死を認めても、今になってもなお、胸の鼓動は続いている。
さぁ、仮にこの心臓を鷲掴みにして握りつぶして、誰かの役に立つのならばどれほど幸福だろう?…馬鹿らしい、無意味な空想を思った。その空想に、価値はない。死人がもう一度死んだとて、何の意味があるというのだろう。
「死んでるから、まだ生きるんだろ」
独り言が漏れる。曖昧で、矛盾していて、どうしようもなく醜くて、しかしそれでも、心の奥底から出た言葉。自分も、他者も、何も救えない愚者の、生に縋り付く言い訳だ、と自身を罵倒する。それでも何度も何度も、何年もかけて繰り返したその罵倒も、この独り言を消すことはできなかった。
ハイライトが燃え尽きる。指先からそれを離すと、確かな熱はどこかへ消えて落ちた。
花弁をもう一度見つめる。それはまだ同じ場所にいた。ただそこにありながらも動けない、私と同じように。
もういいだろう、充分だ、そう思った。私はもう一瞥することもなく、花弁に背を向けて、車に乗り込んだ。…
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