第10話:アルセトラII号
セレウス歴967年、揺陽月(7月)18日の夕暮れ。 ヴォルク・アルブレヒトの居室に、沈む太陽の最後の光が射し込んでいた。
彼は鏡の前に立ち、公務とは異なる装いを整えていた。普段の官服ではなく、いくぶん落ち着いた色合いの私服。帝国官吏の外套を脱ぎ捨て、今宵は一人の「文化収集家」として行動する決意の表れだった。
机の引き出しから取り出したのは、親族名義の小切手帳。名目は「文化財取得資金」としてあらかじめ準備されたものだった。これから書き込むであろう額面の大きさに、ヴォルクは一瞬たじろいだ。だが彼の心の揺らぎは、すぐに使命感という装いの下に押し込められた。
「これは個人的な欲望のためではない」
そう自らに言い聞かせる。歴史上の逸品を、闇から光の下に引き出すための代価に過ぎない——と。人は自らの弱さを認めることを恐れるあまり、その弱さをより崇高な大義名分で覆い隠す。
そして、その覆いが厚ければ厚いほど、内なる欲望はより純粋な形で成長していく。皮肉なことに、ヴォルク・アルブレヒトの義務感が強ければ強いほど、彼の収集欲も同じ強度で膨れ上がっていったのである。
書斎に隣接する小さなセラーに足を踏み入れた。彼の誇りである帝国各地の名酒が、整然と並ぶ一角に、新たな空きスペースが用意されていた。「黒標セット」のために、彼は既存のコレクションを再配置していたのだ。
まだ手に入れてもいないワインのための場所を確保するという行為には、彼の内なる確信と期待が象徴されていた。
ワイン記録帳——これは彼の密かな誇りであり、長年の記録の集大成だった。手にとりかけて、ふと思いとどまる。帝国のワイン愛好家は、皆、この記録帳を作る。記録帳の厚さと質、それこそが、帝国におけるワイン愛好家としての証であった。
「記録するのは帰ってからだ」
その言葉には、帰路の安全と、記録の正確さを期す慎重さだけでなく、もうひとつの意味が込められていた。それは、彼が今夜の行動の意味を、完全に自覚していない証左でもあった。公務でも私的な楽しみでもない、その境界線上の行為。それを記録することへのわずかな躊躇いが、彼の潜在意識の片隅に存在していたのだ。
窓の外に広がる帝都の夕景を一瞥し、ヴォルクは静かに部屋を後にした。
ヴェルシア湾の13号桟橋は、港の喧騒から離れた一角にある。陽が落ちた後の桟橋は、街の灯りとは異質の暗がりに包まれていた。潮風が頬を撫で、停泊する船の軋む音だけが、この空間を支配している。
帝国の経済の動脈とも言える港湾地区も、このひっそりとした一角では、まるで別世界のようだった。記録と実態の狭間。公と私の境界線。昼と夜の境目。すべての曖昧さが凝縮された空間に、ヴォルク・アルブレヒトは立っていた。
桟橋の先端に停泊しているのは、《アルセトラII号》と名付けられた小型艀。黒く塗装された船体は、夜の闇にほとんど溶け込んでいた。その前に、一人の男が無言で立っている。
ヴォルクは、通報に記されていた合言葉を口にした。 「封を切ったら、戻れない」
その言葉には、皮肉な真実が含まれていた。彼自身が今、ある種の封印を破り、帰路の断たれた旅路に踏み出しているかもしれないことに、彼はまだ気づいていなかった。
男はうなずき、無言のまま彼を船内へと案内した。
船内は、ヴォルクの予想と異なっていた。荒々しい密輸船のイメージとは裏腹に、そこは抑制の効いた贅沢さで満ちていた。照明は控えめながら、船内の装飾は明らかに上質のものだった。漂う香りは、高級船室を思わせる檜の匂い。すべてが計算され、演出された空間だった。
ヴォルクを案内する男——すなわち「ガロ」は、寡黙な印象を与えた。背筋をピンと伸ばし、必要最小限の言葉だけを交わす。彼の存在そのものが、この場の緊張感と非日常性を際立たせていた。
「ようこそ、真のワイン愛好家の最終到達地へ」
その言葉だけを残し、ガロはヴォルクをさらに奥の一室へと導いた。そこには複数の木箱が、整然と並べられていた。
「どのような品をお求めでしょうか」
「……トゥレーン黒標は、ございますかな?」
ヴォルクが精一杯の平静を装いながら、そう尋ねると、ガロはゆっくりと歩みを進め、ひとつの木箱を開けた。
「なるほど……こちらが本品です」
ガロの声には、確信と誇りが混ざり合っていた。その声音は、この商品が特別であることを暗に示していた。
ヴォルクの前に提示された木箱には、10本のワインが整然と収められていた。930年から939年までの「トゥレーン黒標」。ヴォルクの呼吸が、わずかに乱れる。
彼は慎重に一本を取り上げ、ラベルを確認した。公式の封緘ラベルとは明らかに異なるデザイン。帝国の記録にも残っていない意匠——「蔵直」と呼ばれる、醸造所から直接抜かれた稀少品の証だった。
「証明書や記録は?」
と、職業柄の習慣で尋ねずにはいられなかった。ガロは静かに首を振った。
「こうしたものは記録に残さないのが礼儀です。これをご覧になっているのは、帝国内でも数えるほどの方々だけです」
その言葉には、秘密の共有者という連帯感と、特別な存在としての優越感をヴォルクに与える効果があった。帝国の規律と記録を重んじる彼にとって、「記録に残さない」という概念は、通常であれば抵抗を感じるはずのものだ。だが今、彼の中ではその抵抗感が薄れていた。むしろ、記録されない特別な体験こそが、この瞬間の価値を高めているとさえ感じていた。
「これは……帝国の記録に残すべき品だ」
ヴォルクの声には、確信と興奮が混じり合っていた。自らの欲望が、帝国への忠誠という大義名分に完全に変換された瞬間だった。彼の中では、もはや私的な収集欲と公務としての使命感の境界は存在しなかった。皮肉なことに、最も純粋な動機が、最も大きな自己欺瞞をもたらすのである。
「私は……これを購入したい」
ガロはゆっくりとうなずき、静かな声で告げた。
「ありがとうございます。お支払いが8000万セストルになります」
その金額に、ヴォルクは一瞬息を呑んだ。帝国官吏の上級職の年俸の数倍ではきかない。通常なら躊躇する金額だが、今の彼には迷いはなかった。彼は用意していた小切手を差し出した。
「これは帝国文化継承守護者としての、未来への投資だ」
その言葉に、ガロは微かな笑みを浮かべた。
「そのような理解者に本品が渡るのは光栄です。この品が、あなたのような方の手に渡るべきだということを、私どもは心の底から願っておりました」
木箱は丁寧に梱包され、ヴォルクの馬車へと運ばれた。その重量感は、彼にとって単なる物理的な重さ以上のものを感じさせた。それは"文化的使命"という名の欲望の重みであり、自己欺瞞という名の満足感の証でもあった。
ヴォルク・アルブレヒトが自室に戻ったのは、深夜を過ぎた頃だった。彼は慎重に木箱を開け、その中身を一本ずつセラーの用意されたスペースに納めていった。各瓶を配置する彼の手つきには、聖職者が聖遺物を扱うような敬虔さがあった。
すべてを収めた後、彼はワイン記録帳を取り出した。新しいページを開き、達筆な字で記す。
「セレウス歴967年 照炎月24日、アルセトラII号にて黒標垂直を購入」
この一行には、帝都初の記録者としての誇りが込められていた。彼は満足げにセラーの前に立ち、自らの収蔵品を眺めた。その目には、達成感と陶酔が混ざり合っていた。
帝国の官吏として、彼は常に記録と規律を重んじてきた。だが今夜の行動は、その原則から微妙にずれたものだった。それでも彼の中では、すべてが正当化されていた。「文化財保全」という大義名分。「帝国の歴史への貢献」という使命感。
これらの言葉が、彼の内なる欲望を完璧に覆い隠していた。そして皮肉なことに、その覆いが厚ければ厚いほど、彼自身も自らの本当の動機に気づかなくなっていった。
欲望と正義と使命感。これらの境界線が曖昧になったとき、人は最も危険な状態に陥る。なぜなら、その状態にある者は、自らの行動に疑問を抱くことを完全に忘れてしまうからである。
ヴォルク・アルブレヒトは今、まさにその境界線上に立っていた。彼の陶酔は、最高潮に達していたのである。
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