第11話:祝杯

《アルセトラII号》の船室には、今や別の空気が流れていた。


数十分前まで、ヴォルク・アルブレヒト財務省査察課室長が、厳かな面持ちで「帝国の歴史を変える取引」を行っていた同じ船室。そこにはワインとグラス、軽食が並び、打ち上げの雰囲気に包まれていた。窓の外では、夜の帝都の灯りが海面に揺れ、船内には成功の余韻が満ちている。


役者が舞台から降りたとき、彼らの表情は一変する。演じていた時の緊張感や、役柄の衣装に込めた魂が解放され、素の感情が表に現れる。それは詐欺師たちも同じだった。ヴォルク・アルブレヒトが去った後の船室は、まるで長期巡業を終えた旅芸人の、楽屋のような解放感に満ちていた。


先日の「警官隊」は灰色の隊服はもはや身につけておらず、「密輸ワインバー」役の店員たちは肩の力を抜いて笑い声を上げている。そして「ガロ」と名乗った男の横には、あの自白犯の姿があった。船室に集う者たちの面々は、つい先ほどまでの緊張感を忘れたかのように、くつろいだ表情を浮かべている。


彼らにとって、詐欺は単なる金銭の獲得手段ではなかった。それは知性と演技力と緻密な計画が要求される、ある種の芸術だった。そして今、その芸術作品が完成した瞬間の高揚感が、船室全体を包み込んでいた。


マルコが中央に立ち、グラスを掲げた。彼の表情には、役者としての達成感と、詐欺師としての狡猾さが混在していた。それは社会の影で生きる者たちの、独特の輝きを放っていた。彼の瞳には、数ヶ月にわたる計画が実を結んだ満足感と、次なる「舞台」への期待が垣間見えた。


「みなさま、お疲れさまでした。帝都の記録帳に、室長のお名前が刻まれましたので……」


マルコの声には、先ほどまでの「路地裏のバーマスター」の演技からは想像できない、軽やかさとユーモアが宿っていた。それは詐欺師の本性というよりも、むしろ芸術家が作品完成後に見せる解放感に似ていた。


「乾杯〜!」


ラグナル——偽りの財務官——が陽気に声を上げた。彼の肩には、数ヶ月にわたる潜入工作の緊張から解放された、開放感があった。帝国官僚としての落ち着いた演技から一転、その表情は少年のような無邪気さを取り戻していた。彼の声は船室に響き、一同の気持ちを一つにした。


「乾杯!!」


高級クリスタルのグラスが触れ合う音が、船室に響き渡る。それはヴォルク・アルブレヒトが手にした「幻のワイン」よりは格が落ちるのではあろうが、それでも、おそらくは本物の高級ワインの入ったグラスだった。皮肉なことに、詐欺師たちの打ち上げの方が、より本物の贅沢を味わっていたのかもしれない。


室内に満ちる笑いと余韻の中、彼らは「渾身の芝居」の幕引きを祝していた。それはガイアスの表舞台では決して目にすることのできない、影の世界の宴だった。


「ったく、あいつ"警官隊が遅い"とか言ってたけどよ」


マルコは軽口を叩いた。その声色には、先ほどまでの自白犯の演技とは似ても似つかない軽やかさがあった。彼の表情からは、演技の緊張感が抜け落ち、代わりに計画を成功させた指揮者としての誇りが垣間見えた。マルコの中には、詐欺師としての矜持と、卓越した演技者としての自負が同居していた。そしてそれは、彼だけが持つ独自の"芸術観"によって支えられていた。


灰色の外套を脱いだ男——警官役の一人が、テーブルに寄りかかりながら応じる。彼の身のこなしには、本物の警官隊とは異なる、どこか野生的な柔軟さがあった。おそらく彼もまた、何らかの芸術的な素養を持つ詐欺の道の人間なのだろう。


「いやいや、時間ぴったりだったっつの。室長からの指示は『21刻、正確に突入』だったろ。先走りすぎてんだよ。あれ内規違反じゃねえの?」


「いや、まずはワイン飲みにきたんだろ? なんだっけ、北の白?」


客を演じていた男が笑い声を上げた。彼の言葉には、一座内での親密さが溢れていた。ここにいる者たちは、単なる詐欺の共犯者以上の絆で結ばれているようだった。それは長い間、同じ危険と喜びを分かち合ってきた者たちの間にのみ生まれる関係性だった。


一同の笑い声が船室に満ちる。それは緊張から解放された者たちの、心からの高揚感だった。窓の外の海は、彼らの秘密を守るように黒く、静かに広がっていた。


「"これは帝国文化継承守護者としての、未来への投資だ"——って言ってたよ」


ガロが、淡々とした口調で言った。彼の表情は、舞台上での寡黙な密輸王から一転、どこか皮肉めいた微笑みを浮かべていた。ガロは今夜の芝居で最も重要な役を演じたにもかかわらず、その貢献を誇示することなく、静かに観察者の立場を保っていた。それは彼自身の人生哲学なのか、あるいは詐欺集団内での立ち位置なのか、定かではなかった。


「守護者! はい、名言入りました〜!」


ラグナルが拍手しながら言った。彼の声には、長期にわたる潜入工作を無事に終えた安堵感が混じっていた。ラグナルは集団の中で最も長く別人格を演じ続けた役者だった。その間の緊張と、解放された今の喜びは、ひときわ大きなものがあるに違いない。


着飾った女性——ミリアが優雅なしぐさでグラスを持ちながら言う。彼女は唯一、この集団の中で「協力者」の立場にある人物だった。制度の内側にいながら、詐欺師たちに手を貸す彼女の動機は窺い知れないが、その瞳の奥には、単純な金銭欲や刺激への渇望以上の、何か複雑な感情が潜んでいるようだった。


「本気で"文化財保存局長官"の顔だったわね。あの決意に満ちた表情、実に見事だったね」


彼女の言葉には、成功を喜ぶ気持ちと同時に、ヴォルク・アルブレヒトへの微妙な敬意も混じっているようだった。彼女は今回、初めてヴォルクと対面したが、詐欺の対象でありながら、ヴォルクの俗物的な面の奥底にある、ある種の「純粋さ」を見抜いているようでもあった。


「次から役名に使おうか? "守護大臣閣下"とか。"文化保全守護公使"とか」


マルコが茶化すように言った。食卓を囲む者たちの間に、笑い声が波紋のように広がる。その瞬間、彼らは成功だけでなく、芝居それ自体の完成度を祝っているようだった。彼らにとって、詐欺と芸術の境界線は極めて曖昧なものだったのかもしれない。


マルコはまた別の場面を演じるように、悲壮感を込めた声で言った。彼の声色は見事に変わり、船室にいる者たちに、あの自白の場面を鮮明に思い起こさせた。


「ほんの小遣い稼ぎのつもりだったんだよ……うう……ってな」


その演技力の幅に、再び一同の笑いが起こる。これはまさに、演者の打ち上げでしか見られない光景だった。役を離れた役者が、自らの演技の裏話を披露し、同業だけが理解できる笑いを共有する瞬間。それは「芝居」が終わった後の、特別な時間だった。


「あれ、即興だったの?」


ラグナルが目を丸くした。彼の驚きは、マルコの演技への純粋な称賛を含んでいた。この集団の中で、ラグナルはマルコの右腕であると同時に、最大の理解者でもあるようだった。互いの演技を見極め、高め合う関係性が、二人の間には存在していた。

「ギリ出た。3秒沈黙して本気でヤバかった」


マルコの額には、思い出しただけで冷や汗が浮かぶ。それは演技者としての緊張と、詐欺師としての危機感が混じり合った表情だった。彼の芸術家としての一面を垣間見せるような、真摯な告白だった。


「ありゃ台詞というより、表情勝ちだな。顔芸だ、顔芸」


もう一人の警官役が笑いながら言った。


「絶望から悟りへの転換、見事だった。俺なんかまだまだだな」


船室の空気は、終演後の楽屋のような和やかさに満ちていた。そこには成功の喜びと、次なる冒険への期待が入り混じっていた。彼らは詐欺師でありながら、同時に芸術を愛する者たちでもあった。彼らの会話の端々には、単なる金銭欲を超えた、美学への追求が感じられた。


「ところでさあ、ねえ、この船……どうやって調達したの?」


ミリアが不意に尋ねた。その視線は、船室の上質な内装を眺めている。彼女の質問は、今回の芝居において、この船が重要な役割を果たしながら、その調達の難しさに疑問を持っていた、ということだった。


「ん? 私物だが?」


ガロがワイングラスを片手に、あっさりと答えた。彼の言葉の簡潔さとは裏腹に、その一言には船の所有者としての静かな誇りが込められていた。


「は???」


一同が驚きの声を上げる。船室の空気が一瞬凍りついたかのようだった。緻密に計画された舞台となった船が、実は集団の一員の所有物だったという事実に、誰もが驚いていた。それは演劇においては、最高の小道具が実は本物だったという種明かしに等しい驚きだった。


「お前、密輸王かよ」


マルコの声には、本物の驚きが混じっていた。彼は首謀者でありながら、自分の仲間の正体を完全には把握していなかったようだ。それはこの組織の中に、それぞれが自分の秘密を持ち寄るという、独特の関係性があることを示唆していた。


「いや、調達できる? って聞いたら『できる』っていうからさあ」


ガロは肩をすくめた。その仕草には、長年の経験から生まれる余裕と、裏社会での立ち位置への自信が表れていた。


「輸送会社やってるから、遊びみたいなもん。夜の顔と昼の顔、みんな持ってるだろ?」


ガロの言葉は、この船室に集う者たちの生き方を象徴していた。表の顔と裏の顔。社会に対する仮面と、仲間内での素顔。二つの世界を行き来する彼らの宿命が、その言葉には込められていた。


「"船持ち"設定が設定じゃないって、なんかずるいな、おい」


ラグナルが眉をひそめながらも、羨望の眼差しを向けた。彼の中には、詐欺師としての道を進みながらも、いつかは「表の世界」でも成功したいという願望があるのかもしれない。彼の言葉には、ガロへの冗談めかした羨望と、自分の立場への微妙な焦りが混じっていた。


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