第9話:港湾地区にて

朝陽がヴォルク・アルブレヒトの居室に差し込んだとき、彼は既に机に向かっていた。昨夜の「摘発」に関する報告書を丁寧に記録帳に書き記していく。その筆致には、単なる公務以上の熱が込められていた。


「摘発結果:ワイン密輸組織末端を証拠品とともに拘束、容疑者より上部組織の情報を一部入手」


彼は満足げに、その一文を眺めた。帝国の官吏として、職務を全うした清々しさがあった。だが同時に、彼の心は、記されたその文字の先にあった。


「ガロ」「垂直10本」「黒標」「蔵直」


マルコが吐いた言葉が、まるで暗号のように彼の脳裏に繰り返し蘇る。禁制ワインのなかでも最高峰に位置するという「トゥレーン黒標」。その存在は、ワイン愛好家にとっては聖杯のような存在だった。そして、その幻の銘柄が、連番で10本、確かに存在するという。


人間は知識を得ることで、新たな無知を発見する生き物だ。そして、その無知が、時に人を衝動的な行動へと駆り立てる。ヴォルク・アルブレヒトは、今まさにその瀬戸際に立っていた。


ヴォルクは筆を置き、窓辺に立った。ガイアスの早朝の街並みが、彼の目下に広がっている。帝都の建物群は、朝靄のなかに輪郭を滲ませながらも、その秩序正しい配置を崩さない。制度と権威の象徴であるこの都市は、その外観の整然さとは裏腹に、どれほどの欲望と駆け引きを内包しているのだろうか。


「これは帝国の腐敗を暴く正義の行いだ」


そう心の中で唱えながらも、彼の胸の高鳴りは明らかに別の高揚感に由来していた。公僕としての使命感と、収集家としての欲望が、妙な形で融合している。人は往々にして、自分の行動を正当化するために大義名分を求める。そして皮肉なことに、その大義名分が純粋であればあるほど、その影に隠れた本当の欲望の色は暗いのかもしれない。


彼は書斎に隣接する小さなセラーを見遣った。そこには彼が誇りとする帝国各地の銘酒が、整然と並んでいる。控えめながらも確かな自負を持てるコレクションだった。地方出身の官吏として、彼のコレクションは彼の生い立ちと境遇を象徴していた。洗練されていながらも、決して都会的な軽薄さとは無縁の、誠実な重みを持っている。だが、もしそこに「トゥレーン黒標」が加われば——。


「これは文化財保全の一環なのだ」


その言葉で自己を納得させると、ヴォルクは再び机に戻り、昨晩の取り調べメモを読み返した。ガロという名前。これこそが彼の次なる目標だった。歴史を通じて、人は幾度となく「目的のための手段」という名の危険な坂道を転げ落ちてきた。その最初の一歩は、常に「正義」や「大義」という装いを纏っている。


「室長、こちらの報告書の裏付けが必要です。個人的に調査に向かわれますか?」


エルザ・ヴェルデンは静かに問うた。その表情には、いつもの公務に対する抑制のきいた誠実さがあった。彼女の存在は、この官僚組織の中で、ある種の安定をもたらしていた。完璧な職務遂行と、人間としての尊厳を併せ持つ姿は、混沌と秩序の狭間で均衡を保つ術を心得ているかのようだった。


「ああ、私が行こう。この件は——」


ヴォルクは言いかけて詰まった。


「——微妙な内容を含むからな」


エルザは一瞬だけ視線を彼に固定させたが、すぐに事務的な様子に戻った。彼女は上司の微妙な変化を感じ取っていたのかもしれない。だが、それを問いただすことはしなかった。帝国官僚の世界では、沈黙もまた一つの意思表示である。


「承知しました。必要な準備を整えておきます」



帝国ヴェルシア港湾地区。ここは帝都ガイアスの経済動脈であり、同時に、無数の闇取引が行われる場所でもあった。公式の記録と現実の乖離が最も顕著に表れる場所、それが港であった。あらゆる帝国の歴史において、その繁栄の影には、常に密輸という闇が寄り添ってきた。富と権力の末端に群がる者たちは、制度の綻びを巧みに利用し、そこに利益という名の巣を作る。


ヴォルクはワイン商や倉庫職員など複数の関係者に個人的な聞き込みを続けたが、手がかりらしきものは得られなかった。表向きの商売人たちは、彼の官僚然とした質問に、慎重に言葉を選んだ。その態度は、彼らの世界に潜む闇の深さを、逆説的に物語っていた。


そして彼は、かつて食糧酒類流通局現場査察部に勤めていた老人を訪ねた。引退した元査察官は、若き日に幾千もの荷物を調べてきた目利きとして知られていた。この男は、制度と現実の狭間に立ち、その両方を知り尽くした数少ない存在だった。老いた目には、若き日に見た無数の商品と、それに伴う人間の欲望の記憶が刻まれているはずだった。


「……"黒標の30年代"、本当に見たことは?」


ヴォルクの声には、抑えきれない期待が混じっていた。公務員としての冷静さより、コレクターとしての熱が先に出てしまう。これは、彼の内なる変化の表れであった。人は往々にして、自分の中の小さな逸脱を、大きな大義名分で覆い隠す。そして、その自己欺瞞こそが、人を取り返しのつかない場所へと導くのだ。


老査察官は煙草をくゆらせながら、わずかに笑みを浮かべた。その笑みには、世の中の欲望を見尽くした者の諦観と、その先にある静かな達観が混在していた。


「そりゃあ……噂にはなりますけどね。実物は誰も見てない。第一、そんなもの扱える場所なんて」


老人の声には、表向きの否定と、その奥に潜む「知っているが言えない」という二重の意味が込められていた。帝国の末端で生きる者たちは、権力者に対して直接的な反抗はしない。だが、彼らなりの方法で、真実を暗示する術を心得ている。


「たとえば……"密輸の元締"がいるとしたら?」


元査察官は今度は声をあげて笑った。その笑い声には、あからさまな皮肉と、相手の無知を嘲笑う意図が込められていた。それは社会の底辺で生きる者の、上層部への密かな反抗の表れでもあった。


「室長、それ本気でおっしゃってます? そんな大物の名前、街の噂に出回るわけないでしょう?もしほんとにいたら……そりゃもう、誰も口にしませんよ」


ヴォルクはその言葉に一旦納得しそうになった。確かに理に適っている。本当の権力者は、表舞台に姿を現さない。それこそが、真の権力の在り方だった。


「……それもそう、……それはそうだよな。……ん?」


彼は少し目を細め、昨夜の記憶を辿った。人の記憶とは不思議なものである。思い出そうとすればするほど遠ざかり、別のことを考えていたときに、ふと浮かび上がってくる。


——密輸の元締。あの言葉、どこかで……


「……そういえば……ラグナルが……」


何かが引っかかる。だが今はそれを明確にすることができない。ヴォルクは老査察官に軽く頭を下げ、その場を後にした。ときに人の直感は、理性よりも正確に真実を捉えることがある。だが、その真実が何であるかを認識するまでには時間がかかる。特に、それが自分の望まない真実であれば、なおさらだ。


翌日、執務室に戻ったヴォルクは、日常業務の一環として届く匿名通報の山をかき分けていた。官僚制度において、情報は権力である。だがその情報の質こそが、真の権力の差を生み出す。彼の机の上に積まれた無数の通報の多くは、些末なことや、個人的な恨みからの虚偽の申告だった。


その中でも、彼の目を引いたのは、最近同じ筆跡で送られてくる一連の通報だった。過去数週間、その筆跡の通報は数通届いていたが、どれも取るに足らない内容のように思えたため、彼はそれほど注意を払っていなかった。しかし改めて注意深く、その通報に目を通すと、そこにこそ、求めるものがあった。


「ヴェルシア湾/13号桟橋/"ガロ"/アルセトラII号/毎週往還日(木曜日)18刻/封を切ったら、戻れない」


ヴォルクの瞳が開いた。彼が追っている「ガロ」という名前。そして具体的な場所と時間。この瞬間、彼の心の中に、「運命」という言葉が過った。


これは偶然なのか、それとも——。


人間は、偶然の一致を前にすると、そこに意味を見出したくなる生き物だ。特に、自分の欲望に沿う「偶然」は、往々にして「必然」や「運命」と解釈される。それは人間がどうしようもなく抱えてしまう、認知の歪みである。


彼の頭の中で、断片的な情報が繋がり始めた。マルコの取り調べ、老査察官の言葉、そして今回の匿名通報。すべてが一点に収束しているように思えた。


それはまるで、彼がワイン鑑定で行う"テイスティング"のようだった。個々の風味や香りは断片的だが、それらが一つの結論——一つのワインの個性へと収束していく。そして彼は今、自分の前に一つの「物語」が提示されているように感じた。


ヴォルクはメモを慎重にポケットに収め、窓外を見つめた。執務室の窓からは、遠くガイアス港が僅かに見える。アルディア帝国の繁栄を支える海の玄関口。古来より、帝国の富と権威の象徴であり、同時に、あらゆる欲望が流入する場所でもあった。


今日は火曜日。木曜日の18時——つまり明後日の夕刻。『アルセトラII号』が入港する時間だ。


彼の胸の内には、公務員としての責任感と、収集家としての欲望が同居していた。だが今の彼には、その両者の区別がつかなくなりつつあった。情熱と理性、欲望と使命、そのいずれもが、彼の心の中で融合し、新たな動機へと変容していた。


「文化財の保全」「腐敗した組織への抵抗」「本来あるべき正義」——そうした大義名分が、彼の内なる欲望を美しく装飾していくのだった。


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