第8話:拘束
帝国暦の紙面に整然と並ぶ数字と言葉——ヴォルク・アルブレヒトは、報告書を一枚、また一枚と仕上げながら、官僚としての冷静な判断と、ワイン愛好家としての情熱の間で、静かなる葛藤を抱いていた。
彼の机上に広げられた地図と資料には、これまでの全調査過程が克明に記されていた。ワインバーとしては不自然な運営形態、限られた品揃え、グラス販売へのこだわり、そして奥の間での密会——これらすべてが、法の網をかいくぐる者たちの存在を指し示していた。
「物証は明確だ」
ヴォルクはそう呟き、上司宛の報告書に最後の署名を添えた。それは彼の査察課室長としての決意表明であった。
起案:ヴォルク・アルベルヒト
対象:グレイヒル街区ヴァラン通り三本辻横上五軒
時刻:セレウス歴967年照炎月(6月)21日 21刻
方法:警備隊依頼による現行犯拘束
もちろん、ヴォルク自身の胸中に揺らぎがなかったわけではない。禁制品の密輸は明らかな違法行為である。しかし同時に、彼は帝国の規制によって失われゆく貴重な品種を守ろうとする彼らの姿勢にも、一抹の理解を示さずにはいられなかった。だがそれでも、法を預かる身として、今自分が下すべき判断は明白であった。
彼は最後の書類を堅牢な封筒に納め、帝都警備隊への協力要請と命令書を添えて発送した。これで全ての準備は整った。あとは摘発当日を待つのみである。
一方、ヴォルクの知らないところで、帝国の歯車は異なる方向へと回り始めていた。
財務省の通信室に届いた一通の文書。正規の印章が押された「訂正命令」が静かに機構の中に入り込んでいた。使者として現れた食糧酒類流通局のミリア・ロウヴェル監督官の表情は、職務に忠実な官僚のそれ以外の何者でもなかった。
「財務省査察課のロウヴェル監督官より伝達です。アルブレヒト室長のご指示で、摘発対象の取引場所が変更されたとのこと——ヴェルシア湾街区埠頭倉庫エリア四ブロック倉庫、二十一刻とのことです」
書類には、ヴォルク・アルブレヒト室長の名による指示が、帝国官僚の作法に則った完璧な書式で記されていた。
「摘発対象の取引場所がヴァラン通り→港湾区倉庫街に変更された」
この文書を最初に確認したのは、通信室の係官だった。公務員の常として、書類の形式に疑う余地はなかった。全ての捺印と署名が揃い、命令系統にも不備はない。それは日々膨大な書類が行き交う帝国官僚機構の中では、ただの一滴に過ぎなかった。
通信係は命令書の印章と署名を再確認し、いつものように一連の手続きが適正であると判断した。彼の役割は、ただ書類を正しく転送することのみである。そして警備隊へと使者が送られた。
この一連の動きは、ヴォルク・アルブレヒトの目が届かぬところで、滞りなく進行していたのである。
青い空の下、帝都警備隊の詰所では、隊員たちが静かに待機していた。そこに届いた訂正命令に、隊長は眉を寄せた。
「急な変更だが、上からの判断なら従うしかないな」
彼は無駄な疑念を捨て、部下たちに向き直った。
「指示の変更だ。集合場所はヴェルシア湾区域に変更。全員、装備を再確認して出発準備を急げ」
隊員たちは軍人らしい沈黙と迅速さで従った。彼らの動きに躊躇いは微塵もなかった。それが軍隊というものであり、また帝国という巨大な機構の歯車の宿命でもあった。命令に従う以外の選択肢など、最初から存在しなかったのである。
同日、照炎月21日の夕刻。帝都の街には夕闇が忍び寄り、石畳の上には長い影が落ちていた。
ヴォルク・アルブレヒトは、胸に常ならぬ緊張を抱えながら、ヴァラン通りに足を踏み入れた。幾度となく歩いたこの道も、今宵は異なる意味を持っている。彼はもはや一介のワイン愛好家ではなく、法の執行者として、正義の名の下に動く官吏として、この場にいたのだ。
彼は約束の時刻に合わせて現場へ向かっていたが、その道すがら、手配した警備隊の姿は見当たらなかった。
「遅れているのか?」
彼は腕時計を確認した。確かに21刻までには、今ひとときの間がある。だが、警備隊の姿は未だ見えない。彼は肩をすくめた。多忙な警備隊のことだ、しばらく待てばきっと現れるだろう。とはいえ、このまま座して待つつもりもなかった。
「まずは状況確認からだ」
ヴォルクはそう決意し、ワインバーの扉に手をかけた。
石と木の重さを感じさせる扉が開かれると、中は控えめな照明と、かすかなワインの香りに満ちていた。カウンターの奥では、マルコが、無表情でグラスを磨いている。客は三組ほど。すべて見覚えのある顔だった。静かな会話が、この小さな空間を満たしていた。
「いらっしゃい」
マルコの声には、いつもの素っ気なさがあった。だが、彼の目には何か別のものが宿っていた。用心深さか、それとも期待か。彼の瞳の奥に潜む感情は、薄暗いバーカウンターの光の中では判別し難かった。
ヴォルクはカウンターに向かった。その瞬間、店内の空気が微妙に変化したように感じられた。常連たちの会話は続いているが、どこか緊張感が漂い始めていた。彼らは何かを知っているのだろうか。あるいは、何かの予兆を感じているのだろうか。だがそれこそが、ヴォルクが予期した反応でもあった。これは彼の勘が的中した証拠だと、彼は確信を深めた。
「いつもの白か?」
マルコの問いかけに、ヴォルクは静かに首を振った。そして、ジャケットの内ポケットから査察証と命令書を取り出した。その動きには、官吏としての厳格さと、同時に演劇的な緊張感が漂っていた。
「財務省査察課室長、ヴォルク・アルブレヒトだ。禁制品取引の現行犯で、この場を押さえる」
彼の宣言とともに、店内が凍りついた。マルコの表情が一瞬だけ強張り、それから諦めたような表情へと変わった。それは敗北の色であり、隠し切れなかった者の表情であった。
「……なんのことだ? ここは単なるワインバーだが?」
その言葉には、抵抗の姿勢が含まれていた。だが、それはあまりにも弱々しく、まるで形だけの抵抗にさえ思えた。彼の態度からは、すでに観念した者の諦めが滲み出ていた。マルコはほんの一瞬目を見開いた、だがすぐに、肩を落とし、グラスをおいた。
「……ほんの小遣い稼ぎのつもりだったんだよ。まさか本省の人間が直で来るなんて、聞いてねえよ……」
ヴォルクが次の言葉を発する前に、店の扉から鈍い物音がした。扉が開き、帝国警備隊の制服を着た男たちが静かに姿を現した。彼らの動きは規律正しく、装備も完璧だった。ヴォルクは安堵の表情を浮かべた。ようやく援軍が来たのだ。
「遅かったな。だが、協力に感謝する。すでに現行犯で押さえている」
彼はそう言って、マルコたちを指差した。警備隊の隊長らしき男が無言で頷き、部下たちに指示を与えた。それは、あまりにも無駄のない、完璧な動きだった。彼らは手際よく店内の客たちを壁際に集め、マルコたちを取り押さえた。
すべてが予定通りに進んでいるように思えた。正義の執行は、このように厳格かつ迅速に行われるものなのだ。ヴォルクはマルコ以外の連行を先に済ませるよう警備隊に指示を出し、マルコへと向かう。
マルコは両手を背後で拘束され、椅子に座らされていた。彼の表情には、敗北の色が浮かんでいた。これは単なる偶然の一致ではなく、長い捜査の末の確かな証拠に基づいた摘発だったのだ。ヴォルクは彼の正面に立ち、現場尋問を始めた。
「禁制品の密輸ルートについて話せ。誰が仕切っている?」
マルコは最初、否認の姿勢を見せた。
「俺はただの仲介だ。詳しいことは知らない。俺たちも直接は会えない」
その頑なな姿勢は、やがて小出しの情報提供へと変わっていった。ヴォルクが尋問を続けるうち、彼が語る言葉には、現実を直視せざるを得なくなった者の諦めが滲んでいたかのように見えた。そして振り絞るように
「聞いた話だが……港のグラーダ・マリーナ。そこのガロってやつが取り仕切ってるらしい」
ヴォルクはその名前を心に刻んだ。「ガロ」——これが最初の具体的な手がかりだった。マルコはさらに続けた。
「どこまで本当かは知らんが、上の連中がそいつの酒で乾杯してるって噂もある」
その言葉に、ヴォルクの瞳が鋭く光った。
「上の連中? 詳しく話せ」
「前にもひとり、本省の人間が動いたらしいが、すぐ異動されたとか……よくある話さ」
マルコの小声の告白は、ヴォルクの胸に小さな火種を灯した。官僚組織の腐敗。自分が信じる正義のほころび。彼の心の中に、”汚れた組織の中で独り戦う男”という自己像が、静かに、だが確実に形づくられていった。
マルコは視線を落とし、まるで重大な秘密を明かすかのように、声を落として続けた。
「……あのガロってやつのルートに、一度だけ流れたって聞いたことがある。"トゥレーン黒標"の930年から、939年まで10本。全部揃ってたらしい」
「トゥレーン黒標の垂直?」
ヴォルクの声は思わず上ずった。その名前は、ワイン愛好家の間では、幻の名品として囁かれていたが、実際に目にした者はほとんどいなかった。それは記録にのみ残る伝説であり、実在するのかすら疑わしい逸品だった。
「垂直で10本? それは……」
「記録にない銘柄だ。封緘ラベルも公式と違う——"蔵から直接抜かれた"って話だった」
マルコの口調には、敗北の中にも、この情報の価値を理解している者の誇りが垣間見えた。
「それを全部記録帳に載せられたら……あんたが帝都で最初の証明者だな」
その言葉は、ヴォルク・アルブレヒトの心の琴線に見事に触れた。帝都で最初に記録する——ワイン愛好家として、これほどの誘惑はなかった。帝国の歴史に名を刻む機会。彼の中の官僚としての責務と、収集家としての欲望が激しく衝突した。それは、彼の理性と情熱の戦いであった。
「まあ、そんなものを押さえられるのは、お前のような本物のワイン通しかいないだろうけどな」
ヴォルクはその言葉に、わずかに頬を紅潮させた。彼の心の中で、"正義の査察官"ではなく、"文化財を保護する知識人"としての自己像が膨らみ始めていた。こう考えれば、自分の行動にも大義名分が立つ。禁制品の取締りではなく、帝国の歴史的文化財の保全——それこそが、自分がなすべきことなのではないか。
彼は警備隊の隊長に向き直り、静かに頷いた。
「改めて、容疑者らの逮捕と証拠の押収を要請する。さらなる捜査と取り調べは、後日、警備局立会いのもと、本省においても行う。追って通達を送るので、それまで容疑者らの身柄の拘束を要請する」
「承知いたしました。こちら側でも必要な手続きがございますので、実際に室長にお引渡しできるまでには少々お時間をいただきますが、通達をお待ちするよう手配いたします」
隊長は、軍人らしく実直にそうヴォルクに告げると、マルコたち容疑者を護送していった。
その夜、ヴォルク・アルブレヒトは確かな手応えを得ていた。彼の調査は実を結び、禁制品流通の一端を摘発することに成功したのだ。そして彼の前には、さらなる真実——幻のワインコレクションという誘惑が、静かに姿を現していたのである。
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