第7話:ヴァラン通りの店

その後、ヴォルクは週に一、二度の頻度で店を訪れた。注文するのはたいてい、前回と同じヴァル丘陵の白。店主マルコは顔を覚えた素振りも見せなかったが、グラスの傾け方に無駄がなくなっていく。それは、ある種の馴染みというものだった。


客の顔ぶれもほとんど変わらなかった。奥の常連たちはいつも低い声で冗談を交わし、時折ひとりで来ていた初老の男は決まって甘い赤を一杯だけ頼んで帰っていった。棚のワインも相変わらず8種類のままで、それ以上増えることもなければ、入れ替わることもない。近くの酒類店なら、少なくとも50種類は置いているというのに。


ワインの逸品は、時として田舎の小さな醸造所から産まれる——そんな格言をヴォルクは思い出していた。価格よりも造り手の情熱と技術こそが、真の価値を決める。だからこそ、ワインは単なる飲み物を超えた文化なのだ。しかし、そういった情熱の欠片もこの店では感じられなかった。


ヴォルクも余計なことは話さなかった。あえて耳を澄まし、記憶に残る言葉を探していたが、客たちは用心深く、決して話題の核心を口にしなかった。


それでも、何度か通ううちに、ある違和感が彼の中で輪郭を持ち始めた。常連客たちの"空気"が、店そのものの印象と微妙にズレているのだ。誰もが自然体を演じているようで、実際には何かを"隠す"緊張感がどこかにあった。


三度目の訪問時、ヴォルクは試しに言ってみた。


「せっかくだし、ボトル単位で購入してもいいんだけどな」


マルコは即座に首を振った。


「駄目だ。すでに言った筈だ。うちはグラスしか出さない」


その返答には、必要以上の剣呑さが含まれていた。何か疑うべき点があるとすれば、それはグラス単位でしか出さないという店の方針と、それをボトルでも提供できるほどの在庫を持っているはずだという矛盾ではないだろうか。


「在庫が揃わないから? たった8種類なのに?」


ヴォルクの問いかけに、マルコは無言で同じ白ワインを注いだ。


「うちのやり方だ。気に入らないなら他を探せ」


次の訪問時には、常連客のうち何人かがヴォルクに目配せをする様子が見られた。それは、「この男はもう安全だ」という無言のサインのようでもあり、何かへの準備の色も感じられた。客たちの間には、表面上の会話では読み取れない意思疎通が存在しているようだった。


もう何回目の訪問かすらもわからなくなり始めた、とある晩。ヴォルクがいつものようにカウンターに腰掛けると、マルコが珍しく、別のボトルを棚から取り出した。8種類のどれでもない、棚の下に置かれていた9本目のボトルだった。ラベルはないが、瓶の形状は高級ワインのそれだった。


「……いつもの白は切らしててな。代わりにこれを」


注がれたのは琥珀色の液体。香りは一段と深く、舌の上に残る酸味も丸みを帯びている。明らかに"いつもの"ではなかった。


「産地は?」


ヴォルクの問いに、マルコは曖昧に答えた。


「北の、山あいの村。名前は忘れたよ」


仕事柄、帝国流通の正規記録を目にする機会の多いヴォルクだったが、さすがに全ての産地を覚えているわけではない。とりあえず、ヴォルクは一口飲み、味を確かめた。品質は高い。香り、余韻、どれを取っても明らかに普段飲んでいるものとは違う。


「……ずいぶん贅沢な代用品だな」


マルコはそれには答えなかった。ただ、目線だけが一瞬、奥の扉のほうに向いた。それは無意識だったのか、意図的な合図だったのか。


ヴォルクは何気なく尋ねてみた。


「このワインも、ボトルで買うことはできないのかな」


マルコの表情が僅かに強張った。


「前にも言った通りだ。うちはグラスだけだ」


「そうか。残念だ」


ヴォルクはさりげなくグラスを傾けたが、その目は店内を観察していた。この夜は常連と思われる客が多く、何人かは互いに顔見知りのようだった。彼らが交わす視線には、表面上の会話とは別の意思疎通が含まれているように見えた。


ワインの世界には、常に秘密が潜んでいる。価格では測れない価値の真髄を知る者だけが、この瞬間に味わう体験の真価を理解できる。ヴォルクはそう信じていた。そして今、彼はその秘密の入り口に立っているような予感がしていた。


グラスだけにこだわる理由。北からの謎の白ワイン。常連たちの微妙な緊張感。それらのピースが、徐々に彼の中で一枚の絵を結びつつあった。


数分後、店の奥のテーブル席にいた常連の一人が席を立ち、壁の裏にある扉へと吸い込まれていった。鍵の音。木製の扉の内側には、もう一つの空間が存在している。


ヴォルクはその光景を、グラス越しに観察した。誰かが入るたびに扉は素早く閉められ、中の様子を窺い知ることはできない。だが、その入り口の前を通る客たちの表情には、明らかな期待と秘密を共有する者だけの安心感が滲んでいた。


ヴォルクはその夜、それ以上は動かなかった。帰り際、マルコは何も言わなかったが、その目には僅かな警戒心が宿っていたように感じられた。


帰路につきながら、ヴォルクは心の中でそれまでの状況を整理していた。グラス販売にこだわる理由。おそらく、それはラベルを見せないためだ。そして奥の部屋。あそこにあるのは、この表の店では提供していない何かだろう。


ワインの価値はときに血統や格付けを超えて、記録にない奇跡を生むことがある。だが同時に、希少さという幻想が生み出す虚飾もまた存在する。彼の探るべきは、本物の奇跡なのか、それとも巧妙な偽装なのか。


その日のうちに、彼は上層部への報告書を簡単にまとめ、"極秘行動としての現地再潜入"の許可を得た。


そして、再びの夜——


ヴォルクは時間をずらして来店した。店は空いていたが、奥の部屋には明かりが灯っている。常連の一人と小声で何かを確認したマルコが、ちらりとこちらを見た。


「いつもの白でいいか?」


「ああ」


グラスに注がれたワインを一口味わったヴォルクは、さりげなく問いかけた。


「この前の北の村のやつは、もう手に入らないのか?」


マルコは一瞬だけ目を細め、周囲を確認するように視線を走らせた。そして、低い声で言った。


「……中を見ていくか?」


その一言は、明らかに"招待"だった。


ヴォルクは頷き、マルコに導かれるまま奥の扉を通った。奥の空間はまるで別世界だった。表の店の質素さとは打って変わり、高級な木製棚に並ぶボトル、空調で保たれた湿度と温度。中央の円卓では、見慣れた客たちが数種のワインを試飲し、何かの記録を取っていた。


その場にいた男のひとりが、ヴォルクにグラスを差し出した。


「……ようこそ、特別な場所へ」


男はワインを注ぎながら、静かに語り始めた。


「我々は、市場から抹消された品種を求めて、帝国の規制外でワインを調達しています。このグラスの中身は……一般流通では決して手に入らないものです」


ヴォルクは一口飲み、その味わいに集中した。彼の主観では、これまで味わったことのない複雑さと深みがそこにあった。喉を通った後に残る余韻、舌の上での香りの広がり方——すべてが特別に感じられた。


彼の自称ワイン愛好家としての審美眼が、このグラスの中身が特別なものだと認識した。それが本当に希少な禁制品なのか、あるいは別のものなのかは、彼の目の前の現実だけでは判断できなかった。だが、彼の心はすでに「物語」との出会いを確信していた。


円卓上には二十本ほどのボトルが並べられ、どれも原産地のラベルが剥がされていた。その代わりに、手書きのタグがぶら下げられている。そこには「北方・山岳地帯産」「古代品種」などと記されていた。


「帝国が禁じた理由は、他のワインとの競合を恐れたからです」

男は熱を込めて説明した。


「私たちは単なるワイン愛好家ではなく、伝統と文化を守るための活動家なのです」


ヴォルクは黙って聞いていた。胸中では、官僚としての使命感と、ワイン愛好家としての好奇心が交錯する。だが、法というものを預かる身として、彼が何を選ぶべきかは明らかだった。


「理解できる」


ヴォルクは静かに頷いた。


「私も真のワインを求めているんだ」


マルコは満足げに微笑んだ。


「次回は、特別なものをお見せしよう。もっと珍しい、帝国の記録からは完全に消された品種だ」


帰り際、ヴォルクは冷静さを装いながらも、心の中では確信していた——ここには明らかな密輸行為、禁制品の取引がある。そして彼自身、ワイン愛好家として、官僚としての義務との間で揺れ動いていた。だが、この店で見聞きしたもの、そして味わったものは、間違いなく禁制品だと彼には思えた。それは彼のワイン通としての直感が告げていた。


グラスだけにこだわる理由も、品揃えの少なさも、すべて納得がいった。これは表の上ではワインバーとして営業する、密輸ワインの流通拠点だったのだ。彼は手帳に短く記した。


「禁制品の確証を得た。摘発の準備が必要」


次に取るべき行動は明白だった。彼は上司に詳細な報告を上げ、この場所の摘発を提案するつもりだった。長年のワイン愛好家として複雑な思いが交錯したが、法を守る帝国官僚として、彼の選択肢はひとつしかなかった。


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