第6話:古文書館北翼
翌日の午後四時、古文書館北翼。ここは帝国の膨大な記録を保管する迷宮のような建物の一角で、特に北翼は古い分類法による文書が眠る場所だった。埃と紙の匂いが立ち込め、訪れる者もほとんどいない。廊下の薄暗がりの中、ヴォルクは約束の記録室の前で静かに待っていた。彼の胸の内には、興奮と警戒が入り混じっていた。
足音が近づき、影からミリアの姿が現れた。彼女はいつもより緊張した面持ちで、周囲を警戒するように視線を巡らせていた。
「誰もいませんね」
「ああ、この時間帯、ここには来る者はいない」
ヴォルクは安心させるように頷いた。彼はこの場所の選択に、相手の慎重さを感じていた。
「何を聞きたいのですか? 具体的に」
ミリアの声には、いつもの事務的な調子ではなく、警戒と計算が混じっていた。
「率直に言おう。禁制酒の闇流通について知りたい」
ヴォルクの声は静かだったが、その目には揺るぎない決意が宿っていた。
「なるほど……」
ミリアはため息をついた。その反応は、彼女が意図的に作り出したものに見えた。
「ああ、追っている。……私的な興味でもあるが、職業倫理からでもあるんだ。禁制品の件だ。協力してくれないか」
ヴォルクは一歩踏み出し、彼女を見つめた。この瞬間、彼は官僚としての堅苦しさを捨て、一人の男として、彼女に訴えかけていた。
「……私は、直接の関係者ではありません」
ミリアは小さくため息をついた。それは長い抵抗の末についに折れたような演技だった。
「ただ……事情を知っている立場ではあります」
「それだけでも十分だ」
ヴォルクの声には、興奮を抑えきれない響きがあった。彼は自分の勘が的中したことに、内心で小さな勝利感を味わっていた。
ミリアは視線を落とし、声を落として言った。
「……"ヴァラン通りの地下"、聞いたことはありますか?」
「ああ、古いセラーが並んでる区域か」
ヴォルクは息を飲んだ。その区域は帝都でも歴史ある商業地区で、かつては高級酒店が軒を連ねていた場所だった。
「そこに、登録されていない営業所があります。……ただ、私の口からはこれ以上は」
ミリアの言葉は、完璧に計算された言い訳のようであった。
「……わかった。君の名は出さない。そこまで言ってくれただけでも感謝する」
ヴォルクは頷いた。彼の胸には、情報を得た満足感が広がっていた。
「助かります」
ミリアの表情には何の感情も浮かばなかった。彼女はすっと身を翻すと、来た道を静かに戻っていった。その後ろ姿には、任務を完遂した者の冷たい確信が潜んでいた。ヴォルクはしばらくその場に立ち尽くし、彼女から得た情報の重みを噛みしめていた。
その夜、グレイヒル地区のアパートメント。ヴォルクの部屋の明かりが、街の闇に小さな光を投げかけていた。机の上にはワインリストと地図が広げられ、その傍らに一冊の手帳が開かれている。ヴォルクはペンを握りしめ、熱心にメモを取っていた。
「……俺の直感は間違っていなかった」
彼は独り言ちた。その声には、誇らしげな色が滲んでいた。
「あの寡黙な監督官——情報を握っていたな。これで一端が見えてきた。ヴァラン通りの地下……」
彼は熱に浮かされたように地図のある一点を指で押さえた。ヴァラン通りの地下——そこには何があるのか。彼の探究心は、そこへと向かっていた。
「明日にでも、探りを入れに行ってみるか……」
ヴォルクは、自分の推理に満足げな笑みを浮かべていた。
*
ヴァラン通り。階段で入り組んだ、複雑な町並みにある地下区画。かつて帝都の高級飲食店が立ち並んでいた名残を残す石造りの建物群は、時代の流れとともに半ば忘れられた旧商業地帯となっていた。石畳は所々にひび割れが走り、壁の漆喰も雨と埃で黒ずんでいる。その通りの奥深く、住所番地すら曖昧になった一角に、明かりも看板もない店が佇んでいた。
入口の脇には、かつてどこかの酒商が使っていたと思しき古びたワイン樽がぽつんと置かれている。それが唯一の目印であり、それすら偶然そこに在るようにしか見えなかった。
ヴォルクは周囲を一瞥してから、躊躇なく扉に手をかけた。ワインというものは不思議な飲み物だ、と彼はよく思う。その高価さは希少さゆえであって、味わいは必ずしも価格と比例しない。安価でも舌を唸らせる逸品は存在する。だが同時に、高級品だけが持つ複雑さと余韻もまた確かに存在する。それを求める気持ちが、彼を今この場所へ連れてきたのだ。
静かなドアベルの音。中は思ったより広くもなく、天井も低い。十人も入れば満員になるだろう。だが、狭苦しい印象はなく、木目のテーブルと壁に取り付けられた棚に並んだ数本のボトルが、ひっそりと落ち着いた空気を醸していた。香りは強くないが、グラスの中にちゃんと"時間"がある、そんな匂いだった。
カウンターの奥にいたのは、無精髭を蓄えた30代前後と思しき男。白シャツの袖を無造作にまくり上げ、グラスを磨いている。こちらに気づいても、特に愛想を見せるでもなく、ただ一言だけ口を開いた。
「……いらっしゃい」
ヴォルクは無言で頷き、カウンターに腰を下ろした。他に客は二組。奥のテーブルでは中年の男たちが小声で話をしており、もう一人は手帳を読みふけっていた。店内の棚には赤ワイン4種類、白ワイン4種類、合計8本のボトルが並んでいるだけだった。ワインバーとしては極端に少ない品揃えだった。
「ワインリストはありますか?」
ヴォルクの問いに、店主は静かに首を振った。
「リストはない。バイザグラスのみだ。この8種類しか置いていない」
ワインバーとしてはあり得ない不自然さ。ヴォルクは眉をひそめた。
「なんでバイザグラスだけなんだ? 品揃えも少ないな」
「ここのやり方だ。うちはそういう店ではないからな」
店主は素っ気なく答えた。その横顔には、疑問を受け付けないという表情が固く刻まれていた。
「じゃあ、何か、おすすめは?」
ヴォルクが尋ねると、店主は少し間を置いて答えた。その間には、彼を値踏みするような冷たい視線が含まれていた。
「アレスの赤。去年のでまだ若い。少し重いが悪くない。あとはヴァル丘陵の白、酸が立ってるが——少し開かせれば落ち着く」
「……じゃあ、後者を」
店主はグラスをひとつ、カウンターの上に置いた。
「もう一回言っとくが、うちはワインをボトルで売ってない。グラスだけだ」
それは二度目の宣言だった。ヴォルクは軽く頷き、それ以上の質問はしなかった。やがて注がれた白ワインは、金属的な香りと青みを残した、若い味だった。悪くはない。だが特別でもない。
値段は一杯数百セストル。場所の割には安い。質の割にも、安かった。
ヴォルクはワインを口に含みながら、この矛盾を考えていた。ワインの世界では、時に庶民の飲む安酒が専門家を驚かせることがある。逆に、高価な銘柄が舌を裏切ることもある。だが、真に価値あるワインには必ず”語るべき物語”がある。このグラスに注がれた液体には、その物語が見当たらなかった。
カウンターに座りながら、ヴォルクは頭の片隅で思考を巡らせていた。ワインバーとは、種類と選択肢を楽しむ場所である。特にこのような隠れ家的な店は、希少なワインを売りにするのが通例だ。しかし、リストもなく、ボトル販売もなく、品揃えも極端に少ない。それは明らかに不自然だった。あり得ない店の在り方。何かの隠れ蓑なのか。それとも、別の理由があるのか。
二杯目を頼んでも、店主は多くを語らなかった。ただ黙ってグラスを拭き、注ぎ、差し出すだけ。彼はマルコと名乗った。それだけの素っ気ない自己紹介が、グラスとともに添えられた。
——何も起きない。何も語られない。
それなのに、ヴォルクの中には"わざと整えられた静けさ"がある気がしてならなかった。
そこにある不自然さと平凡の同居。美味だが特徴のないワイン、無口な接客、過不足のない空間。そして何よりも、ボトル売りを頑なに拒む姿勢と限られた品揃え。それはコストの問題なのか、それとも在庫管理の問題なのか。あるいは、何か別の理由があるのか。
ヴォルクは勘ぐるように視線を滑らせたが、何も見つけられなかった。
結局その夜、彼は二杯だけ飲み、静かに会計を済ませた。手帳には"味:ふつう、雰囲気:閉じている。情報なし。グラス売りのみ、品揃えは赤白各4種類のみ。ワインバーとしてはかなり不自然"とだけ書き残された。
だが、彼の足は、その数日後、再びこの場所へ向かっていた。
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