第5話:カフェ『青朔亭』にて
帝都の港湾地区、倉庫と事務所が並ぶ一画。税関査察所の看板を掲げた石造りの二階建て建物が、陽光を反射して輝いていた。「食糧酒類流通局現場査察部」と記された小さな表札が、脇に取り付けられている。
ヴォルクは訪問先を再確認し、建物の中へと足を踏み入れた。内部は驚くほど静かで、壁に並ぶ書類棚と事務机が整然と並んでいるものの、人の気配は薄かった。
「すみません、ロウヴェル監督官はいらっしゃいますか?」
その問いかけに、奥の小部屋から現れたのは若い書記官だった。
「ロウヴェル監督官ですか?彼女なら倉庫Cブロックの査察に出ています。あと一時間ほどで戻られる予定ですが…」
「そうか…」
ヴォルクは少し考えるそぶりを見せた。
「場所を教えてもらえないだろうか。公務で急ぎの用件があるんだ」
「もちろん。港の西側、赤い屋根の倉庫群の奥です。監督官は現場で立会査察中ですので、お名前をお伝えすれば…」
「財務省査察課のヴォルク・アルブレヒトだ。伝えてもらえるとありがたい」
彼は丁寧にお礼を言い、再び外に出た。港へと続く石畳の道を歩きながら、ヴォルクの頭には様々な思いが交錯していた。ラグナルから聞いた話、調査のために集めた断片的な情報——それらが、彼の中でようやく形になろうとしていた。
港に到着すると、赤い屋根の倉庫群がすぐに目に入った。海からの風が、彼の外套を優しく揺らす。いくつかの倉庫を過ぎると、人々が忙しく動く一角が見えてきた。酒類の樽や箱が整然と並べられ、それらを検査する数人の査察官たちの姿があった。
そして、その中心にいたのは一人の女性だった。三十代半ばと思しき、整った顔立ちだが、どこか表情を欠いた無機質な美しさを持ち、黒髪を厳格にまとめ上げている。彼女は手元の書類を確認しながら、作業員たちに指示を出していた。
「ロウヴェル監督官ですね?」
ヴォルクが声をかけると、女性は冷静に振り返った。
「はい。どちらさまでしょうか」
ミリア・ロウヴェルの声には温度も抑揚もなく、まるで人間ではなく制度そのものが言葉を発したかのようだった。
「財務省査察課のヴォルク・アルブレヒトです。資格制度の運用について確認したい点があってな。直接お話を伺えればと」
ヴォルクは職務上の名刺を差し出した。ミリアはそれを一瞥すると、手元の査察を一時中断するよう部下に指示した。
「こちらへどうぞ」
彼女は倉庫の片隅、比較的静かな場所へとヴォルクを案内した。そこには簡易的な事務スペースが設けられ、資料や書類が整然と並べられていた。
「承知しました。該当する資格区分はどちらになりますか?」
ミリアの応対は完璧に事務的で、無駄な言葉も感情も一切見られなかった。
「酒類輸入関連だ。特に、域外農産加工品の取扱資格について、A級とB級の区分の実態を知りたい」
「それでしたら、第三シリーズの許可台帳をご覧いただいたほうが早いかと思います。資格区分の運用指針は、昨年の改訂で若干変更がありましたので」
ミリアは手元の鞄から一冊の青い表紙の冊子を取り出し、関連ページを素早く開いてヴォルクに示した。その動作には無駄がなく、長年の経験が生み出した効率性が感じられた。
「なるほど。これは知らなかった」
ヴォルクは真摯に資料に目を通しながら、心中では別の思考を巡らせていた。 ——この対応、ぬかりがない。ラグナルが名前を挙げた理由は……?
「他にご質問は?」
ミリアの声が、彼の思考を現実に引き戻した。
「いや、今日のところはこれで十分だ。丁寧な説明に感謝する」
「お役に立てて何よりです」
ミリアは一礼するのみで、それ以上の感情を表に出すことはなかった。ヴォルクは頷き返すと、立ち去ろうとした。だが、一歩踏み出したところで振り返った。
「……その、資格区分の運用、実際のところはどうなんだ? 書類上と現場では、乖離があったりするものだろう?」
このわずかに踏み込んだ質問に、ミリアの表情は一瞬だけ硬化した。それは、帝国官僚の顔の下に、何か別の素顔が覗いたかのような印象だった。
「そのような質問にお答えする立場にはありません」
彼女の返答は完璧に事務的であり、それ以上の情報を得ることはできなかった。ヴォルクは軽く頷くと、港を後にした。帰路につきながら、彼は思考を整理していた。表情からは読み取れない相手だが、あの一瞬の硬直は何かを示唆していた。ラグナルが言及した「違和感」がそこにあるのかもしれない——そんな予感が、彼の探究心を刺激していた。
*
数日後、夕暮れが迫る時間帯。港湾地区の監督官詰所へと、ヴォルクは再び足を運んだ。室内には数人の職員がいたが、先日のミリア・ロウヴェルの姿はなかった。
「ロウヴェル監督官はいらっしゃいますか?」
「監督官なら埠頭の検査所におります。今日は夜遅くまで特別査察があるとか」
案内を受け、ヴォルクは港の奥へと歩を進めた。夕日に照らされた海と船の影が、赤く染まった水面に映り込んでいる。彼の腕には分厚い資料の束が抱えられていた。小さな埠頭の端、検査所として使われている木造の建物にミリアを見つけた。彼女はひとりで灯りをつけ、書類を整理していた。ノックに反応して振り返ったミリアは、一瞬だけ意外そうな表情を見せたが、すぐに無表情へと戻った。
「アルブレヒト室長、こんな時間に……」
「また伺った。今回はちょっと面倒な資料でな。君の見解を聞きたい」
ヴォルクの声には、前回よりも親しみが混じっていた。それは計算されたものなのか、それとも自然な感情の発露なのか、彼自身にも区別がつかなかった。
「お忙しいところ恐縮です」
ミリアは静かに資料を受け取った。その手の動きは洗練されており、長年文書を扱ってきた者特有の丁寧さがあった。
「拝見します……輸入酒類のラベル登録ですね。品目コードの重複が見られます」
彼女の指先が資料の一点を指し示した。その視線の鋭さには、単なる事務官ではなく、専門家としての眼力が宿っていた。
「そう、それだ」
ヴォルクは少し身を乗り出した。彼の目には、純粋な職業的関心が灯っていた。
「こういうの、資格審査の盲点だな。"ドメーヌ・ル・フュゼ"なんて、俺の地方じゃ見たこともない名前だ」
それは一見すると何気ない発言だったが、実はワインへの造詣を匂わせる意図的な言及だった。彼はミリアの反応を探るように観察していた。彼女は小さく息を吐き、視線を僅かに窓の外、海の方へと向けた。夕暮れの光の中で、彼女の横顔は何か計算するような冷たさを湛えていた。
「ええ……まあ、仕事がら、輸入品については"知りたくもない情報"を知ってしまう立場ではありますね」
その言葉には、単なる事務的な対応を超えた何かが感じられた。
「ほう……」
ヴォルクは興味深そうに眉を上げた。
「語る口ぶりじゃないが、詳しそうだな」
「知識として知っているのと、語ることは別です」
ミリアは再び無表情に戻った。その態度は、これ以上の会話を拒絶するようだった。しかし、先ほどの一瞬で、ヴォルクは確信した——この女性は単なる事務官ではない。彼女は「何か」を知っているのだ。
「わかった。詳しい説明、ありがとう」
ヴォルクはそれ以上問い詰めず、会話を切り上げた。強引な追求は逆効果になることを、長年の官僚生活で学んでいたからだ。
「お役に立てて何よりです」
ミリアの口調は完璧に事務的だった。彼女の目は何も語らず、氷のように冷たかった。
「また質問があったら、来させてもらう」
「いつでもどうぞ」
埠頭に戻ったヴォルクは、夕暮れの港を眺めながら深く息を吐いた。この感じ……何か持っているな。だが、今はまだ引き出せない。もう少し関係性を構築する必要がある——そう判断した彼は、足早に帰路についた。
*
官庁街の一角、『青朔亭』というカフェテラス。行政官たちの隠れた社交場として知られ、特に昼休みは帝国の実務を担う人々で賑わう。ヴォルクは一人でコーヒーを飲みながら、資料に目を通していた。彼にとって、こうした”見られる場所”での仕事は、自分の勤勉さをさりげなくアピールする手段でもあった。
「……これも、やはり不審だな」
彼が呟いた瞬間、視界の端に見覚えのある姿が映った。黒いジャケットに身を包み、資料鞄を抱えたミリア・ロウヴェルが、カフェの入口に立っていた。彼女は明らかにヴォルクの姿を認識し、一瞬躊躇したように見えた。
「……奇遇だな、ロウヴェル監督官」
ヴォルクは顔を上げ、軽く手を上げた。彼の表情には、意図的に作り出した「偶然の喜び」が浮かんでいた。地方出身の彼には、こうした社交辞令が若干不自然になりがちだったが、それすら彼の魅力の一部と言えた。
「アルブレヒト室長」
ミリアは軽く会釈した。
「お疲れさまです」
「よかったら座らないか? 仕事の合間の休憩だろう?」
ヴォルクの誘いは、公私の境界線上にある、微妙な社交だった。ミリアは一瞬考えるような素振りを見せたが、やがて静かに椅子を引いて座った。
「少しの間なら」
彼女の応対は依然として事務的だったが、官庁外という環境が、彼女の硬さを強調するかのようだった。
「昨日の件、少し気になっていてね」
ヴォルクはコーヒーカップを手に取りながら、さりげなく切り出した。
「あの輸入ワインの話だ。もし、君が差し支えなければ……少しだけ話せないか」
ミリアは一瞬、視線を周囲に走らせた。その動きは警戒心の表れだが、同時に、何か演技めいた計算の色も感じられた。
「アルブレヒト室長、やけにご執心のようですが……」
彼女は言葉を途中で切った。その表情からは、言おうとして止めた何かが伺えた。
「ワインに詳しいのか? いや、むしろなぜ禁制品に関心があるのか、と聞きたいのかな」
ヴォルクは軽く微笑みながら、彼女の言葉を先回りした。その様子は、自分の弱点を見せることで相手の心を開かせようとする、経験豊かな会話術だった。
「私がワインに関心があるのは単純な趣味だよ。酒そのものを味わう喜びもあるが、それを生み出す文化や歴史にも興味があってね。特に禁制になったものには、必ず"物語"がある。その物語こそが、俺にとっての真の価値なんだ」
ミリアは短い沈黙ののち、静かに言った。
「……この件、お話しするなら"場所"を選ぶべきかもしれません」
その言葉には、単なる警戒心を超えた、何かへの示唆が含まれていた。ヴォルクの胸に期待が膨らんだが、彼はそれを表情に出さないよう努めた。
「そうだな。どこがいいだろうか」
「明日、午後四時。古文書館の北翼、誰も使わない閲覧室があります。そこなら……」
彼女はそれ以上の言葉を口にせず、立ち上がった。
「失礼します。昼休みが終わります」
ミリアは軽く頭を下げると、すっと身を翻した。その後ろ姿には、何か計画を実行に移す者特有の緊張感が漂っていた。ヴォルクは彼女の去り際を見送りながら、自分の胸の高鳴りを感じていた。まるで長い探索の末に宝の地図を手に入れた冒険者のように。彼はそっと手元の手帳を開き、「明日16:00、古文書館北翼」と書き記した。
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