第4話:気配と香り
執務室の午後は、帳簿と静かな筆音が支配していた。春の陽光が高窓から斜めに差し込み、紙面に淡い光の帯を描いている。その中で二人の官吏は、黙々と数字の海を泳いでいた。
「……ああ、やっぱりこの仕入れ値、おかしいな。どう見ても二重計上だ」
ヴォルクが呟くと、その言葉を待っていたかのように、隣のラグナルがすでに補助帳を開いていた。ラグナルが着任してから二週間が経過し、仕事にも慣れた頃合いである。
「搬入日と在庫数……一致しませんね。おそらく、帳簿だけ調整されてます」
「だろ? ほら、見えてきただろ、帝都の癖ってやつが」
ヴォルクの声には、若い同僚の理解の早さに対する素直な喜びが滲んでいた。彼は普段、下世話な趣味や虚栄心を隠すように振る舞うが、仕事の場では本来の力量を見せる。それが彼の密かな誇りでもあった。
「帝都では表の帳簿と裏の帳簿、さらにその影の帳簿まであるからな。地方とは違う」
ラグナルは一瞬だけ顔を上げ、執務室の隅にある書類の束を指差した。
「この週だけで6通。貴族街、自家セラー、港の果物商、密輸の元締、前査察官……。密輸関連は特にここのところ多いですね」
ラグナルが匿名通報の書類を手に取り、それをめくりながら、やや呆れたような声を漏らした。ヴォルクは筆を止めずに言った。
「こういう手合は日常茶飯事だ。手間ばかりかけさせやがる。通報者の筆跡が似てる。"複数投稿"はたいてい怨恨だ。放っておけ」
彼は意識せずに教えるような口調になっていた。そして気づけば、二人の間に積まれた書類の山が、いつの間にか共通の城壁のように感じられていた。
「に、しても。話は戻りますが、隠蔽の仕方にも流派があるんですね」
ラグナルの返答には、適切な敬意と同時に鋭い洞察が含まれていた。その言葉選びの的確さに、ヴォルクは思わず顔を上げる。
「ほう、よく気づいたな。そうだ、流派というのは正しい。帝国官僚の世界では、不正にも作法があるわけだ」
そこまで話して、ヴォルクは少し考え込むように窓の外を見た。帝都の景色が優雅に広がる風景に、彼の思考はふと異なる方向へと向かった。
「そういえば、不正の流派といえば、ワインの世界にも似たようなものがあるんだよな。偽装ラベルの問題とか…」
ラグナルは一瞬だけ戸惑いの表情を見せたが、すぐに相手の話題の変化に対応した。
「ワイン、ですか?」
この一言が、ヴォルクのスイッチを入れるには十分だった。彼の表情が一変し、これまで帳簿と向き合っていた厳格さが消え、急に饒舌になり始めた。
「そう。特に、北州の冷涼地で採れるぶどうからは、特に繊細なワインができる。ボディは弱めだがね。でも、中には産地を偽装したワインもあってね…」
彼は引き出しから一冊の小さな手帳を取り出した。熟練した革張りで、長年の使用によって角が丸くなり、手になじんだ風格を漂わせている。
「ワイン記録帳……ですか?」
「記録ってほどでもない。味を覚えておきたくてね。銘柄と産地、それから合わせた料理をちょっとメモしてるだけさ。実はこの記録の仕方も、財務調査と同じようなものでね、パターンを見抜くコツがあるんだよ。ほら、この前のセレッソ・ベルマーレなんかは、赤身の獣肉によく合う。特に鹿肉のローストとね…いや、羊肉も悪くない。実は先月、少し高かったがコマサンド地区の肉屋で特上品を手に入れてね…」
ヴォルクの言葉は止まらなくなっていた。先ほどまでの帳簿調査の鋭い観察眼と論理性は、ワインの話題になった途端に崩れ、感情的な饒舌さへと変貌した。普段は冷静さを装う彼だが、好きな話題になると途端に早口になり、本来の地方訛りも少しずつ顔を出し始める。
彼が手帳のページをめくるたびに、思い出のワインについての解説が延々と続いていく。先ほどまで帳簿の数字を丁寧に分析していた慎重さはどこへやら、脈絡なく話題が飛び、次第に聞き手のことを忘れた一人語りへと変わっていった。
ラグナルは、その様子を見ながら適切なタイミングで頷き、時折相槌を打った。彼の反応には、先輩の熱弁に付き合う忍耐と、微妙な距離感が表れていた。
「……そういう楽しみ方ができるの、素敵だと思います。僕は、まったく詳しくなくて」
「なら、これから覚えればいいさ。知識のためじゃない、"味わう"ためにな。ちょうど帳簿調査と同じでね、表面上の見栄えより中身が大事なんだ…」
ヴォルクはふたつの趣味——帳簿調査とワイン鑑賞——を無理に結びつけながら、さらに話を広げていった。帳簿を前に並べながらも、彼の頭はすでにワインの世界に浸っていた。
「昔、地方官舎の木造食堂で、月明かりの下にひと瓶だけ開けたラクリマ・ダルザ……あれは、今でも覚えてるよ。別に高級じゃなかったけどね。香りと静けさが、完璧に合ってた。実はね、あのときは初任給をもらったばかりでね…」
彼はついには個人的な思い出話まで始め、当時の恋愛エピソードの詳細まで語り始めた。もはや目の前の帳簿も、調査の重要性も忘れ去られたかのようだった。
ラグナルは黙って聞いていた。先ほどまでの鋭い仕事ぶりからは想像できない上司の変貌ぶりを、静かに観察していた。
この瞬間、執務室の時間は止まったかのようだった。帳簿の数字が描く厳格な世界と、ワインが紡ぐ感性の世界。その狭間で、ヴォルク・アルブレヒトという男の二面性が、あからさまに露わになっていた。
執務室に、羽音のような紙の擦れる音だけが響いていた。二人は並んで帳簿を確認していたが、その手が止まることはなかった。夕暮れの光が窓から斜めに差し込み、仕事の終わりを告げるように室内を柔らかく染めていた。
ふと、ラグナルが何気ない口調で言った。それは、長時間の沈黙を破る自然な会話の始まりのようだった。
「……そういえば、このあいだ出先でちょっとした立ち話になったんですよ。珍しく、酒の話題で」
ヴォルクは帳簿から目を離さず、筆を動かしながら返した。
「ほう。フェーンくんが?」
その声には、新人が自分の趣味に共感を示した喜びが、わずかに滲んでいた。
「ええ。僕は詳しくはないですけどね。そっちが話してたもんで、適当に相槌を。たしか監督官の人で……名前、なんだったかな……ロウヴェル? そんな感じだったかと」
ラグナルの言葉には、記憶を辿るような自然な間があった。それは何の作為もない、ただの日常会話のように見えた。彼自身、この話題が上司の関心を引くとは予想していないかのようだった。
ヴォルクは、ここでようやく視線を動かした。日中の厳格さは徐々に和らぎ、夕方の疲れと共に人間味を帯びた表情になっていた。
「食糧酒類流通局のあれか?」
「たぶん。なんか資格か許可証かの監督やってるって話でした。ちょっと話しただけですが、古い銘柄っぽいこと、やけに詳しくて」
ラグナルの言葉には特別な調子はなく、むしろ自分が詳しくない話題について申し訳なさそうに報告する後輩のような響きがあった。
「官僚のくせに口が軽いのか?」
ヴォルクの質問は、わずかに皮肉を含んでいたが、その目には職業的な興味が灯っていた。
「いえ、それが逆で。むしろ何にも言わないんですよ。"そういう話題は扱いに気をつけた方がいい"とか、そんな調子で。かえって気になるじゃないですか、そういうの」
ラグナルの言葉には、好奇心旺盛な若者の素直な感想が表れていた。上司に対する信頼から、思ったことをそのまま口にしたような印象だった。彼の表情には、この話題が特別な意味を持つという意識は全く見られなかった。
ヴォルクはしばし沈黙し、再び帳簿へ視線を戻した。夕陽の中で、彼の横顔はわずかに思索的な陰影を見せていた。
「……ロウヴェル、ね」
その呟きには、単なる反芻以上のものが含まれていたが、それがどのような感情なのかは、夕暮れの薄明かりの中では判然としなかった。
ラグナルはそれ以上何も言わなかった。ただ、それだけの会話だった。彼はすでに別の資料に意識を移し、何かの数字を確認しているように見えた。
けれど、その刹那、ヴォルクの指先がわずかに止まったことに、誰も気づかなかった。それは彼自身も自覚していない、一瞬の躊躇いだった。夕暮れの光の中で、彼の思考だけが、別の場所を彷徨っていた。その名が、彼の記憶の奥底に、わずかな熱を残していった。
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