愛梨のことを信じたかった。

 愛梨が地元から帰ってきた日から。

 愛梨はよくスマホを気にするようになった。


 普段は僕とこれまで通りの恋人として過ごしている。お互い時間を作ってはデートして、お互いの家に行ったり来たりして、恋人としての時間を過ごす。

 でもそんな時間を過ごしている時に、愛梨はふとスマホを気にする素振りを見せる時があった。


 もちろんこれまでだってデート中や二人で過ごしている時にスマホを見ている時間はあった。

 でも今の愛梨のスマホの気にし方はそれとは違って、何かを待ち遠しく感じているような、こちらに知られたくないような、そんなスマホの気にし方で。


 僕の勘違いならそれでいい。あんな話をされたから僕が敏感になってるだけで、実はこれまでと何も変わってない。そんな事実なら、それが一番だ。

 でも、高校三年間愛梨を見て、二年以上恋人として過ごしてきて……それで、これが見間違いだなんて、そんなことは到底思えなかった。


 愛梨は間違いなくスマホを気にしているし、その気にしている内容を僕に知られたくないと思っている。


「最近スマホよく見てるような気がするけど……何かあるの?」


 ある時愛梨に聞いてみた。正直に言ってまともな答えが返ってくるとは思ってなかった。

 でも聞かずにはいられなかった。僕の心が――揺れていたから。


「そうかな……? そんなに見てる……?」

「僕がちょっと気になるくらいには」


 そう答えると、彼女は瞳を揺らせて、一つ息を吐いた。


「そっか……ごめんね、せっかく二人でいるのに」

「ううん、それはいいんだけど……理由が気になってさ」


 どうしてスマホを気にしているのか。その理由を僕は知りたかった。

 それが例え僕の心を締め付けるような内容だとしても、知らないよりはましだと思ったから。


「えっと……」

「……僕に言いづらいこと?」


 言い淀む愛梨に、僕の眉尻は下がってしまう。

 僕に言いづらいことなんて想像は簡単につく。


「柊から?」


 だから、端的に聞いた。

 これしか思い浮かばなかったから。


「……うん。ごめん、言い出せなくて」

「それは……僕に謝るようなやり取りをしてるってこと?」

「それは違うよ!」


 僕の問いかけに、愛梨はとっさに大きな声を出した。いきなりの愛梨の様子に、逆に僕の方がドキッとしてしまった。


「あ……ごめん、大きな声出しちゃって。でも、信じて欲しい。健太とは別に何もないの。メッセージもただ幼馴染として……その、振られた健太の話を聞いてただけで。メッセージの履歴を見せてもいいよ」


 そう言った愛梨は僕の返事を待たずにスマホのメッセージアプリを起動すると、柊とのやり取りを僕に見せてきた。

 そこには確かに彼女に振られてうじうじとしている柊と愛梨のやり取りだけがあって、浮気に見えるようなやり取りは見当たらなかった。


「ただ……その、君は私と健太のことを知ってるから。なんだか言いにくくって……」

「そっか。でも、そういうのは遠慮せずに言ってくれた方が嬉しいな」

「うん。ごめんね……?」


 シュンとした愛梨。

 僕はこんな顔を愛梨にしてほしいわけじゃない。こんな顔をさせたいわけじゃない。


 愛梨には笑顔でいて欲しいのに。愛梨を信じきれない僕の弱い心が、愛梨にこんな顔をさせているんだ。

 そう思うと、僕はとてもいたたまれない気持ちになってしまって。


「僕こそごめん」


 そう謝って、この話は終わりにした。

 愛梨を信じることを僕は選択したんだ。






 相変わらず愛梨は時々高校の時の友達と遊ぶために実家に帰ることがあった。結局帰る時に連絡をくれなかったのはあの時だけで、あれ以来愛梨は毎回ちゃんと連絡をくれた。

 一人暮らしの部屋に帰ってきた愛梨は、友達と何をしただのどう遊んだだの、いろいろな話を僕にしてくれる。それは前からそうだったから、特別何かあったわけでもなくても愛梨は楽しそうに話してくれる。


 あれ以来、柊の話が愛梨の口から出てくることは無かった。たぶん意識して話さないようにしているんだと思う。前は話の流れで柊が出てくることくらいはあったのに、今はそれすらないから。

 僕を不安にさせないように気を配ってるんだと思う。


「クリスマスイブは出かけようか」

「うん、そうだねー……何か食べに行く?」

「食べるなら予約しなきゃなぁ……」


 なんて二人でクリスマスの過ごし方の予定を決めていった。

 その時の愛梨は楽しそうで、僕は二人で過ごすクリスマスを疑っていなかった。


 それなのに。


「ごめん……ちょっと実家に帰らなきゃいけなくなって。イブの日には帰ってくると思うけど、念のためレストランはキャンセルしてもらっていいかな……?」

「外せない用事?」

「おばあちゃんが入院するみたいで、そのお見舞い」

「そっか……じゃあ仕方ないね。わかった」

「検査入院みたいなものだから、そんなに心配いらないって。だから、顔出したらすぐに戻ってくるね」


 二人で過ごす予定が崩れて残念だったけど、別に全く過ごせなくなったわけじゃない。それにおばあちゃんの入院なんて、愛梨だって心配だろう。

 だから、僕は少し残念に思いながらも愛梨を実家に送り出した。


 愛梨が実家に帰ってから、僕は愛梨へのクリスマスプレゼントを用意した。

 前に一緒に出掛けた時に、愛梨が欲しがっていたネックレスだ。ギフト用に包んでもらって、鞄に忍ばせておく。


 ネックレスを貰った愛梨が顔を綻ばせる様子を思い浮かべて、僕は頬を緩ませた。

 この時の僕は、柊のことなんて全く頭になかった。完全に浮かれていた。


『二時ごろ、駅前で待ち合わせでいいかな?』


 クリスマスイブの前日。僕は愛梨にそう連絡した。愛梨からは了解を示すスタンプが返ってきた。

 愛梨は今頃どう過ごしているだろうか。愛梨のおばあちゃんは大丈夫だろうか。明日はどんな服を着ていこうか。どんな風に過ごそうか。


 そんな風にうきうきと心を躍らせていた僕の心を、たった一つのメッセージが叩き潰した。

 心の底で僕が恐れていたことが。認めたくなかった現実を突き付けてくるかのような、そんなメッセージが。


『なあ、お前って結局大河さんと付き合ってるんだっけ?』


 それは、高校の時の友達からだった。地元の大学に進学した友達で、今もずっと実家に住んでいる。それなりに仲の良かった友人だったけど、住んでいる場所が離れてしまってからはほとんどやり取りをしていなかった。

 僕と愛梨が付き合い始めたのは卒業式の日からだったから、高校の時の友達でもそのことを知らない人もいる。


『そうだよ。今も付き合ってるけど』

『そうなのか……? 今日街歩いてたら大河さんと柊が一緒に歩いてたから、とうとうあいつらくっついたのかと思ったけど違うのか』


 愛梨と柊が一緒にいる……?

 なんだ、それ。僕はそんな話、愛梨から一言も聞いてない。


『たまたま一緒に歩いてただけでしょ』

『お前と付き合ってるならそうかもな。すまんな、こんなことで連絡して』

『いや、いいよ。ありがとう』


 そうだ。たまたま会って、たまたま一緒に歩いてただけだ。そうに決まってる。

 愛梨は別に柊に会いに地元に帰ったわけじゃないんだから。ただおばあちゃんのお見舞いに戻っただけで……。


 ――本当に? 本当にそうなのか?

 これまで地元に戻ってたのも、本当は柊に会いに行ってたんじゃないのか?


 愛梨は小さい頃からずっと柊のことが好きだった。柊に彼女ができたってその気持ちは変わらなかった。

 僕は知っている。報われないかもしれないのに、ずっと同じ人を好きでい続ける辛さを。しんどさを。息苦しさを。それでも想わずにはいられない胸の熱さを。


 愛梨は一旦は諦めたのかもしれない。そうして僕を選んでくれたのかもしれない。でも、長年の想いが叶うかもしれないチャンスが目の前に転がってきたら? 彼女と別れて、傷心中のかつての想い人が目の前にいたら?

 自分を頼って、弱さを曝け出しているその相手が、手の届くところにいたとしたら?


 愛梨の心はどう動くのだろうか。柊に心が揺り動かされるんじゃないのか。そしてそんな愛梨を見た柊は、いったい何を考えて、どう思って、どんな行動をするんだろう。

 その時、僕は……。


 僕は愛梨に電話した。もう深夜を回った頃だった。いつもの愛梨なら寝ている時間で、愛梨は一度寝るとなかなか起きない人だった。

 だから、電話に出なくても仕方ない。愛梨は寝てるんだから、電話に出れるわけがない。


 そう頭では考えているのに、体は勝手に行動していて。

 でも、案の定愛梨は電話に出なかった。


 僕は心の中で安堵した。実際に安堵のため息だって吐いた。

 愛梨は寝てるんだから、電話に出なくて当たり前だ。そうに決まってる。


 ……そもそも、愛梨を疑うなんて。愛梨を信じようって決めたのに。僕の心はこんなにも弱いままだ。

 今だって安堵したはずなのに、胸が締め付けられて、胃がキリキリと痛む。


 ――寝よう。さっさと寝て、体調を整えよう。


 体の不調を体調が悪いせいにして、僕は無理やりベッドに入って目を閉じた。

 もちろん――眠ることなんてほとんどできなかった。






『電話に出れなくてごめん。寝てた』


 翌朝、愛梨からそんなメッセージが届いた。

 そのメッセージを僕は無理やり胸に落とし込んで、出かける準備を始めた。


 まったく眠れなくて体がけだるくて、今はもう昼前だった。今から準備して出かければ、待ち合わせの時間くらいに駅前に着く。

 お昼ご飯は食べる気にはならなかった。今は何も喉を通る気がしない。だから、僕は水だけを飲んで家を出た。


 愛梨は普段、電話には電話で返してくることが多い。もちろん絶対じゃないからメッセージで返してくることもある。今回はたまたまメッセージで返す日だったってだけだろう。

 だから僕は、湧き上がった思いを飲み込んで、たどり着いた駅前のベンチに腰を掛けた。


 時刻はもうすぐ午後の二時で、愛梨との待ち合わせの時間だ。

 愛梨と合流したら、一度家に帰って荷物を置いて、それから二人で出かけよう。まだ気が早いけどプレゼントも持ってきた。僕の準備は万端だ。


 愛梨、早く来てくれないかな――






 街ゆく人々を眺める。駅前の広場のベンチに座って、凍り付いた手に息を吐いた。

 傍らには彼女のために用意したプレゼントがある。たぶん、もう出番のないプレゼントだ。


 待ち合わせの時間はとっくに過ぎていた。日は落ちて暗くなって、色とりどりのイルミネーションが街を照らしていた。

 恋人たちが一緒の夜を過ごし、更にお互いの仲を深め合う。そんなクリスマスイブの日に、僕はここに一人。これが答えだった。


 僕が愛梨と恋人として過ごした三年弱。愛梨が柊と過ごした十数年。

 愛梨と過ごすクリスマスに浮かれていた僕に、突き付けられた答え。


 愛梨から連絡は無かった。愛梨に連絡をしたけど繋がらなかった。

 駅から出てくる人を眺めても、愛梨はいつまで経っても出てこなかった。


 愛梨は今どこで何をしているのだろうか。僕のいない場所で、誰と何をしているのだろうか。

 ――ああ、一言でもいいから連絡が欲しかった、かな。そうしたら僕も諦めがついたのに。


 僕と過ごすはずだった今日という日に、柊と過ごす愛梨を思い浮かべる。胸の奥に澱みが溜まって、何も入っていないはずの胃がキリキリと悲鳴を上げた。

 愛梨のことを信じていた。愛梨のことを信じたかった。いや、今でも……それでも、愛梨のことを信じている僕が、心の底にいる。


 でも、ここに愛梨はいない。それが現実だった。


「……いい加減、帰るか」


 誰にも聞こえない声で、ポツリと呟いた。

 体はすっかりと凍え切っていて、油の切れたブリキのロボットのような動きで立ち上がった。


「ああ……一応持って帰るか」


 傍らに転がっていたプレゼントを拾い上げる。もう彼女に渡すことがないかもしれないプレゼント。

 彼女の喜ぶ顔を想像して用意したそれを見るのが、今は無性に悲しく思えた。


 歩き始める。朝から何も食べていないせいで力が入らない。体が芯から冷え切っていて、動かし方を忘れてしまったかのような動きしかできない。

 それが何だか殊更に惨めに思えて、流れそうになる涙をこらえるために空を見上げた。


 イルミネーションに照らされて煌々と輝く空では、星明りは見ることができなかった。明かりがあるはずなのに真っ暗な空は、まるで僕の心を吸い込んでいくみたいで。

 足元もおぼつかないのに、空なんて見上げるからいけなかったんだ。そんなことをしたら体勢を崩すなんて、ちょっと考えればわかることだ。


 だから、これは僕の自業自得だ。

 ふらついて、体勢を崩して、車道に飛び出てしまうなんて。


 耳をつんざくように鳴り響くクラクションの音。

 視界を真っ白に染め上げるLEDヘッドランプの光。


「いやあぁああぁあぁあ――――!!」


 そして――どこからか聞こえる、僕の愛しい人の叫び声。

 それが、僕のクリスマスイブの最後の記憶だった――――

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