それでも、僕は彼女を信じようと思う。

※元々二話で終わる予定だったものなので、人によってはこの話は蛇足です。










 目を覚ますと、真っ白な知らない天井が視界いっぱいに広がった。視線を少しずらすと淡い色のカーテンが視界の端に映った。

 全身に感じる柔らかな感触。どうやらベッドに寝かされていたらしい。


「……おはよう」


 ふと右横からそんな挨拶が聞こえた。弱弱しくて、震えていて……僕の知っている声なのに、なんだか知らない声のような。

 いつもは明るいはずの僕の好きな人の声が、今は儚く消えてしまいそうな声音だった。


「愛梨……」


 首を右に向ける。ボブカットの綺麗な黒髪と、可愛らしい大きく丸い瞳。いつもは桜色で瑞々しいはずの唇は、少し乾燥していて。

 クリーム色のタートルネックのセーターに身を包んだ愛梨が、泣きそうな顔で僕を見つめていた。


「よかった……」

「……」


 愛梨が安堵の声を漏らす。僕は状況が掴めなくて、無言の返事を返した。


「昨日のこと、覚えてる?」

「昨日のこと……」


 愛梨に問われて、僕は頭の中で昨日のことを振り返る。

 昨日は、確か……クリスマスイブで、愛梨と出かける約束をしていて。それなのに愛梨が待ち合わせに来なくて……それで。


「ここ……病院?」

「うん。私たちの家の近くの病院。昨日、君が倒れちゃったから救急車で運んでもらったの」

「……車に引かれたんじゃなかったんだ」

「近くにいた人がとっさに引っ張ってくれて、それで……でも、君が気を失ってたから、近くの人に救急車を呼んでもらって」


 僕が体勢を崩して車の前に出てしまったとき。その時に聞こえた愛梨の叫び声は、気のせいじゃなかったのか。


「疲労で気を失ってるだけだって。病院の先生が」

「そっか……ごめんね」


 そう謝罪の言葉を口にしながら、僕は体を起こした。特に痛いところもなくて、たくさん寝たからか体の不調もだいぶ良くなった気がした。


「謝るのは私の方だよ! 連絡できなくて……ごめんなさい」


 元々泣きそうな顔をしていたのに、謝罪の言葉を口にした愛梨はぽろぽろと涙をこぼし始めた。

 それは僕が初めて見た愛梨の泣き顔だった。


「……どうして」


 どうして、連絡をくれなかったのか。どうして僕の連絡に出てくれなかったのか。

 その時間いったい何をしていたのか。実家に帰ってどう過ごしていたのか。


 いや、本当は……実家に何をしに帰っていたのか。


「約束してたのに、どうして連絡くれなかったの?」


 怒っているわけではなかった。ただ事実を確認したくて、淡々とした口調で尋ねた。

 僕の問いかけに愛梨はカバンからスマホを取り出して、僕に差し出してきた。


「ごめん……スマホ、急に電源入らなくなっちゃって……。いっつもメッセージアプリでやり取りしてたから、電話番号とか全然覚えてなくて……それで」


 愛梨のスマホを手に取って電源ボタンに触れる。確かにうんともすんとも言わなくて、画面は真っ暗なままだった。

 まぁ……愛梨のスマホは新しい機種でもないし、こういうこともあるんだろう。僕も買ったばかりのスマホがいきなり電源が落ちて焦ったことがある。


 電話番号に関しては僕も似たようなものだ。自分と実家のくらいは覚えてるけど、人の電話番号なんてほとんど覚えていない。メッセージアプリでのやり取りか、そうでなくてもスマホの連絡帖から目的の人を探して発信するだけだ。


「そっか。でも、待ち合わせ時間に間に合わなかったのはなんで?」


 愛梨にスマホを返しながら尋ねた。

 結局、問題はそこなんだ。


 愛梨が地元で柊と一緒に歩いているのを見た人がいる。愛梨が僕と約束していた時間に来なかった。

 それが僕にとっての事実だった。


 そのことが、また僕の心にのしかかる。

 だから僕は自分の心をごまかすように、愛梨の返事を待たずに言葉を続けた。


「一昨日さ、僕の地元の友達が愛梨と柊が一緒に歩いてたって僕に連絡をくれたんだ。……ほんと?」

「……うん」


 愛梨は静かに頷いた。

 僕の心に一つ、ヒビが入った気がした。


「……おばあちゃんのお見舞いで地元に帰ったんだよね?」

「そうだよ。……君からしたら、信じられないかもしれないけど……健太とはたまたま会っただけ」

「前も同じこと言ってたね。柊が振られた時だっけ」

「そうだね……こんなの信じられないよね……ごめんね……」


 愛梨は泣きながら、それでも僕から目を逸らさなかった。


「……柊と、どんな話をしたの?」


 ――結局、僕が聞きたかったのはこれなのだ。

 柊とどんな話をしたのか。柊とどう過ごしたのか。愛梨は何を思って、何を考えているのか。


 僕と愛梨の関係は、どうなるのか。


「……私さ。君も知ってると思うけど、小さな頃からずっと健太のことが好きだったの」


 僕の問いかけに愛梨は答えず、そんな話を始めた。その声は静かで、でもはっきりとしていて……たぶん、愛梨の心の内を話してくれるのだろう。そう思わせてくれる声音だった。


「でも健太にはずっと好きな人がいて、その人と恋人になってて……それなのに私は諦めきれなくて、高校生の頃までずっと健太のことばっかり追っかけてた」

「うん」

「でも、そんな私に君はたくさん話しかけてくれて、何度も告白してくれて……最初は本当にただの友達としか思ってなかったのに、いつの間にか君のことが気になってる私がいたの」


 愛梨は僕の右手をぎゅっと両手で握ってきた。


「高校の卒業式の日に、君が告白してくれて……君の眼が、これで最後だって私に訴えかけてきてて、それで私、急に胸がぎゅっと握りつぶされるような感じがして、君と会えなくなるのがすごく寂しくなって……その時ようやく、君のことを好きになってたって気づいたの」

「だからOKしてくれたんだ」

「うん。照れくさくて、あんな感じになっちゃったけど……。でも、君のことが好きなのは本当なんだ」


 高校の最後の日。僕と愛梨が恋人になった日。今でも僕の心の中で輝いている。


「君と一緒になって、私毎日楽しかった。なんでもっと早く君の告白を受け入れて、一緒の大学に行かなかったんだって後悔したくらい。一緒の大学なら毎日ずっと一緒にいられたのにって」

「それなら、柊の話は……」


 柊が別れたって愛梨が知ったあの日。あの日から愛梨は明らかに柊を意識して……最近はそうでもなかったけど、結局地元でも会ってて。


「健太が別れたって聞いたときはね、ショックを受けたのは本当なの。ずっと好きで、諦めていた健太が……って」

「じゃあ、やっぱり」


 そのことを聞くのは怖かった。聞いてしまったらそれが本当のことになってしまって、僕たちの関係が崩れてしまうと思っていたから。

 だから僕は彼女を信じるふりをして、ずっとずっと見ないようにしてきたんだ。必死に目を逸らして、気にしないふりをして。


 でも……やっぱり、心のどこかで苦しく思っている自分がいて。

 だから、ここではっきりさせた方がいいんだ。


「愛梨は、今でも――柊のことが好きなの?」


 震えていたかもしれない。いや、震えていたんだ。僕の声も。瞳も。気持ちも。愛梨への信頼も。

 全部が震えて、揺らいで、まっすぐに見えなくて……。


 そんな僕を愛梨はしっかりと見据えた。涙はもう流れていなかった。


「――ううん、好きじゃないよ。私が好きなのは君だけ。健太のことは……本当に何とも思ってないの」


 僕の手を握る愛梨の両手に、力が籠った。


「ショックを受けたのはね、健太が別れたって聞いたときに、自分でもびっくりするくらい……本当にびっくりするくらい、何とも思わなかったから。あれだけずっと好きだったはずなのに、私の今まで生きてきた中でずっと好きだったはずなのに――『そっか』って。本当にそれだけ。それだけしか思わなくて」


 震えていた僕とは違って、愛梨は震えていなかった。


「そんな私自身がショックで……私の好きって気持ちって何だったんだろうって……。健太からメッセージが届いても、高校生の時までみたいな気持ちに全然ならなくて、そんな気持ちにならないってことを何度も何度も確かめてた」

「あの時のメッセージ?」

「そう。だから、いつしか健太への返信も最低限しかしなくなって、健太への想いも単に『幼馴染』ってことしか残ってなかった。君への想いと健太への想いは、全然別物になってたんだ」


 いや……愛梨は、震えていないように見えて、その実一生懸命に自分を奮い立たせているだけだった。

 握られている手から、愛梨の心の震えが伝わってくる。


「だから、約束をすっぽかしちゃった私が言っても信じてもらえないかもしれないけど……一昨日、健太に会ったのは本当に偶然なの。健太が地元に帰ってるなんて知らなかった。おばあちゃんのお見舞いに行った帰りに、たまたま会って声をかけられて、それで一緒に歩いてた」

「……うん」

「小さい頃の思い出とか話しながら歩いてたら、昔よく遊んだ近所の公園の前を通りかかって、それで健太が『ちょっと寄って行こうよ』って言ったから、公園に寄ったの」

「……うん」

「そしたら……そしたらさ」


 それまで自分を奮い立たせて喋っていた愛梨が、初めてそこで言い淀んだ。

 眉間にしわを寄せて、全身に力が入って……だから、僕は空いている左手で愛梨の背中を撫でてあげた。


 体の力を抜くように。続きが話せるように。

 そうして少しした後、愛梨は続きをしゃべり始めた。


「健太が……私に告白してきて。『彼氏と別れて、俺と一緒になってくれないか?』なんて言ってきて……私、それ聞いて頭真っ白になっちゃって。今更何を言ってるんだって。私の彼氏をなんだと思ってるんだって」

「うん」

「確かに私は健太のことが好きだったよ? 健太もそのことは知ってた。でも、今はそうじゃないの。全然違うの。それなのに、そんなこと……気づいたら私、思いっきり健太の頬をひっぱたいてた。『馬鹿にしないで!』って叫んで、健太を置いて一人で家に帰って……」


 ……愛梨が、本当のことを喋っているかはわからない。確かめようがない。僕が実際にその場面を見ていたわけじゃないから。

 愛梨の言葉だけだ。それ以外、何も証拠はない。僕は柊の連絡先なんて知らないし、仮に愛梨が嘘を吐いていたとしたら柊だって嘘を吐くだろう。


 でも……僕は。


「なんだか涙が出てきちゃって、ぐずぐずになりながら寝て起きたら……声がガラガラで、熱もあって……だから、電話じゃなくてメッセージで返信した後、病院に行ったの。お薬貰って、体調整えて、君と出かけたいと思って。でも、地元の病院がどれだけ待つかってすっかり忘れてて。受付した後、すっごい待たされるってわかって、君に連絡しようとしたらスマホが壊れちゃってて」


 これは言い訳だ。僕に対してのただの言い訳で、本当は別のことをしていたんだ。

 そう一蹴してしまうことは簡単だ。一言「嘘だ」って言ってしまえばいい。


「ずっと待っててくれたんだよね……? ごめんね……。不安にさせてごめんね。ダメな彼女でごめんね」


 でも……僕は決めたじゃないか。

 彼女を信じるって。たとえそれが柊のことから目を逸らすためだったとしても、彼女を信じるって、愛梨を信じるって決めたのは僕自身なんだ。


 だから、僕は愛梨を信じよう。

 愛梨の話を信じよう。


「ううん……それならいいんだ。愛梨に何かあったわけじゃなくて。愛梨が僕のところに来てくれて。それなら、それでいいんだ」


 それに……馬鹿なのは僕も同じだったから。

 不安だったならさっさと愛梨に気持ちを聞けばよかったのに。そしたら、愛梨にこんな思いをさせずに済んだのに。


「愛梨から連絡が来なくて、こっちからも繋がらなくて、僕も頭が回ってなかった。待つにしたって別にずっと外のベンチにいる必要なんてないのにね。近くのお店に入るなりして、あったまればよかったんだ。そうすればこんなところで愛梨に心配かけさせなくて済んだのにね?」

「私だって約束すっぽかされたら、同じようなことしてたと思うし……」

「じゃあ、似た者同士だ」

「……ばか」


 愛梨の背中を撫でていた左手に力を込めて、愛梨を抱き寄せる。愛梨も僕の手を離して、僕を抱きしめ返してくれた。

 本当のことは、何もわからない。愛梨が話したこと全部が本当のことかもしれないし、そうじゃないかもしれない。


 でも、僕にはもう関係ない。今愛梨がここにいてくれている。僕を選んでくれている。

 それが全てだ。唯一僕がわかる本当のことなんだ。


 だから、この本当のことを、これからもずっと大切にしていこう。これからもすれ違うこともあるかもしれないし、お互い話しづらいことがあるかもしれない。喧嘩もするし、呆れることだってあるだろう。

 それでも、僕は彼女を信じようと思う。僕が彼女のことを好きでいる限り。彼女が僕を好きでいてくれる限り。


「病院から出たら、愛梨のスマホを買い替えに行こうか」

「うん。ありがと」

「それと、家に帰ったらお説教だね……お互いに」

「……うん。そうだね」


 そこで、僕が目を覚ましてから初めて愛梨が微笑んだ。

 どうやら――愛梨のために用意したプレゼントは、無駄にならなくて済みそうだ。

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