第八章 砕けた理想と灰色の夜明け
強烈な音と光、そしてむせ返るような夜香花の香りが、私の思考を麻痺させようとする。だが、ここで意識を手放すわけにはいかない。私はポケットから小さな金属製のケースを取り出し、中に入っていた特殊な樹脂で作られた耳栓を奥までねじ込んだ。これは、「楽園」で聴覚訓練と称して聞かされた、精神を不安定にさせる特定の周波数帯の音を遮断するために自作したものだ。
さらに、懐から乾燥させた数種類のハーブを混ぜた小袋を取り出し、ライターで火をつけた。チリチリと音を立てて燃え始めたハーブからは、夜香花の甘い香りとは異なる、清涼感のある刺激臭が立ち上る。これは、ある種の毒草の中和剤として使われるもので、精神安定作用もある。完璧ではないが、多少はマシになるはずだ。
「無駄な抵抗はやめなさい、小夜ちゃん」雨宮は、私のささやかな抵抗を嘲笑うかのように言った。「あなたも、旧い世界の呪縛から解き放たれるべきなのよ。私と共に、新たな宇宙の意思と繋がり、選ばれた魂として覚醒するの」
彼女の言葉は、もはや常軌を逸していた。「古き神々」とは、彼女が独自に解釈し、コンタクトを取ったと信じている高次元の存在であり、「魂の収穫」とは、その存在をこの世界に降臨させ、人類の意識を強制的に進化させるための儀式なのだという。その歪んだ理想は、かつて「楽園」で彼女が語っていた選民思想の、究極的な発露だった。
「あなたの言う『進化』とは、結局のところ、あなた自身の支配欲を満たすためのものでしょう? 雨宮先生、あなたはただ、他人を自分の思い通りにしたいだけだ」
「理解できないのね、可哀想に。でも、もうすぐ分かるわ。この儀式が成就すれば、全ての魂は一つになり、私の導きのもと、真の調和を得るのだから!」
雨宮が両手を天に掲げると、祭壇の金属円盤の回転がさらに速まり、ドーム全体が不気味な光に包まれた。信者たちの詠唱は狂信的な絶叫へと変わり、もはや人間の声とは思えないおぞましい響きを発している。
その時だった。天文台の下の方から、けたたましい警報音と、何かが爆発するような轟音が響き渡った。続いて、溝呂木さんの怒声と、信者たちの悲鳴が混じり合って聞こえてくる。
「何事です!」雨宮が眉をひそめた。
溝呂木さんが、派手に陽動を仕掛けてくれているらしい。この機を逃す手はない。
私は最後の力を振り絞り、祭壇へと駆け寄った。雨宮が驚愕の表情で私を見ている。
「邪魔はさせないわ!」
雨宮が手をかざすと、見えない力の壁のようなものが私の行く手を阻んだ。だが、私は構わず、懐から小さなガラス瓶を取り出し、祭壇の金属円盤に向かって力任せに投げつけた。
ガシャン!という音と共に瓶は砕け散り、中から粘性の高い液体が円盤の表面に飛び散った。それは、私が以前、夜香花の塗料を分析した際に特定した、ある種の有機溶剤だった。夜香花の成分を分解し、その効能を急速に中和する効果がある。そして何より、あの円盤に刻まれた微細な回路――おそらくはエネルギーを集約するためのもの――を腐食させ、ショートさせるはずだ。
「なっ……!」
雨宮の顔が驚愕に歪む。金属円盤は、火花を散らしながら不規則な回転を始め、やがて、耳障りな金属音と共に、その動きを完全に止めた。同時に、ドーム内に充満していた夜香花の濃厚な香りが急速に薄れ始め、信者たちの狂乱の詠唱も、次第に力を失っていく。
儀式の要が、破壊されたのだ。
「そんな……私の『計画』が……こんな……!」
雨宮は、崩れ落ちるように祭壇の前に膝をついた。その顔には、もはや狂信的な光はなく、ただ深い絶望の色が浮かんでいる。
直後、天文台のドームの天井の一部が大きな音を立てて崩落し、月蝕の赤い光が、まるでスポットライトのように雨宮の姿を照らし出した。暴走しかけたエネルギーの逆流か、あるいは溝呂木さんの陽動が予想以上の効果を上げたのか。
「先生! 危険です!」
数人の信者が雨宮を助け起こそうと駆け寄るが、彼女は虚ろな目で宙を見つめたまま、動こうとしない。
私は、これ以上ここに留まるのは危険だと判断し、崩れた壁の隙間から外部へと脱出した。外では、溝呂木さんが駆けつけた警察官に取り押さえられそうになっていたが、天文台の異変に気づいた警官たちが、次々と内部へと突入していくのが見えた。
翌朝、街は昨夜の騒動が嘘のように、静かな朝を迎えていた。テレビのニュースは、カルト教団による大規模な集団自殺未遂事件として、御影中央公園での出来事をセンセーショナルに報じている。雨宮と主要な信者たちは警察に拘束されたが、多くの信者は混乱の中で逃走し、行方は分かっていないという。そして、雨宮は取り調べに対し、一切口を閉ざしているとのことだった。
「魂の収穫」の儀式は、間一髪で阻止された。だが、この街に刻まれた見えない傷跡は、そう簡単には消えないだろう。そして、雨宮の背後にいたかもしれない「何か」や、「計画」の全貌も、闇の中に葬られたままだ。
数日後、私は溝呂木さんの事務所を訪れた。彼は、警察から厳重注意を受けただけで解放されたらしい。
「……もう二度と、こんな厄介事に関わるのはゴメンだぜ」溝呂木さんは、心底うんざりした顔で言った。「だがまあ、今回は少しだけ、昔の借りを返せたような気もする」
彼はそう言うと、一枚の汚れた名刺を私に差し出した。「何か、また『面白いこと』があったら、連絡くらいはしてやってもいい」
その言葉は、彼なりの不器用な感謝の印なのかもしれない。
私はその名刺を受け取り、小さく頷いた。日常は戻ってきた。だが、それは決して、以前と同じ日常ではない。私の心の中には、あの煤けた街の片隅で感じたものとは異なる、新たな種類の好奇心と、そして微かな不安が芽生え始めていた。
アパートの窓を開けると、乾いた風が吹き込んできた。ふと、窓枠に、一枚の羽根が置かれているのに気づいた。それは、以前見た黒い羽根ではなかった。深い瑠璃色をした、見たこともない鳥の羽根。そして、その羽根からは、夜香花とは異なる、どこか清涼で、それでいて心を落ち着かせるような、不思議な香りが微かに漂っていた。
これは、一体……?
私の新たな日常は、どうやら、まだ始まったばかりのようだ。
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