第七章 月蝕下の天文台と狂信の渦

月蝕の夜まで、あと二日。私と溝呂木さんは、昼間のうちに御影中央公園の古い天文台跡地へと向かった。表向きは廃墟巡りの好事家を装い、内部の構造や周囲の地形を頭に叩き込む。


天文台は小高い丘の上にあり、ドーム状の屋根が特徴的だった。壁は蔦に覆われ、窓ガラスはほとんどが割れている。しかし、内部には巨大な望遠鏡の残骸や、複雑な観測機器が埃を被ったまま残されており、それらが儀式のための祭壇や装置として利用される可能性は高かった。


「連中は、おそらくこのドームの頂点、月蝕の光が最も強く降り注ぐ場所で儀式を行うだろうな」溝呂木さんは、ドームを見上げながら言った。「問題は、どうやって儀式を止めるかだ。正面から乗り込んでも、数の上で不利なのは明らかだ」


「物理的な破壊が目的なら、それも一つの手でしょう。ですが、彼らの『計画』の核心は、おそらくもっと別のところにあります」私は、夜香花の特性と、これまで観察してきた彼らの行動パターンを説明した。「彼らは、夜香花の香りと特定の音響、そして視覚的な刺激(おそらくはあの落書きの図形)を組み合わせることで、集団的なトランス状態を引き起こし、精神エネルギーを操作しようとしている。ならば、その連鎖を断ち切ることが重要です」


作戦はこうだ。溝呂木さんが陽動として、天文台の周囲で騒ぎを起こし、警備の目を引きつける。その隙に、私が天文台内部に潜入し、儀式の中枢――おそらくは夜香花を散布する装置か、エネルギーを集めるための何らかの機械――を無力化する。危険な賭けだが、他に有効な手段は思いつかなかった。


儀式の日が近づくにつれ、街の雰囲気は明らかに異様なものへと変わっていった。これまでとは異なる、より複雑な模様の落書きが、街の主要な交差点や広場に次々と出現する。そして、風に乗って、どこからともなく夜香花の甘ったるい香りが漂ってくるようになった。


ニュースでは、原因不明の体調不良を訴える人々が急増していることや、繁華街で突発的な集団パニックが発生したことなどが報じられていた。偶然とは思えない。彼らの「準備」は、着実に進んでいるのだ。


そして、私の脳裏には、かつての「楽園」での雨宮の記憶が、断片的に蘇るようになっていた。


『この世界は、旧い殻に囚われすぎているのよ』


白衣を纏い、薄暗い研究室で薬草を調合しながら、雨宮はうっとりとした表情で語っていた。


『真の浄化と再生のためには、一度、全ての魂を解き放ち、大いなる流れに還す必要がある。それが、古き神々の意思であり、私たちが果たすべき使命なの』


彼女の瞳は、狂信的な光に満ちていた。当時、幼かった私は、その言葉の意味を完全には理解できなかった。だが、今なら分かる。彼女は、壮大なスケールの「魂の収穫」を本気で実行しようとしていたのだ。「楽園」はそのための実験場であり、私たちはモルモットに過ぎなかったのかもしれない。


月蝕の夜。空には、赤黒く染まった不気味な月が浮かんでいる。私と溝呂木さんは、黒い衣服に身を包み、御影中央公園の暗闇に紛れて天文台跡地へと近づいた。


天文台の周囲は、予想通り、黒装束の信者たちによって厳重に警備されていた。彼らは手に手に松明や鈍器を持ち、殺気立った雰囲気を漂わせている。


「……まるで、カルト映画のワンシーンだな」溝呂木さんが、苦々しげに呟いた。


合図と共に、溝呂木さんが行動を開始した。彼は、天文台の裏手にある変電設備に発煙筒を投げ込み、大きな音を立てて爆発させた。警備の信者たちが、一斉にそちらへ注意を向ける。


「今だ!」


私はその隙に、あらかじめ調べておいた警備の薄い壁の亀裂から、天文台の内部へと滑り込んだ。内部は薄暗く、カビ臭い空気と、濃厚な夜香花の香りが充満している。ドームの頂上からは、月蝕の不気味な光が差し込み、中央に設えられた巨大な祭壇を照らし出していた。


祭壇の上には、複雑な模様が刻まれた金属製の円盤が置かれ、その周囲には、無数の夜香花がまるで生きているかのように咲き乱れている。そして、その祭壇の前に、一人の人物が静かに立っていた。


黒いシルクのローブを纏い、顔はフードで隠れているが、その立ち姿、漂わせる雰囲気は、間違いなく雨宮だった。


「……やはり、あなただったのですね。雨宮先生」


私の声に、雨宮はゆっくりと振り返った。フードの奥から、かつてと変わらない、しかし今は狂気に染まった瞳が私を見据える。


「あら、小夜ちゃん。よくここまで辿り着いたわね。でも、残念。もう、何もかも手遅れよ」


雨宮がそう言うと同時だった。ドームの外から、大勢の信者たちの、地鳴りのような詠唱の声が響き渡ってきた。そして、祭壇の上の金属円盤が回転を始め、夜香花の香りが一層強くなり、周囲の空気がビリビリと振動し始める。


儀式が、始まってしまったのだ。


ドームの壁に投影された幾何学模様が明滅し、詠唱の声と共鳴して、空間全体が巨大な共鳴箱と化したかのようだ。私の頭の中に直接響いてくる不快な音と、強烈な夜香花の香りに、意識が朦朧としてくる。


まずい。このままでは、私も彼らの術中に……。

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