第九章 瑠璃色の羽根と眠らぬ街の囁き

雨宮の狂騒が過ぎ去り、街は偽りの平穏を取り戻したかのように見えた。ニュースは新たなゴシップを追いかけ、人々の記憶からも、あの月蝕の夜の出来事は薄れ始めていた。だが、私の中では、何も終わってはいなかった。窓辺に置かれた一枚の瑠璃色の羽根。それが、見えない楔のように私の日常に打ち込まれ、新たな問いを投げかけ続けていた。


あの羽根は、一体何なのか。顕微鏡で観察しても、既知のどの鳥の羽根とも一致しない。成分を分析しようにも、サンプルが微量すぎて、私の粗末な設備では限界があった。ただ一つ分かったのは、その羽根から放たれる清涼な香りが、ごく微量ながら精神安定作用を持つらしいということだ。悪夢にうなされる夜、枕元に置いて眠ると、少しだけ寝覚めが良かった。


雨宮の事件の後処理は、依然としてくすぶっていた。逃走した信者たちの何人かは、奇妙な場所で保護されたり、あるいは不可解な事故に巻き込まれたりしているという噂を、暦さんから時折耳にした。彼らが残した「虚無の落書き」も、そのほとんどが消去されたが、一部のものは、いくら上から塗り潰しても、数日経つと再び浮かび上がってくるのだという。まるで、街そのものが、あの悪夢を記憶しているかのように。


そんなある日、私の安アパートのドアを、珍しい来訪者が叩いた。溝呂木さんだった。彼は相変わらずくたびれた様子だったが、その目には以前のような濁りはなく、むしろ微かな好奇の色が浮かんでいるように見えた。


「よう、嬢ちゃん。まだ生きてたか」

「お陰様で。何かご用ですか? また厄介事の匂いでも?」

「まあ、そんなところだ」溝呂木さんは、事務所で話した時よりも少しだけ改まった口調で言った。「実は、妙な相談が舞い込んできてな。お前の知恵を借りたい」


彼が持ち込んできたのは、ある若い女性からの依頼だった。その女性、名を倉持栞(くらもち しおり)というらしいが、ここ数週間、毎晩のように同じ悪夢に悩まされているという。夢の内容は支離滅裂で、断片的にしか覚えていないが、共通しているのは、夢の中で常に誰かに追われ、言い知れぬ恐怖を感じるということ。そして、朝起きると、現実でも夢の続きを見ているかのような感覚に襲われ、時には幻覚や幻聴に悩まされることもあるらしい。


「精神科医にも相談したが、ストレス性のものだろうと、ありきたりの薬を出されただけ。だが、本人はそんな単純なものじゃないと確信している。何より……」溝呂木さんはそこで言葉を区切り、一枚の写真を取り出した。ピンボケ気味の写真には、簡素なワンルームマンションの床が写っており、そのフローリングの上に、一枚の羽根が落ちている。


瑠璃色の羽根だった。


「依頼人の部屋で見つかったそうだ。本人は、どこで手に入れたのか全く覚えていないらしい」


私の胸が、微かに高鳴った。これは、偶然ではない。


「……その倉持栞さん、一度会って話を聞いてみたいですね」


翌日、私は溝呂木さんと共に、倉持栞のアパートを訪れた。彼女は、写真で見た瑠璃色の羽根と同じくらい、どこか儚げで繊細な印象の女性だった。目の下には濃い隈が刻まれ、明らかに睡眠不足の様子が窺える。


部屋は綺麗に片付いていたが、そこかしこにお守りや魔除けのようなものが置かれているのが目についた。そして、部屋の隅には、小さな祭壇のようなスペースが作られ、そこにも例の瑠璃色の羽根が数枚、大切そうに飾られていた。


「これらの羽根は……?」

「分からないんです。気づいたら、部屋の中に落ちていて……でも、これがあると、少しだけ悪夢が和らぐような気がして」


栞さんは、か細い声で答えた。彼女の話によると、最初に悪夢を見るようになったのは、ひと月ほど前。それとほぼ同時期に、部屋の中で最初の瑠璃色の羽根を見つけたという。それ以来、悪夢は徐々に酷くなり、羽根の数も少しずつ増えていったらしい。


「夢の中で、何か特徴的な場所や人物は出てきませんか?」

「……いつも、暗くて古い建物の中を逃げているんです。石造りの廊下とか、螺旋階段とか……そして、私を追ってくるのは、影のような、はっきりしない何か。でも、時々、その影が囁きかけてくるんです。『還っておいで』って……」


石造りの廊下。螺旋階段。そして、「還っておいで」という囁き。それは、どこかで聞いたことのあるフレーズのような気がした。「楽園」の記憶か、それとも……。


私は栞さんの許可を得て、部屋の中を詳しく調べさせてもらった。すると、窓枠の隅や、ベッドの下など、いくつかの場所から、微細な砂のような粒子が見つかった。それは、通常の埃とは明らかに異なる、どこか鉱物的な質感を持っていた。


「栞さん、最近、どこか古い建物や遺跡のような場所へ行ったりしませんでしたか?」

「いいえ、特に……ああ、でも、そういえば」彼女は何かを思い出したように言った。「ひと月ほど前、気分転換に、隣町の骨董市へ行ったんです。そこで、古い石の欠片のようなものを売っている露店があって……何となく気になって、一つだけ買って帰ったんです」


彼女が取り出したのは、手のひらに収まるほどの、黒曜石に似た黒い石の欠片だった。表面には、微かに何かの模様が刻まれているようにも見える。そして、その石からは、あの瑠璃色の羽根と同じ、清涼な香りが微かに漂っていた。


「この石……どこで手に入れたか、詳しく覚えてますか?」

「ええと……確か、店の名前は『刻(とき)の迷宮』とか、そんな感じだったような……店主は、少し変わった雰囲気の、年配の男性でした」


刻の迷宮。その名前に、私は引っかかるものを感じた。


その夜、アパートに戻った私は、栞さんの部屋で見つけた砂状の粒子と、黒い石の欠片を分析してみた。砂状の粒子は、特定の種類の火山岩が風化したものらしく、この近辺では産出しないものだった。そして、黒い石の欠片からは、やはり微弱ながらも、瑠璃色の羽根と同じ成分が検出された。


これは、単なる偶然ではない。あの羽根と、栞さんの悪夢、そして骨董市で売られていた石の欠片は、全て繋がっている。そして、その中心には、「刻の迷宮」という名の古物商と、謎めいた店主がいる。


私は、溝呂木さんに連絡を取り、その古物商について調べるよう依頼した。そして、私自身も、その「刻の迷宮」へと足を運んでみることにした。新たな謎の扉は、既に開かれているのだ。

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