第六章 羊皮紙の解読と孤独な共闘者

あのアパートの一室は、もはや安全な場所とは言えなくなった。黒い羽根の警告は、彼らが私の居場所を完全に特定し、いつでも踏み込めるという無言の宣言だ。だが、引っ越す時間も金もない。それに、逃げ隠れしたところで、根本的な解決にはならないだろう。


まずは、あの羊皮紙の解読が急務だ。『月蝕』『交わる地脈』『古き神々の囁き』『魂の収穫』――これらの単語を繋ぎ合わせ、彼らの「儀式」の全貌を明らかにする必要がある。


私は再び昏倒書房の暦さんを訪ねた。彼ならば、これらのオカルトめいた言葉にも何か心当たりがあるかもしれない。羊皮紙の写しを見せると、暦さんはいつもの昼行灯のような表情を消し、珍しく険しい顔つきになった。


「……これは、穏やかじゃないな。特に『魂の収穫』という言葉は、最悪の響きだ」

暦さんによると、過去にいくつかのカルト教団が、信者の精神エネルギーを搾取し、教祖の延命や、破滅的な予言の成就のために利用しようとした事件があったという。その多くは内ゲバや当局の摘発によって壊滅したが、一部の思想や技術は、水面下で生き長らえている可能性も否定できないらしい。


「『月蝕』は、おそらく次の月蝕の日を指しているのだろう。天文学的な現象は、古来より儀式の触媒として利用されてきたからな。『交わる地脈』というのは、この街の地下を走るエネルギーライン……龍脈が交差する場所のことだろう。そして『古き神々の囁き』……これは、その土地に古くから伝わる土着信仰や、忘れられた神々への呼びかけを意味するのかもしれない」


暦さんの言葉は、私の推測を裏付けるものだった。次の月蝕は、あと数日後に迫っている。残された時間は少ない。


「この『黒羽神社』や『魂の収穫』という言葉に聞き覚えのある人間、あるいは組織について、何か情報は?」

私の問いに、暦さんは腕を組み、しばらく考え込んでいた。

「……直接的な繋がりは分からん。だが、一つ気になる噂がある。かつてこの街に、『常闇(とこやみ)の社(やしろ)』と呼ばれる、極めて閉鎖的で過激な思想を持つ集団が存在したらしい。彼らは、古神道と西洋魔術を融合させた独自の儀式を行い、街の『浄化』と称して、不特定多数の人間の精神に干渉しようとしていたとか。十年ほど前に活動が途絶えたとされているが……」


常闇の社。その響きは、「楽園」の記憶の片隅に引っかかっていた、ある人物の名前を呼び覚ました。確か、雨宮(あまみや)と名乗る、植物学と古文書に異常なほど詳しい、痩身の女性研究者。彼女は「楽園」の閉鎖的な環境に疑問を抱き、外部の様々な思想や文献に触れては、独自の解釈を加えていた。その中には、古神道や西洋魔術に関するものも含まれていたはずだ。そして、彼女は「楽園」が解体される少し前に、忽然と姿を消したと聞いている。


もし、あの「先生」と呼ばれる人物が雨宮だとしたら? あるいは、彼女が「常闇の社」と何らかの繋がりを持っていたとしたら?


協力者が必要だ。暦さんのような情報屋とは別に、もっと直接的に行動を共にできる人間が。だが、こんな危険な話に、誰が乗ってくれるというのか。


私は、ある人物に連絡を取ることにした。彼は、元警視庁の刑事で、現在は場末の探偵事務所を細々と営んでいる、溝呂木(みぞろぎ)という男だ。数年前、ある猟奇殺人事件の捜査で、私は彼に情報を提供したことがある。その事件はオカルトじみた要素が強く、溝呂木は深入りしすぎた結果、上層部と衝突して警察を追われたと聞いている。彼ならば、この手の話にも多少の免疫と、そして個人的な「貸し」があるはずだ。


薄汚れた雑居ビルの一室にある溝呂木探偵事務所のドアを叩くと、中からくたびれた中年男が顔を出した。無精髭に、寝不足で充血した目。それが溝呂木だった。


「……何の用だ、嬢ちゃん。見ての通り、うちは暇じゃないんだがね」

明らかに迷惑そうな顔をする溝呂木に、私は単刀直入に本題を切り出した。羊皮紙の写しと、これまでの経緯を簡潔に説明する。最初は鼻で笑っていた溝呂木だったが、私が「楽園」の名前と、そこで行われていた「魂の収穫」の儀式について具体的に語り始めると、彼の表情が徐々に変わっていった。


「……本気で言ってるのか、それ」

「私が嘘をつくメリットがありますか? 溝呂木さん、あなたも過去の事件で、常識では計り知れない悪意に触れたことがあるはずです」


私の言葉に、溝呂木は深くため息をつき、タバコに火をつけた。紫煙が、薄暗い事務所の中に立ち込める。


「……分かった。話だけは聞こう。ただし、俺はもう、あんな馬鹿げた事件に深入りするつもりはない。あくまで、アドバイス程度だと思え」

「それで結構です」


私は、入手した情報――黒羽神社の図形、羊皮紙の記述、そして暦さんから得た「常闇の社」に関する噂――を溝呂木に提示した。彼は、鋭い目でそれらの資料に目を通し、時折、鋭い質問を投げかけてくる。さすがに元刑事だけあって、情報の分析能力は確かだ。


「『交わる地脈』か……この街で、そんな場所は数えるほどしかない。そして、月蝕の夜に、何らかの儀式を行うのに適した場所となると……」

溝呂木は壁に貼られた市街地図の一点を指差した。それは、かつて大規模な公園だったが、今は再開発計画が頓挫し、荒れ放題になっている「御影(みかげ)中央公園」だった。その公園の中心には、古い天文台の跡地があるという。


「ここだ。ここが、奴らの次の儀式の場所に違いない」


溝呂木の断言に、私は頷いた。彼もまた、この事件の異常性に気づき始めている。


「それで、嬢ちゃんはどうしたい? 警察にタレ込むか?」

「いいえ。それでは間に合わないし、おそらく信じてもらえないでしょう。それに……これは、私自身の問題でもあるんです」


私の言葉に、溝呂木は何かを察したように、黙ってタバコの煙を吐き出した。


「……手伝って、とは言わん。だが、もし、あんたが少しでも過去の事件にケリをつけたいと思っているなら……あるいは、この街が取り返しのつかないことになるのを、ただ黙って見過ごしたくないと思っているなら……」


私は、溝呂木の目を見据えて言った。


「力を貸してほしい、とは言いません。ただ、あなたが知っていること、できることを、私に教えてほしいんです」


しばしの沈黙の後、溝呂木は短く答えた。


「……いいだろう。ただし、これはビジネスだ。成功報酬は、後でたっぷり請求させてもらうぞ」


その言葉は、彼なりの覚悟の表れなのかもしれない。孤独ではないが、馴れ合いでもない。そんな奇妙な共闘関係が、その瞬間、生まれたような気がした。

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