第13話 決戦前夜、あるいは静かなる準備

「竜の寝床」での一件から数週間。リコリスの町は、表面上は平穏を取り戻していたが、その水面下では大きな何かが動き出している気配が濃厚に漂っていた。ギルド本部からは数名の調査官が派遣され、ギルドマスターのドレイクの執務室には連日人の出入りが絶えない。ギルド内の冒険者たちも、どこか普段より緊張した面持ちで依頼をこなし、酒場の喧騒も心なしか控えめになっているように感じられた。

「なんだか、ギルドの中もピリピリしてるね」

フィーリアは、いつものように簡単な薬草採取の依頼を終えてギルドに戻ると、受付のネリーにそっと声をかけた。

「ええ……フィーリアちゃんも感じる? あの洞窟で見つかった手がかり……どうやら、私たちが思っていた以上に厄介な相手みたいで……」

ネリーは声を潜め、不安げに眉を寄せる。

フィーリアは特に驚いた様子も見せず、「ふぅん」と相槌を打つだけだった。彼女自身、あの蛇の紋章や古代語の文献から、事態が簡単には収束しないだろうことは予期していた。ブレイブ・ハーツのレオンたちとも、時折顔を合わせれば情報交換をする程度の付き合いは続いており、彼らもまた、来るべき戦いに備えて訓練に励んでいるようだった。

そんな中、ドレイクからフィーリアに、内密の呼び出しがあった。

「フィーリア、お前に少し話しておきたいことがある」

執務室でドレイクは、一枚の羊皮紙をフィーリアの前に広げた。そこには、あの蛇の紋章が大きく描かれている。

「この紋章を持つ組織……どうやら『蛇の聖餐会(サーペント・サパー)』と呼ばれているらしい。古くから大陸各地で暗躍し、混乱と破壊を撒き散らしてきた連中だ。その目的は定かではないが、良からぬことを企んでいるのは間違いない」

調査官たちがもたらした断片的な情報と、フィーリアが持ち帰った古代語の文献の一部(専門家が解読を試みている最中だという)を照らし合わせた結果、蛇の聖餐会がこのリコリスの町周辺で何らかの大きな儀式を計画している可能性が浮上したという。

「この羊皮紙のこれ……もしかして、儀式の場所を示してる……? この記号、星の配置と関係がある、かも」

フィーリアは、以前ドレイクから写させてもらっていた文献のコピーと、夜空の星図を照らし合わせながら呟く。彼女の分析力と発想力は、時に専門の調査官たちをも驚かせることがあった。

その日から、フィーリアの日常は、より一層「準備」の色を濃くしていった。

ガンツの工房に入り浸る時間はさらに増え、彼女は黙々と新たな道具の開発と、既存装備の改良に没頭した。

「ガンツさん、この金属、できるだけ薄く、でも頑丈に加工できるかな? 投げナイフの鞘に仕込んで、奇襲に使えるようにしたいんだ」

「この薬草、乾燥させて粉にして、小さな袋に詰めて……うん、これなら目くらましになる、かも。あとは、ちょっとした煙幕も欲しいな」

ガンツは、フィーリアの真剣な眼差しと、彼女が生み出す道具の独創性に感嘆しつつ、その作業を黙って手伝った。彼の工房は、いつしかフィーリアにとって最も落ち着ける場所の一つになっていた。

完成したのは、より殺傷能力と隠密性を高めた投げナイフ数種類、ワイヤーの強度と射出速度を向上させた改良型ワイヤー射出装置、そして、様々な状況に対応するための小型のガジェット類――微量の麻痺毒を塗布した吹き矢の針、閃光を発して目を眩ませる小粒の爆ぜ玉、感知式の簡易音響トラップなど、そのどれもがフィーリアの実用主義と効率主義を体現したものだった。

工房での作業と並行して、フィーリアは自分の小さな部屋で、集めた情報の整理と分析、そして戦術のシミュレーションに時間を費やした。

壁にはリコリス周辺の広域地図や、嘆きの森、竜の寝床の詳細な見取り図(もちろん彼女が記憶を頼りに描いたものだ)が貼られ、そこにはオークの出現位置、蛇の紋章が発見された場所、古代語の文献に記されていた謎の記号などがびっしりと書き込まれている。

(蛇の聖餐会のアジトが、もしあの古い遺跡にあるとしたら……入り口は複数あるはず。一番警備が薄そうなのは……ここかな?)

(敵の数は不明だけど、少なくともあの魔術師クラスが何人かいると考えた方がいいよね。オークもまた操ってくるかもしれないし……)

(もし敵がこう来たら……わたしはこう動くのが一番効率がいいよね。この地形なら、こっちから攻めるのが有利、かな。でも、それだとレオンくんたちが動きにくいかもしれないし……)

彼女は一人、床に座り込み、小さな木の人形や石ころを敵と味方に見立てて動かしながら、様々な状況を想定し、最適な行動パターンを模索する。その姿は、まるで高度な戦略ゲームに没頭しているかのようだった。

ドレイクやネリー、ガンツ、そしてブレイブ・ハーツのメンバーたちは、そんなフィーリアの様子を遠巻きながらも気にかけていた。彼女がこれほどまでに周到に、そして冷静に準備を進めていることに驚きを隠せない。その小さな身体のどこに、これほどの知識と行動力が秘められているのか。しかし同時に、彼女のその並外れた能力と、何事にも動じない精神力に対する揺るぎない信頼も感じていた。

「フィーリアちゃん……本当に、すごい子だよね。あんなに小さいのに、私たちなんかよりずっと頼りになるんだから」

リリィが感嘆の声を漏らすと、レオンもティムも黙って頷いた。

フィーリア自身は、周囲のそんな評価を気にする素振りも見せない。彼女がこれほどまでに準備に没頭するのは、世界を救いたいとか、正義のために戦いたいとか、そういった高尚な理由からではなかった。

(……別に、誰かに頼まれたわけでもないし、ヒーローになりたいわけでもないんだけどね)

工房で、新しく作った投げナイフのバランスを確かめながら、フィーリアは心の中で呟く。

(ただ、これ以上面倒なのは、もうたくさんだから。早く全部終わらせて、静かにバイク……じゃなくて、道具いじりでもしてたいんだよね)

その動機は、あくまで自分のため。自分の平穏を取り戻すため。そして、そのためには、目の前の厄介事を最も効率的に、そして確実に取り除く必要がある。

その瞳の奥には、困難な状況に真正面から立ち向かう、鋼のような静かな覚悟が宿っていた。

リコリスの町を覆う張り詰めた空気は、決戦の時が刻一刻と近づいていることを、誰の目にも明らかにし始めていた。

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