音。
豆ははこ
音と雑誌。
えぐ。
あの音だ。
くしゃり。
しまった。つい。
雑誌の端。少し、折ってしまった。
いけない。ここの備品なのに。
めだつ皺にはなっていない。よかった。
なんとなく、スマホを弄ぶのは気が引けた。文庫本とかも持ち歩いてはいない。
雑誌でも、なんて考えずにただ座っているべきだったのだろうか。
えぐ。また。
隣の女性から出た音。
きっと、妊婦さん。
不織布マスクの下から聞こえた音。
聞こえていないよね、というように辺りを見回していて。
できるかぎり他人の耳に入れないようにという配慮。
どこかに『病気じゃないんだから』と言う人間でもいたのだろうか。
またくしゃりとしてしまいそうになり、指を握り締める。これでいい。
だとしたら、わたしにとっては羨ましいことではある。
それでも。きっと、そんなことは思われないのに。
睨んだ、と感じられたら、どうしよう。
不快な気持ちにさせたら、どうしよう。
いろいろ考えて、自分の中で迷走する。悪い癖。
わたしがここにいるのは、治療のための検査というよりも、その手前。ブライダルチェックというもの。
その名称から、結婚前にすることというイメージだったけれど。
調べてくれたのは夫。健吾という。
二人で、来た。そう、一緒に。
わたしは自分で決めて、ここにいる。
産科、婦人科。
看板も、何度も見ている。
待合室が同じであることを責めるのは、ちがう。
産科の妊婦さんと婦人科の検査の患者。どちらが、など。考えるまでもない。分かりすぎている。
そもそも、くしゃりとしたい相手は、妊婦さんではないのに。
『ゆずかさん、検査、しないの?』
笑顔で聞いてきたあの人。
会うたびに。
恐ろしいほどに穏やかな笑顔。
声も優しい。
悪意が、ない。悪意は、ない。
それは分かる。
でも、その笑顔で聞かれたほうは。
『たまに会うくらい、よくない?』
そんな、よくあることなのかも知れない夫からの誘いではない。それは、ちがう。
「
わたしの実家のほうが気楽で好きだと言って憚らない、健吾。
それなのに、わたしが頼んで。
辛うじて、たまに、になるくらいの頻度で。
そう。あちらに行くことを求めたのは、わたしなのに。
「無理しなくていいよ? 母さん、つきあいにくいでしょ。大学入って一人暮らししてからは、僕もほとんど帰ってなかったんだ、ほんとうだよ。うちはね、
結婚の挨拶の前から、ずっと。
「二人がなかよしで健康なら、それでいいのよ。しばらくは二人で過ごしなさいな」
「そうだな、あとのことはあとで、だ。電話やメールくらい、たまにはくれよ」
健吾がいちばん喜ぶ朝昼兼用の食事。それは、ゆで玉子をのせたインスタントラーメン。
玉子は、固ゆでだったり、半熟だったり、いろいろ。
野菜は、そのときあるものがのせられる。
「ありがとうございます、いただきます」
「めしあがれ。健吾君のために、俺が作ったんだよ。俺が。豆苗もうちで伸びたやつだぞ。俺が切った。新鮮だ」
いただきますと健吾が言い、父がどや顔をする。それだけは、いつも一緒。
「今度の玉子はなにゆでかしらね」
「ね」
母とわたしは、二人で笑う。
このときの野菜は、豆苗だった。
台所の窓際。父が育てたもの。
食べ終えて、根と茎を水に浸けてタッパーに入れられた豆苗は、再びの役目を誇るかのように、小窓からの日ざしを浴びて新芽を伸ばしていた。
あちらでは、日帰り。泊まるのは僕が嫌だからと。
そこまで、それまで、なのに。
『同居もしないくせに、会いにも来ない』
あの人に、そう思われたくなくて。
えぐ、えぐ。
あの音。
あれは、いつからだったろう。
そのうちに。
あちらから、二人の家に戻ったあと。
こっそりと吐いていたとき。
えぐ、えぐ、えぐ。止めなきゃ。
えぐ、えぐ、えぐ、えぐ。
止まらなかった。
「ゆずか。やっぱり、頑張ってくれてたんだね。ありがとう。もういいから。あと、一度だけ。次を最後にしよう」
無理して、じゃなくて、頑張って。
そう言われたあとの
たまたま、あの人と二人きりになったとき。
「検査とか、ちゃんと考えてる? いつも言ってるでしょう? ちゃんと、はだいじよ」
「このお菓子、美味しいのよ」と、同じ口調。
えぐ。
お手洗いをお借りします、も言わずに立ち上がっていた。
『幼稚園のときね、畳の端、
毛羽立ちやささくれのないきれいな畳は、あの人の内。
そして、端。縁はきっと境界線だ。
園児だった頃の息子がそこを踏む。それを、しつこく叱る人。
とにかく、ここから出ないと。
焦っていたとき、声がした。
声は、二人分。
「いつも、なんだ」
「いつも、ならなおのこと。健吾にもそう言うべきじゃないか?」
障子の向こうに、二人が居た。
初めてきちんと見ることができた障子の柄。それは、木の芽だった。
日の光で、透けていた。
「そうだね、そのとおりだ」
障子を開けて、健吾が言う。
畳の縁を踏んで。
境界線を超えて。
「どうしたの、二人揃って。奥にいたんじゃないの? それにしても、そんな怒った顔で、おかしいわ。孫を見せるのはあたりまえだし、検査なんて、健吾には必要ないでしょう? 男の子なのよ?」
不思議そう、という表情。
「それに、ね。お友だちはみんな、孫の写真、見せてくれるのよ?」
あたりまえ。
男の子なのよ。
見せてくれるのよ。
なにかを言ってやりたい気持ちはあった。
えぐえぐえぐえぐ。
口を開いたら出てくるものは、なんなのかが。
分からなくて、黙っていた。
「分からないなら、もういい。ゆずかさん、大丈夫だから。健吾、もう、ここには来なくていい。来たくもないだろう?」
「そうだね。もともと、僕は来たくなんかなかった。気を遣ってくれてたんだよ」
僕は。
内では、いいように変換されてしまうのかも知れない。
それでも。
「これからは、無理しなくていいから。二人が健康ならそれでいい。連絡は、私がするから気にしなくていい」
「ありがとう、父さんも元気で。父さんは、うちに来たいときは僕に連絡して」
「ああ、そうさせてもらう」
二人の言葉は、ちゃんと聞こえた。
ぎゃあぎゃあと、なにかを叫んでいたあの人を、いないように扱って。
健吾と二人で、玄関を出た。
帰宅後すぐに、いろいろ探してくれて。
まずはこれからだね、とブライダルチェックを勧めてくれたのだ。
『結婚のご予定のある方、ご夫婦またはパートナー同士に』
スマホの表示。驚いた。二人で。
「健吾も?」
「え、僕が先に話聞いて、検査してでもいいけど。一緒のほうが、なんだか嬉しくない?」
一緒。
そう、ここに来たいと思ったのは。
一緒が、嬉しかったからだ。
「予防接種でお待ちの……」
院内のアナウンスが流れた。
「はい……です」
ああ、この妊婦さんは。
つわりで体調が悪いとか、いろいろあっても。
「……お母さんもお子さんも、予防接種ですね。どうか、お体にお気をつけて」
しまった。思ったことがそのまま口に出てしまった。怪しいかも知れない。いや、これは、そうとう怪しい。
どうしよう、どうしよう。
「……はい、そうなんです。ありがとうございます」
笑ってもらえた。
よかった。
握った拳を開くと、汗ばんでいた。
爪あとが、うっすらとしている。
「僕のほうは終わったよ。ちゃんと提出できた」
消えていく爪あとを見ていたら、健吾が戻ってきた。
「おつかれさま」
なにを提出。わざわざ聞くことではない。
健吾は昨日、採血を終えている。
提出したら、あとは待つだけ。
検査項目は、わたしのほうが多い。
「周りに立ってる女性がいないから座るけど。もちろん、みえたら代わるよ」
少し離れた席では、荷物もひとり分の座席に置いて座っていた男性が荷物を膝にのせかえていた。
健吾のこういうところが好きだ。
「これくらいなら大丈夫ですよ。普通に読んで頂いても折りあとは付きますから。ご丁寧に、ありがとうございます」
検査を終えて、受付で結果を伺うための次回の予約枠を二人分で取り、雑誌のことを詫びた。
場合によっては、弁償するつもりだった。
「ちょっとだけ、いい?」
ラックに返す前。雑誌を健吾に渡した。
「なにか、気になる?」
正直、なにが書かれていたかはよく覚えていなかった。
丁寧に頁をめくる健吾の、きれいな爪。
ある頁で、爪が止まった。
「胎の、芽だって」
芽。
わたしにしか聞こえない、小さな声だった。
初期の妊婦さんの様子の図。そこには
赤ちゃんは、胎児。そこに至るまでの呼びかただという。
「ほんとうだ。胎の芽だね」
わたしは、笑っていた。
あのとき。健吾が、お義父さんと一緒に、境界線を超えてくれたときに。
芽の柄を見たことを、思い出していた。
『ごめんなさい』
頁の端に触れながら、謝罪する。
あの妊婦さんには、言えないから。
「次もまた、健吾と一緒に来たい。いい?」
「もちろん」
結果は、まだ分からない。
次の検査に進むことにとか、もしかしたら、治療が、になるのかも知れない。
それでも。
わたしはまた、健吾と一緒に来たい。
そう思いながら、妊婦さんたちの座るところをすり抜けるように移動していたら。
「孫の顔を見せるのは、あたりまえよねえ。申し訳ないわ」
「それぞれ、いろいろっすから。俺たちは、大丈夫なんで」
義母らしき人を座らせ、自分は立ちながらで会話をしている男性がいた。
たぶん、わたしたちよりも少し若い。
通り過ぎようとしたとき。
ブラインドに少しだけ隙間があったようで、眩しさから一瞬だけ、わたしの歩みは止まった。
「平気?」
「うん」
心配そうな健吾の顔。
きちんと、見ることができた。
あの音は、もう、聞こえない。
音。 豆ははこ @mahako
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